第17話 兎ディジーザー⑥
ギリッ……!
硬い骨と異形の歯が擦れ合う、身の毛のよだつような音が響く。
意識がないはずの魅兎の体が、激痛への本能的な反射でビクンと大きく跳ねた。
秋人は、全体重をかけて必死に押さえ込む。
透子は一切の躊躇を見せず、一息に手首を返し、限界まで力を込めた。
ゴリッ!!
次の瞬間。
鮮血の飛沫と共に、巨大な前歯が根の先から完全に、飛び出すように抜け落ちた。
◇
無影灯の真っ白な光の下。
曖昧な、奇妙な沈黙が落ちた。
ガタンっ!
魅兎の体はその後、一瞬だけ大きく痙攣するように跳ね上がった。
そして、糸を切られた操り人形のようにパタリと動かなくなった。
「……え」
秋人は息を止め、魅兎の胸元を見つめた。
呼吸は——極限まで弱い。
だが――止まってはいない。
微かに、確かに上下している。
「……生きてる」
秋人が、震える声で絞り出すように呟いた。
しかし、透子の反応は違った。
彼女は血塗れのヘーベルを銀のトレイに置き、ピンセットで摘まみ上げた『それ』を、信じられないものを見るような目で見つめていた。
どす黒い血にまみれた、兎の巨大な中切歯が二本。
「無根歯……だから?いえ……ありえない」
「え……? 無根……?」
冷静沈着な女医、透子が微かに声を震わせた。
そして、赤いメガネの奥で目を見開く。
「ダメもとに決まってるわ。完全発症からの抜歯を耐え抜いた……の」
◇
深夜の診療室は、水を打ったように静かだった。
巨大な無影灯の真っ白な光だけが、中央の診療台をスポットライトのように冷たく照らし出している。
俺は、極度の緊張と疲労で膝の力が抜け、壁に背中を預けたままずるずると床に座り込んでいた。
「…………」
透子先生は無言のまま、どす黒い血にまみれた器具をステンレストレイに置き、絵里奈が手際よく滅菌ガーゼをまとめている。
カチャリ、と金属が触れ合う微かな音だけが空間に響く。
診療台の上、紙凪魅兎は、まだ静かに目を閉じていた。
彼女の呼吸だけが続いている。
か細く、頼りない。
それでも間違いなく、小さな胸の上下が、命が動き続けていることを証明している。
「私が……ありえない……って。そう思っていただけ?」
透子先生が、自分の医療の常識を疑うように、誰に宛てるでもなく小さく呟いた。
「現代の医療だからって言ってたじゃないですか」
「そう……ね。それは分かっているのよ。でも……生きてる」
俺が床に座り込んだまま
「さすが……名医……じゃん」
掠れた声で言う。
すると、透子先生はそれには答えず、ただ無影灯の下の魅兎をじっと見つめていた。
しばらくして。
診療台の上の魅兎の指先が、微かにピクリと動いた。
蝋のように青白かった顔を覆う薄いまぶたが震え、ゆっくりと開かれる。
無影灯の強い光が網膜を焼いたのだろう、魅兎は細い眉をひそめた。
「……まぶ……しい」
そのひどく掠れた声に、俺は弾かれたように顔を上げた。
「魅兎っ! お……起きた……のか」
魅兎は焦点の定まらない目でぼんやりと視線を動かし、壁際の俺を捉える。
「……犬塚、さん?」
「そう……だよ。わかる……か?」
魅兎はゆっくりと首を巡らせ、周囲を見た。
清潔な白い壁。見慣れない医療器具。
自分が寝かされている無機質な診療台。
「ここ……は」
「魅兎が捜してた……歯医者……だよ」
俺が答えると、透子先生が静かに言葉を継いだ。
「枢木院歯科医院よ」
魅兎は少し黙り、それから自分の口元へ恐る恐る手を当てた。
舌先が、あるべき場所を探るように触れる。
――歯がない。
「……前歯」
「えぇ。全部、抜いたわ」
透子先生が淡々と事実だけを答える。
魅兎は少しだけ下を向き、それから、今まで抱えていた憑き物がすっと落ちたような顔で、小さく笑った。
「そっか」
「えっと……とりあえず生きてるぞ、みう」
俺が噛み締めるように言うと、魅兎は不思議そうな顔で聞き返した。
「……ウチ、生きてます?」
「ああ、間違いなく……生きてる」
魅兎は、溜まりに溜まったものを吐き出すように、大きく、深く息を吐き出した。
「そ……っかぁ……よかったぁぁぁああ」
安堵の涙が、魅兎の片目からすっと零れ落ちる。
死の恐怖から解放された、静かで温かい時間が診療室を包み込んだ。
——その時だった。
片付けをしていた絵里奈の動きが、ピタリと止まる。
彼女は診療台の上の魅兎を見て、次に床に座る俺を見て、また魅兎を見た。
そして――
ゴンッ!!
