第16話 兎ディジーザー⑤
夜を駆ける。
意識を失った魅兎を背負い、街灯の光が届かない闇の中を走り出した。
背中の重みは、ひどく歪で、恐ろしいほどに軽かった。
「みうっ! 寝るなよっ!」
同年代の女子大生を背負っているはずだ。
なのに、まるで中身を吸い尽くされてしまった抜け殻を抱えているよう。
そんな、ぞっとするほどの虚無感を背負っていた。
「俺……いい歯医者知ってんだ……ちょっと高い……けどっ!」
助けを求めていた。
でも、そんな折にトラ退治を見てしまった。
そもそも、何が原因か分からない。
何処に行けばいいかなんて、分からない。
「くそ……」
刃神大学のキャンパスから、透子たちのいる枢木院歯科医院までは絶望的に遠い。
街灯の少ない薄暗い山道を一つ越えなければならないほどの、途方もない距離だ。
普通はバス、それか電動自転車での通学——いやそもそも学生街はキャンパス周辺だ。
俺は高い家賃を払いたくなくて、こっち側に偶々住んでいただけ。
「……くそっ、走りづれぇ」
焦燥とは裏腹に、鉛のように重い足が前に進まない。
背中で魅兎の体が、糸の切れた操り人形のように力なく揺れる。
「俺のせいだ。俺が無視したせいだ……」
◇
夜の山を越えないといけない。
秋人の肩から背中にかけて、魅兎の口元から流れたドス黒い血が滴っていた。
最初は生々しく温かかったその液体が、夜風に吹かれて少しずつ冷たく、不快な粘り気を帯びていく。
それが、彼女の命の灯火がこぼれ落ちていく温度そのものに思えて、秋人はたまらず一度立ち止まった。
魅兎の細い腕をしっかりと引き寄せ、自分の背中に完全に固定する。
小柄で、中身が空っぽのような彼女だからこそ出来る、密着した縛り付け方だった。
「……絶対に落とさねえからな」
秋人は血の味のする唾を吐き捨て、再び走り出す。
だが、余りにも遅い。
人間の脆弱な二本の足で、夜の山を越えるには、あまりにも遅すぎる。
「まだ……息があるんだよ……っ、間に合えよっっ!」
秋人の慟哭が響く、その時だった。
疲労で限界を迎えた足がもつれ、秋人の体が大きく前のめりに倒れ込む。
顔面からアスファルトに激突する。
彼がそう覚悟した瞬間だった。
無意識に突き出した両の手のひらが、分厚いアスファルトを「ぐしゃり」と力強く掴み取った。
その次の瞬間には——
秋人は、四つん這いの姿勢のまま、獣のように跳躍して走り出していた。
ドンッ、とアスファルトを力強く蹴り上げる。
四本の足だ。
人間の足の筋力ではない。
地面についた両腕すらも、強大な推進力を生み出す強靭なバネへと変異していた。
跳ぶ。沈む。また跳ぶ。
「間に合え……。山を越えろ……」
さっきまでの鈍重な走りとは全く違う。
風を置き去りにするような圧倒的なスピードだった。
街灯が、錆びたフェンスが、木々のシルエットが、流線型に歪んで視界の横を吹き飛んでいく。
秋人の体は、人間の理性を置き去りにした完全な「獣」として、闇の中の地面を鷲掴みにしながら疾走していた。
(……なんだよ、これ。ま、いいか。めっちゃ走りやすい)
人から外れていく恐怖にも似た疑問が脳裏を過るが、手足は止まらない。
いや、止めることなどできなかった。
背中に張り付いた魅兎の小さな呼吸が、今にも消えそうに揺れている。
弱い。どんどん弱くなっていく。
秋人は口内の犬歯をギリッと噛み締め、月夜に向かって獣の咆哮のような叫びを上げた。
「……いい歯医者なんだよ! 借金あるけどっ!」
山を下り、市街地へ入る。
視界の開けた大通りの前方に、見慣れた白い看板が光っているのが見えた。
——枢木院歯科医院。
秋人はエントランスの自動ドアを、センサーが反応するより早く手動でこじ開けた。
「枢木院先生っ!!」
深夜の静寂を切り裂く、血を吐くような怒声。
カルテの整理をしていたのか、受付に座っていた絵里奈が弾かれたように顔を上げる。
「え?」
息も絶え絶え。
衣服をズタズタにした秋人の姿。
そして、その背中で夥しい血にまみれ、ぐったりと垂れ下がる魅兎の体。
絵里奈のマイペースな表情が、一瞬にして完全に凍りついた。
「……」
そんな彼女は何も言わず、無駄な動きを排除したプロの動作で、受付の受話器を手に取った。
発症したディジーザー。
それは最早人間ではない。
ましてや瀕死となれば、医療を施すのではなく、警察の裏の処理班に引き渡す。
