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俺の犬歯が疼きやがる ~保険の利かない戦いがここにある~  作者: 乙女座の一等星
十二支との戦い・前編

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第18話 辰ディジーザー①

 茜色に染まり始めた夕暮れ時。

 紙凪魅兎がぺこりと深く頭を下げ、枢木院歯科医院の急な坂道をゆっくりと下っていった。

 夕方の柔らかな光の中で、小柄なその背中が少しずつ小さくなっていく。

 彼女の口元には、透子が用意した、真新しい前歯のブリッジが、違和感なく収まっていた。

 ウィーン、と自動ドアが静かに閉まり、待合室に日常の静寂が戻る。


「送らなくていいの?」


 振り返ると、受付カウンターにもたれかかった絵里奈が、獲物を狙う小悪魔のようににやにやと笑っていた。


「……そういうんじゃねぇし。ただの患者だからな」

「へえ。前歯のブリッジまで入れてあげたのに?」

「だから治療だっつの。っていうか、透子先生がやったんだろ」

「四百万の治療費を肩代わりした、大層な患者なのに?」

「それは俺の借金だよっ! 思い出すだけで胃が痛ぇんだっ!」


 秋人は深くため息をつき、どかっと乱暴に待合室の革張りソファに腰を下ろした。

 壁掛けのテレビでは、夕方のニュース番組が淡々としたトーンで流れている。


『――続いてのニュースです。最近、各地で野生動物の異常行動が相次いで確認されています。専門家は環境変化の影響を指摘しており……』


 野生動物の異常な行動。

 秋人は画面をぼんやりと眺めながら、独り言のようにぼそりと言った。


「……最近こういうの、多くないか」


 絵里奈がカウンターから身を乗り出し、楽しげに指を折りながら数え上げる。


「ですね。先ずネズミ、それから牛、そして虎。あとは今回の紙凪魅兎――兎」


 ソファの背もたれに預けていた秋人の手が、ピタリと止まった。


 待合室に、奇妙な空白が落ちる。


「……」

「……」


 秋人が勢いよく顔を上げ、絵里奈を指差した。


「それ、十二支じゃね?」


 絵里奈は驚く——どころか、やれやれと呆れたように深々とため息をついた。


「今頃気付いたんですか。遅すぎます」

「いやいや、気付いたとかじゃないだろ」

「ね、うし、とら……」

「ぐ……偶然だろ。たまたま動物が被っただけで」

「綺麗に順番通りに並びすぎです。少しは疑うということを知ってください」


 秋人が腕を組み、怪訝な顔で天井を仰ぐ。


「じゃあ……次は辰——たつ、か? 順番通りだとドラゴン……ありえないし」


 だが、その瞬間。

 絵里奈の顔からスッと表情が消えた。


 整った顔だちで、完全な真顔になった。


「男は、もっとロマンをもつべきなのだ」


 テレビの音だけが漏れる。

 秋人は半眼で、ピンク衣を睨みつけた。


「ってか、その喋り方なんだよ!」


 秋人がツッコミを入れるが、絵里奈は瞬き一つせず


 無表情のまま人工的なトーンで言葉を返した。


「歯医者は怖いのだ。チャンネル登録よろしくなのだ」


 そして秋人は目をひん剥いた。

 その機械的な口調と、どこか間抜けなフレーズ。


 彼には、嫌というほど聞き覚えがあった。


「まさか、お前……俺の」

「登録者が十数名しかいなくて、いつまで経っても収益化できないのだ。可哀想なのだ」


 絵里奈が淡々と容赦のない事実を言い放つ。

 それは、間違いない。


 秋人がひっそりと運営している底辺オカルト解説チャンネル。

 解説役として使っている、定番のフリー人工音声キャラクター


 『エダマーメン』の口調そのものだった。


「やめろ! なんで底辺チャンネルまでご丁寧にチェックしてんだよ!」

「辰と言えば龍。十二支で唯一の幻想生物なのだ。かっこいいのだ」

「だからその声で喋るな! 俺のメンタルがゴリゴリ削られる!」


 顔を真っ赤にして怒鳴る秋人を完全にスルーし、絵里奈はエダマーメンの真似を続ける。

