第22話 蛇トリーテッド②
透子たちの姿はない。
秋人は、絵里奈に腕を引かれたまま、会場の一角まで連れてこられた。
巨大なホールの中には、所狭しと企業ブースや機材の展示が並んでいる。
教授の本を買おうとして、売り切れを嘆く男の姿もある。
そんな人の流れの中で、絵里奈がふと足を止めた。
「……あの子、いないかな」
秋人は視線を上げた。
「あの子? 衛生士学校時代の友達でも来てんのか?」
「違いますよー」
絵里奈はブースの奥をキョロキョロと覗き込んでいる。
「あぁ、そういえばさっきの竜崎さんみたいに、歯医者に関係ないやつも紛れ込んでるんだっけか。……いや、よく考えたら俺も全く関係ない部外者だし!」
「なーに一人ツッコミしてるんですか」
絵里奈はさらに周囲を見回した。
「彼、見た目が派手で目立つから、居たらスグ分かると思うんですよねぇ」
秋人の動きが、ピタリと止まる。
「え?」
彼? 男?
一瞬、絵里奈の「彼氏」という妙な想像が、秋人の頭をよぎる。
「……いやいや、そういうんじゃ」
それなりに胸の奥をざわつかせた。
だが絵里奈は秋人の心中など気にした様子もなく、小さく息を吐いた。
「やっぱ来てないかぁ。残念」
秋人は、変な汗をかきながらぎこちなく頷く。
「そ、そ、そ。それは……残念……だったな」
「なんで秋人が一人で動揺してるんですか。キモいですよ」
絵里奈は冷たく言い放ち、頭上の案内板を見上げた。
「んー。アタシも何か聞きにいこっかな。ランチョンセミナーだし」
「ランチョン? なんだ、その間抜けそうな言葉……」
秋人が眉をしかめる。
「歯科用語はさっぱり分かんねぇし」
「はぁ。国立大学生って、一般常識もこのレベルなんですか?」
絵里奈がわざとらしく肩をすくめた。
「ランチョンセミナーは、企業が提供してくれる『お弁当』を食べながら聞けるセミナーのことですよ。ランチとセミナーが合体してるんです。常識です」
その瞬間。
秋人の目がギラリと光った。
「お弁当……だと?!」
「今回のテーマは、最新の衛生士業務と予防歯科についてですよ。秋人は全く関係ないです」
「何を言ってるんだ、お前は」
「ちょっと秋人」
慣れないスーツをびしっと決めて、男はきっぱりと言い切った。
「俺も最新の衛生士業務に興味がある。歯を大切に、だ」
「は? 食べる為に行く、って顔に書いてるし」
絵里奈は特大のため息をついた。
「でも……確かに。ある意味、それが歯科業界の本質だけど……」
絵里奈はブツブツと文句を言いながら、お弁当目当てで突進していく秋人の後を渋々追った。
◇
そして。
ランチョンセミナーが始まった。
豪華な幕の内弁当とお茶が配られ、参加者たちは円卓の席につく。
演壇に立つ講師は、西刃神市保健所の所長、与那国明夫という初老の男だった。
最新の歯科衛生士の雇用体系やら、近年の県が行う健康検診やら
その講演は――
「……2.5%の改善が見られ……それから……保健所からのお知らせを年に二度……」
秋人にはピンとこない内容だった。
だが、それだけでは説明がつかないほど、念仏のような講演。
とにかく、信じられないほど退屈だった。
秋人は弁当の蓋を開けたまま、箸を持たずにぼんやりと中身を眺めている。
「……どうして食べないんです?」
「俺はてっきり、唐揚げと焼肉がドカンと乗った弁当かと思ったからだよ」
秋人は箸で、色鮮やかな焼き魚の切り身をつついた。
「こんなお洒落すぎて上品な弁当、今の俺の暴れ狂う胃袋には響かねぇ」
「とかなんとか言って。ただ朝、バイキングで食べ過ぎただけでしょ」
「絵里奈も全然食べてないじゃんか。俺のことバカにして、本当はお前もバイキングのケーキでテンション上がってたんだろ?」
「失礼な! スイーツの全種類をコンプリートしただけです!」
──結局、二人ともその上品な弁当にはほとんど手をつけなかった。
周囲を見渡せば、会場を埋め尽くす参加者のほとんどが女性。
歯科医院の現場を支える、若い歯科衛生士や助手たちだ。
「これ、すごく美味しい!」
「有名ホテルの仕出し弁当だって。豪華だねー」
あちこちから華やいだ声が聞こえる。
皆、配られた弁当を美味しそうに平らげていく。
与那国の退屈な講演
そんなのそっちのけで、働く女性たちは和やかに食事を楽しんでいた。
だが。
その頃から、だ。
会場のあちこちで異変が起きる。
異変と言っても──
「……ふぁ。なんか、食べたら急に眠くなっちゃった」
「……私も。ちょっとだけ、目、つむろっかな……」
そんなひそひそとした囁き声。
アルファ波のように広がったかと思うと、参加者たちが、次々と机に突っ伏し始めた。
皆、一様に眠っていた。
演壇の与那国は講演を止め、不機嫌そうに眉をひそめた。
「こ……これは、どういうことだ」
