↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
俺の犬歯が疼きやがる ~保険の利かない戦いがここにある~  作者: 乙女座の一等星
十二支との戦い・前編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
21/60

第21話 蛇トリーテッド①

 大学は夏休み。


 夏の夜気は、不快な湿気を帯びてねっとりと肌にまとわりつく。


 だが、その男は空調のスイッチを入れようとはしなかった。

 西刃神市にある、学会の会場を兼ねた巨大ホテルの小さな一室だ。

 男は薄暗い部屋の中で、窓際からじっと夜の街を見下ろしていた。


 眼下の巨大な交差点では、無数の車のヘッドライトが、アスファルトという血管を流れる赤血球のように光の帯を作っている。

 男は、恨めしそうに、あるいは次の獲物を探すように、冷え切った爬虫類のような瞳でそれらを舐めまわすように睨んでいた。


 ――ごそ、ごそ。


 男が体を動かすたびに、皮膚の下で何かが蠢き這い回る。

 脈打つような、湿った不気味な音が鳴る。


 まるで冷血動物のように、自ら熱を生み出せない体が、夏の夜の空気を這うように、じっとりと熱を求めている。


 その男はゆっくりと振り返る。


 部屋の奥、小さなテーブルの上。

 明日のランチョンセミナー用に準備された、ミネラルウォーターのグラスとピッチャーがいくつも並べられていた。


 男は音もなく忍び寄り、そのピッチャーの一つに手を伸ばす。


 ポケットから取り出したのは、医療用の小さなアンプル。


 指先で器用に蓋を割り、傾けても何も零れない。


 それは、空っぽのプラスチックの容器。


 ――シィィ……


 無色透明な液体が一滴、ツーッと垂れて、水の中へ完全に溶け込むように落ちた。


 男はすぐにアンプルをしまい、またゆっくりと歩き出す。

 数歩進んだところで、ふと振り返った。


 その時だった。


 ポタ……


 毛足の長いカーペットが呑み込むには十分すぎるほど、小さな音。


 男はそれを気にする素振りも見せず、ごそごそと不気味な音を立てながら、


 部屋の暗がりの中へ完全に溶けていった。



 翌朝。


「うおーーーーっ! 食いまくるぞー!!」


 ホテルの最上階にある豪華な朝食会場に、犬塚秋人の野性味あふれる叫び声が響き渡った。

 手にはすでに特大のビュッフェ用平皿。

 和洋中の料理がズラリと並ぶ長いテーブルを見渡し、その目は完全に「狩猟者プレデター」のそれになっていた。


「……まるで育ち盛りの中学生ですね。見てて恥ずかしいです」


 少し離れたテーブル席で、古川絵里奈が心底呆れた顔で大きなため息をついた。


「先生、いいんですか? あんなの野放しにして。品がないですよ」

「酔いも何もないわ。ホテルの宿泊費に組み込まれた正当な食い放題よ」


 枢木院透子は、優雅にコーヒーカップを片手に平然としている。


「私と絵里奈の貧弱な胃袋じゃ、どう足掻いても五千円分の元が取れないじゃない。彼には限界まで頑張ってもらうわ」


 透子はそう言ってブラックコーヒーに口をつけ、ふと、料理を貪り食う秋人の横顔を冷ややかに見つめた。


「……それに。わざわざ自腹で部屋を一部屋増やしてまで、あの犬をここまで連れてきたのよ。元くらい取ってもらわないと割に合わないわ」

「え? 先生、秋人の部屋代も出したんですか? 荷物持ちなら夜行バスで日帰りさせればよかったのに」

「彼は、犬だからね」


 透子の眼鏡の奥の瞳が、僅かに細められる。


「あ……そういうことですか」

「ただの杞憂で終わればいいけれど」


 二人がそう言っている間。

 秋人は既に厚切りのローストビーフからスクランブルエッグ、山盛りのベーコンまで、ありとあらゆる料理を地層のように積み上げて席へ戻ってきていた。


 そして数分後。


 エベレストのような山盛りだった皿は、あっという間に綺麗に空になり、秋人は目を爛々と輝かせてまた立ち上がる。


「まだまだーっ! 次は海鮮丼だ! 五百万円分食ってやるっ!」


 再びバイキングの戦場へと駆け出していく。

 透子と絵里奈は、その逞しすぎる背中を見送りながら、苦笑いを浮かべた。

 他人の顔をして、優雅に学会の話をしていた。


「お昼から、先生の恩師の特別講演があるんですよね」

「ええ。鷲羽山(わしゅうざん)先生は、発生学の世界的権威よ。どのお話をなさるのは楽しみね」


 そんな真面目な会話の最中にも、秋人は皿を二枚に増やして戻ってくる。


 猛烈な勢いで平らげ、そしてまた立ち上がる。

 透子と絵里奈は、流石に顔を見合わせた。


「……っていうか」


 絵里奈が、秋人の背中を指さす。


「これ、朝バイキングなんですけど。昼も夜も食べない気ですか、ね?」