 秋人は頭を抱え、やがて諦めたように顎に手を当てて、真剣な顔で考え込んだ。


「……っていうかさ、龍って言っても現実にはいないだろ。年賀状の辰年のイラストって、大体タツノオトシゴじゃね?」


 数秒の、ひどく冷ややかな沈黙。


 絵里奈は、心底軽蔑したような目で秋人を見下ろした。


「……男は、もっとロマンをもつべきなのだ」


 ——その瞬間だった。


 ――ズゥン。


 床がわずかに、しかし内臓を揺さぶるような重々しい響きを伴って揺れた。


「地震か?」


 秋人が立ち上がりかけた直後

 テレビの画面が、スタジオのキャスターから突然切り替わった。


『現場から緊急中継です! 現在、山間部で大規模な土砂崩れのような現象が起きており――あっ! カメラ、あそこを映して!』


 ヘリコプターからの空撮映像だろう。

 ズームされたカメラのピントが激しくブレている。

 やがてピントが合った画面の奥。


 山の斜面の向こうで、ビルほどの高さがある「巨大な爬虫類の影」がゆっくりと動いた。


『え……? ド、ドラゴン!? じゃなくて、あれは……ティラノサウルス!?』


 その画面の隣には女医がいた。

 いつの間にかスタッフルームから出てきていた透子だ。

 彼女が、白衣のポケットに両手を入れたまま、テレビ画面を見上げて静かに言った。


「いえ。あれはアロサウルスね」


 秋人が勢いよく振り向く。


「いや、ツッコむのそこ? ティラノサウルスもあろ?サウルスも、どっちも同じだろ! デカいトカゲじゃねえか!」


 すると、絵里奈が真顔のまま即座に透子の言葉に訂正と補足を入れた。


「秋人さん、同じではありません。そもそも獣脚類はトカゲではありません」

「はぁ?」

「鳥……」

「鳥ってことは」


 数秒の沈黙。


「……男は、もっとロマンをもつべきなのだ」

「だから、それは止めろしっ!」


 更に数秒。

 絵里奈はピンクの裾を引っ張って、続けた。


「とにかく。アロサウルスはジュラ紀後期の大型肉食恐竜です。前肢の指が三本あるのが特徴です」

「そうなのかよっ! って、なんでそんな詳しいんだよ!」

「父が化石のコレクターなんです。ちなみに、ティラノサウルスは白亜紀後期の恐竜なので、生息時代が全く異なります」

「化石って買えるの? っていうか、どういう家庭だよ! 時代区分とかマジでどうでもいいしっ!」


 秋人の悲痛なツッコミをよそに、テレビの向こうでは巨大な恐竜の影が太い尻尾を振り回す。

 数百年の樹齢を誇る木々をマッチ棒のようになぎ倒している。

 圧倒的な質量の地響きが、テレビの薄っぺらいスピーカーからもビンビンと伝わってくる。


「恐竜がなんで刃神市にいるんだよっ!」


 秋人がひきつった顔で、画面と透子を交互に見る。


「知りませんよ……。っていうか、なんか、サイズがおかしくないですか?」


 すると、透子が静かに腕を組む。


「ええ。規格外ね」


 秋人は少しずつ後ずさりした。

 そして大学生の、必死に常識の盾を構えた。


「えっと。なんで……冷静に見てるのかな?」


 大学生なりに、嫌な予感を感じていた。

 そんな彼に二人の視線が刺さる。


「いや。どう考えても『牙抜き案件』じゃなくない? 口の中に入って歯を抜くとか、そういう次元じゃない。誰がどう見たって、自衛隊に出動要請する仕事だろ!」


 すると、絵里奈も深くうなずき、「たしかに」と同意する。

 だが、透子は違った。

 彼女は赤いアンダーリムのメガネの位置を細い指先で直し、少しだけ口角を上げて、好戦的な笑みを浮かべた。


「さて、どうかしらね」


 秋人がさらに、嫌な予感に顔を完全に引きつらせて振り向く。


「どうって……は?」

「電話が鳴れば、それは『うちの患者』よ」


 ――ジリリリリリ!!


 まるで

 神がその言葉を待っていたかのように。


 夕暮れの静かなクリニック

 受付の黒電話のベルが、悲鳴のようなけたたましい音で鳴り響いた。

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