与那国の表情が、一瞬だけ強張る。
「き、きっと弁当だ! 食中毒か何かの可能性があります! 職員に調べさせる!」
与那国はホールの後方に立つスタッフを指差した。
「君! 弁当に異常がないか、至急確認してきなさい!」
中年の男が壇上で激高する。
だが、会場はパニックになるどころか、奇妙なほど静かだった。
「いや、どう考えてもアンタの話がつまらなかっただけだろ」
後方の席で、弁当を食べていなかった秋人が呆れたように乾いた笑いを上げる。
「ちょ……聞こえちゃうでしょ」
場外からスタッフやら、ボランティアの大学の生徒が姿を現した。
「え……ええっと」
「と、とにかく私の講義のせいじゃない。い、急いで調べるんだ」
◇
ランチョンセミナーは何事もなく閉幕した。
スタッフが全員に声掛けを行うと全員が起きたのだ。
会場の全員が目を覚まして、食中毒の証拠や嘔吐などの症状は出ない。
参加者たちは、ただの「居眠り」として、気にすることもなく、興ざめして他の会場に移動した。
そこに二人の姿もあった。
「次は唐揚げ弁当にするべきだ。あれは絶対にメインが間違ってる」
「学会はコンビニじゃないんですよ」
肩透かしな結末を迎えたランチョンセミナーを終えた二人は、ホテルの広々としたロビーで、枢木院透子と合流した。
透子は珍しく、少しだけ満足そうな、充実した顔つきをしている。
「どうでした? 先生の方の発表は」
「最高だったわ。いろいろと有意義な情報交換も出来たし、最新の治験データも手に入った」
絵里奈の問いに、透子は小さく頷いて答えた。
その後ろで、秋人は大きすぎる欠伸を噛み殺しながら無遠慮に口を挟む。
「それで? この後はどうするんですか? もう今日のプログラムは終わりですか?」
「そうね」
透子は少し考えてから、赤いメガネのブリッジを細い指先で押し上げて言った。
「せっかくだし、夕食をご馳走するわ。学会の収穫祝いよ」
その瞬間。
秋人の顔にパッと後光が射したように輝いた。
「マジで!? やったぜ!!」
透子は淡々と答えるが、絵里奈は底なしの胃袋を持つ男を呆れたように見てため息をついた。
「先生、ハングリードッグに餌付けしちゃ駄目ですよ。調子に乗ります」
「餌付けってなんだよ。犬でもねぇし! とは言え、だ。タダで美味いもん食べさせてもらえるんなら、俺はいつだって言うこと聞くぞ」
「……完全に犬じゃん」
◇
そして、夜。
三人は再開発で賑わう駅前の喧騒を抜け、裏路地にひっそりと店を構える、一見さんお断りの高級寿司店に入っていた。
白木のカウンター越しに、職人気質の大将が握る美しい寿司が、次々とテーブルに運ばれてくる。
だから、秋人は透子と絵里奈の会話に一切参加していなかった。
ウニ、大トロ、イクラ、アワビ。
普段なら特上の出前セットでしかお目にかかれないような極上のネタを、味わう。
というよりは機械的な作業のように、ひたすら無言で胃袋へ放り込んでいる。
彼の横には、空になった高級皿がジェンガのように高く積み上がっていた。
「で、鷲羽山教授の講演、どうでした?」
絵里奈が小声で尋ねると、透子は少し考え、湯呑みの温かいお茶を一口飲んだ。
「相変わらずね。ご自身の探求にどこまでもストイックな方だったわ」
秋人はその真面目な話を聞いているのかいないのか、黙々と食べ続けている。
時価のウニの軍艦が二貫、一瞬にして秋人というブラックホールへ消え、また皿が一枚空いた。
透子は、その恐ろしい勢いで伸びていく皿のタワーを見て、深々とため息をついた。
「……それにしてもよく食べるわね。店の選択、完全に間違えたわ。これなら安物の焼肉食べ放題にでも放り込んでおけばよかった」
「だから言ったじゃないですか。素直に食べ放題のお店にするべきでしたね」
絵里奈がお茶をすすり、秋人を白い目で睨む。
そして、彼女の視線はすぐに透子に戻った。
「で、嫌な事でもあったんですか?」
「……そうね。先生も私と同じことを仰っていたわ」
「あー……ってことは。そっちの話……ですか」
いつものピンクのナース衣ではなく、フォーマルなスーツ姿の絵里奈。
彼女は、堅苦しそうに裾を引っ張りながら溜め息を吐いた。
透子はもう一度、お茶をすする。
「そうなるわよ。それで絵里奈は?」
「……はい。アタシも、やっぱり『疼き』ます」
隣には、高級寿司を限界まで平らげ、満足げに腹を抱える男。
彼の視線が、漸く神妙な顔つきの二人の視線を捉えるが、
「そろそろ出ましょう。まだ明日の午前も学会は続くわよ」
「学会ねぇ。改めて考えると、部外者の俺は参加しなくていいような」
「また、明日。朝の超豪華バイキングがあるのだ」
「俺もある意味で歯科関係者なのだ! 勉強、勉強!」
この場は無事に、透子の財布も無事に、閉幕した。