「いってぇっ!?」
俺は後頭部を押さえて飛び上がった。
絵里奈がいきなり暴力を振るった。
丸めた分厚いプラスチックのバインダーで、俺の頭をフルスイングで殴りつけたのだ。
「何すんだよ! いきなり!」
「馬鹿! 見えてるでしょ!」
絵里奈が顔を真っ赤にして怒鳴りながら、バンッと診療台を指差す。
俺が文句を言いながら振り向き――そこで初めて、致命的な事実に気が付いた。
「あ……」
「あ、じゃない! 見ちゃ駄目!」
そう。
魅兎は、衣服を完全に失っていた。
ディジーザーとして巨大な兎に変異し、先ほど再び人の姿へと骨格が再編されたのだ。
着ていた服が都合よく残っているはずがない。
絵里奈が慌てて棚から大判のタオルケットを掴み出し、ばさっと広げて魅兎の頭からすっぽりと被せた。
「普通、こうなるの! デリカシー!!」
「あ、ウチ……」
魅兎もここでようやく自分の状況を理解したらしい。
顔が瞬く間に茹でダコのように真っ赤になる。
掛けられたタオルケットを、首までぎゅっと力一杯握りしめた。
「す、すみません……」
「いや、なんで俺が殴られんだよ! 俺も今気付いたんだって!」
「当たり前でしょ! 男なんだから真っ先に気を利かせて目を逸らしなさいよ!」
理不尽に怒られる俺と、ギャーギャーと騒ぐ絵里奈。
透子先生はその様子を冷ややかな目で見ながら、やれやれと小さく息を吐いた。
「……騒がしいわね。頭が痛くなるわ」
◇
俺はパーテーションの外に追い出された。
透子は一人、机の上のステンレストレイを見つめていた。
そこには、どす黒い血がこびりついた兎の巨大な中切歯が転がっている。
「無根歯……だから? 歯根が開いてますね」
「それがウチの……歯……」
「……ディジーザーは助からない。発症すれば、抜歯のショックで必ず死ぬ。そう思っていた」
透子がぽつりと言う。
俺は、頭をさすりながら肩をすくめた。
「結果的に助かったじゃん。名医ってことでよかったよ」
「……あなたのせいね」
「ん?」
すると透子は静かに、振り返った。
「前例があると、それはそれで大変なのよ」
「そんなこと言われても……まぁ、えっと。ありがとうございます」
鬼が人間になった。
確かに……
でも、感謝しかなかった。
透子先生はそれには答えず、ただ赤いメガネの奥で、抜いた前歯を鋭く見つめ続けていた。
一時間後。
歯科医院、受付カウンター。
すっかり落ち着きを取り戻した絵里奈が、電卓のキーをリズミカルに叩いていた。
「えーっと。初診料と、深夜加算。それに抜歯処置と、化膿止めの薬ですね」
カタカタと音を立てて計算を終え、絵里奈はニッコリと完璧な営業スマイルを浮かべた。
「お会計、三千六百円になります」
そして、俺は固まった。
「……は?」
「あ、うちはちゃんと保険効くので。健康保険証かマイナンバーカードあります?」
「はい!」
ソファーに座っていた魅兎が、元気よく返事をした。
素肌にタオルケットではあんまりだということで、先ほど絵里奈が自分の着替えを貸していた。
小柄な魅兎にはサイズが合っておらず、大きめのスウェットの袖が少し余っている。
「あの、服までお借りしてしまって……えっと、直ぐに洗って返します」
「あはは、気にしないで。明日、消毒に来るときでいいですよー」
絵里奈が気さくに笑って返す。
すっかり和やかな女子同士のやり取りだ。
だが。
それを見ていた俺は、ギギギと錆びた機械のように首を動かし、奥でカルテを書いている透子先生を睨みつけた。
「おいぃ! なんでみうはそんな普通の対応で三千六百円なんだよ! 俺が自分の邪歯を抜いてもらった時は四百四十万円もふっかけたくせに!!」
すると透子は、カルテから顔を上げることもなく、平然と言い放った。
「当たり前でしょ。今回の抜歯は、ただの『普通の歯科治療』よ。保険適用の範囲内よ」
「理不尽か!!!」
深夜の待合室に、俺の悲痛なツッコミが響き渡る。
カウンターの奥で絵里奈が堪えきれずに吹き出した。
萌え袖の魅兎も、恥ずかしそうに肩を揺らして小さく笑った。