「ハングリードッグなのよ、きっと。可哀そうに、満腹中枢が壊れてるのね」


 透子は淡々と答え、ブラックコーヒーをすすった。


「四百万の借金の支払いを催促してご飯を抜かせたりとか、そういうパワハラはしてないんですけどねー」


 秋人はもう会話に参加する気すらない。

 ただひたすら、限界までカロリーを摂取することだけを目的に、本能のまま食べ続けていた。



 朝食後、三人は学会のメイン会場である大ホール前へと向かった。

 エントランスロビーの奥では、朝からちょっとした人だかりができている。


 中心に立っていたのは、白髪の混じった柔和な顔つきの老人だった。

 全国から集まった研究者たちが次々と頭を下げる。


 鷲羽山教授が執筆した分厚い専門書を差し出し、サインや握手を求めている。

 教授は一人ひとりに穏やかな笑みを浮かべながら、丁寧に万年筆を走らせていた。


「くそ……。俺も本を持って来れば……」

「企業ブースで買ってこよっかな」


 若い歯科医師や大学の研究者たちは、少し離れたところから畏敬の念を持ってその様子を眺めている。


 透子はその人だかりの前で立ち止まる。

 その静かな視線に気づいたのか、老人が不意に顔を上げた。


「おやっと」


 老人は周囲を取り囲む人々を見回し、穏やかな声で言う。


「すまないが、少し失礼するよ。本を買ってくれるなら、いつでも持ってきなさい」


 それだけで、モーゼの海割りのように自然と道が開いた。

 老人は真っ直ぐに、透子の前まで歩いてくる。


 いつもの白衣ではなく、スーツ姿の透子はスッと頭を下げる。


「久しぶりだねぇ、枢木院君」

「お久しぶりです。鷲羽山教授」


 透子は深く敬意を込めて、もう一度頭を下げた。

 絵里奈も慌てて、ピンと背筋を伸ばして続く。

 秋人だけが、満腹でぼんやりと天井を眺めていて一瞬遅れた。


 絵里奈が横から秋人の後頭部を鷲掴みにし、ぐいっと強制的に下げさせる。


「し、失礼しましたっ!」

「いてっ! 何すんだよ!」


 秋人が文句を言いながら顔を上げると、絵里奈が小声で凄んだ。


「ここに来る前から説明したでしょ! 世界的権威なのよ!」


 鷲羽山はくしゃっと笑った。


「おいおい、よしてくれ。私より若くて優秀な才能を持つ教授が、今ではゴロゴロおるんだよ」


 教授は自嘲気味に肩をすくめる。


「それに権威ったって、私の研究なんてマニアックで古臭い基礎研究ばかりだ。たまたま、遺伝子研究のスポットに当たっただけだ。運が良かっただけなんだよ」


 そこで透子の視線が、ふと老人の斜め後ろへ流れる。


 老人の背後には、長身の若い男が一人いた。


 先ほどまで、周囲の研究者たちとひときわ愛想よく笑い合い、流れるような手つきで名刺交換をこなしていた。


 でも、教授が動くと彼もいっしょに動いた。


 一見すると非常に社交的で爽やかな青年だ。

 だが、ふとした瞬間に見せる仕草がどこか奇妙だった。


 僅かに周囲の空気を探るような、まるで獲物を嗅ぎ回るような、異様な油断のなさが垣間見えていた。


 すると透子の視線に気づいた老人は、軽く肩をすくめた。


「そうか。竜崎くんとは初めましてだったかな」


 鷲羽山が振り返って紹介する。

 男はすぐに人懐っこい笑みを浮かべ、透子たちに向かって名刺を差し出した。


「竜崎大地です。私は歯科医師ではありませんので……。少々、居心地が悪く……どうか、お見知りおきを」


 言葉遣いはとても弱弱しく謙虚だった。

 だが、へりくだった気配ではない。


「考古学専攻……。それで教授の下に?」

「はい。私も人間の進化というものに、深く興じる者ですので」


 丁寧な口調と振る舞い。

 だが、名刺を差し出すほんの一瞬、その奥の目が、透子と秋人を品踏みするように鋭く観察していた。


 すると、秋人が目を丸くする。


「へ……? 学会にいるのに歯医者じゃないの?」

「大学の研究員が皆、歯科医師の免許を持っているとは限らないのよ。基礎研究の分野ではよくあること」


 透子が静かに説明し、それから絵里奈へ視線を送る。


「絵里奈。犬をあっちに連れてって。専門的な話の邪魔よ」

「はい!」


 絵里奈が即座に秋人の腕をがっちりと掴む。


「秋人、ステイ!」

「ワン! じゃなくて、待ってどうするんだよ! っていうか、犬扱いすんな!」

「犬ではないのだ」

「それだけはやめろ」


 ギャーギャーと騒ぐ二人は、そのままロビーの奥へと消えていく。

 鷲羽山は微笑ましくその背中を一瞥し、そして透子に向き直ってゆっくりと歩き出した。


 そして長身の男。


 竜崎は体温の引いた顔で、酷く冷たい視線を流して、師弟の後を追った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。