それが、この異常な世界の当然の「マニュアル」だった。
「待ってくれ!」
すると秋人は、血走った目で叫んだ。
絵里奈のダイヤルを押す指が、ピタリと止まった。
「待ってって……秋人さん?」
「警察は……呼ぶな」
「でも、これはもう手遅れです」
「頼む! 見捨てないでくれ!」
秋人が床に膝をつきそうになりながら懇願した、その時だ。
ツカツカ……と床が鳴った。
「無理よ……」
奥のスタッフルームから、純白の白衣を翻して透子が静かに歩み出てきた。
赤いアンダーリムのメガネ越しに、秋人の背中の魅兎をひと目見る。
その一瞥だけで、透子は事態の絶望的な状況を完全に理解したようだった。
「無理ね。貴方が抱えているそれは、すでに完全に発症しきった兎ディジーザー。最早人間としての原型を保てていないわ」
透子の声はどこまでも冷徹で、残酷なほどに静かだった。
「歯を抜けばいいんだろ!? あんたなら出来るはずだろ?!」
「買い被らないで。貴方も見たでしょう。ディジーザーの歯を抜けば死ぬ。それがこの病の摂理。絶対に死ぬの」
ガタン……
秋人は、血まみれの魅兎を背負ったまま
力強く、一歩前へ踏み出した。
「それでも……お願いします! やってください!」
秋人の声は、情けないほどに震えていた。
透子は目を細め、長い黒髪を指先で冷たく払う。
「……無駄なことよ。感情で医療の絶対法則は覆らない」
「お願いだ。借金、二倍にするって、いつもみたいにふっかけてくれよ!」
「……なんて?」
「二倍でも三倍でも、一生タダ働きでもいい! 俺、あいつのSOS見てたんだ」
すると透子の柳眉が、微かにピクリと動く。
「……SOS?」
「俺のチャンネルのコメント欄に……『歯科医院どこ』って。あいつ、一人でずっと痛みに耐えて、助けを求めてたんだよ! 俺がそれに気づいていれば……っ!」
待合室に、秋人の悲痛な懺悔が響き渡る。
そこに、重苦しい沈黙が落ちた。
透子は無言のまま、秋人の背中で事切れる寸前の魅兎を見つめている。
「刃神大の生徒……?」
浅すぎる呼吸。夥しい出血。
そして、根元から無残に折れ曲がった巨大な中切歯。
透子はゆっくりと目を閉じた。
「頼む。頼みます! 俺、何でもするからっ!」
「何でもって。秋人さんは、何も考えてなさすぎ。そのせいで……って。先生?」
絵里奈は呆れた顔で言う。
女医はやがて、諦めたように小さく、本当に小さく息を吐いた。
「……絵里奈。診療台へ」
目を開けた透子の瞳には、先ほどの冷徹さは消えていた。
代わりに、狂気を秘めた外科医としての鋭い光が宿っていた。
「ただの歯科治療じゃないわよ。本気でいくわ」
◇
深夜の診療室。
自動で倒れる無機質な診療台の上に、血まみれの魅兎が静かに寝かされた。
受付からもガラス越しに見える位置だ。
透子は素早い動作でサージカルマスクを着け、真っ白なラテックス手袋をはめていく。
絵里奈が、いつもの呑気さを完全に消し去った張り詰めた顔で、滅菌されたステンレストレイの上に次々と見慣れない金属器具を並べていく。
「無影灯」
透子の短く鋭い指示。
カチッ
スイッチ音と共に、巨大な円形のLEDライトが展開し、太陽のような真っ白い光が魅兎の青白い顔と、異形に歪んだ口元を照らし出した。
透子は魅兎の口元を大きく開かせ、その内部を覗き込む。
「……内部の骨格まで変異が進んでいるわ。やっぱり、完全に発症してる」
秋人は祈るような気持ちで診療台の脇に立ち、魅兎の細い肩を両手でしっかりと押さえ込んだ。
「でも、生きてるだろ……」
「そうね。絵里奈、浸潤麻酔の準備」
「はいっ」
すると一瞬。
男の力が緩んで、魅兎の体が跳ねた。
「何してるの。助けたいんじゃないの?」
「いや。それはそうだけど麻酔って……俺の時は」
そう、無麻酔。
だが、透子の口はマスク越しにこう言った。
「痛みを伝えない……意味があるかもしれないでしょう?」
「いや、だから俺のときっ」
歯茎がぷくぅと膨らみ、周囲から血流が消えていく。
「枢木院に伝わるやり方だからよ」
「は? 麻酔無しがってこと?!」
透子の手がトレイへと伸びる。
先端が鋭くカーブした金属の器具。通称、ヘーベルを手に取る。
そして、魅兎の口内に残った、へし折れた巨大な中切歯の根元へと、その冷たい金属を当てた。
「平安の世に……キシロカインなんてなかった」
「きしろ……?」
「今は現代よ。 やってみるしかないでしょう」




