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俺の犬歯が疼きやがる ~保険の利かない戦いがここにある~  作者: 乙女座の一等星
十二支との戦い・前編

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第15話 兎ディジーザー④

 夜の学生街。

 街灯の光が届かない薄暗い路地裏

 俺――犬塚秋人は、血の味がする荒い息を整えた。


 目の前に立つのは、先ほどまで小柄な女子学生だった存在


 ――兎の異形ディジーザーだ。


 トラの時と同じく、完全に二足歩行で立ち上がっている。

 人間の背丈ほどあるしなやかな体躯は、極限まで発達した筋肉が鋼のバネのように収縮を繰り返していた。

 血の池のように濁った赤い瞳。頭部から伸びる異様に長い耳。

 そして、裂けた口元から凶器のように伸びた、二本の巨大な大理石のような前歯。

 俺は路地脇のゴミ捨て場に落ちていた、酷く錆びた鉄パイプを拾い上げ、両手で強く握り直した。


「……魅兎、なんだよな。マジでディジーザーなら、冗談キツイぞ」


 兎は答える代わりに、喉の奥でギリギリと歯を鳴らして低く唸った。

 次の瞬間、跳ねるように飛ぶ。

 そして速い。

 トラの突進が重戦車なら、兎ディジーザーの動きは撃ち出された弾丸だった。

 視界からブレて消えたかと思うと、すでに眼前に迫っている。

 俺は反射的に、鉄パイプを横薙ぎに振るった。

 ガキンッ、と硬い金属音が鳴る。


 手応えがあった。

 だが――確かな打撃の感触を残したまま


 目の前の兎の姿が霧のようにブレて消えた。


「……は?」


 直後、背後から凄まじい衝撃。

 俺は背中を蹴り飛ばされ、アスファルトの上を無様に転がった。

 咄嗟に受け身を取って即座に立ち上がり、パイプを構えて振り向く。


「え?! なんで……」


 そこに、もう一体いた。


 いや。


 右のブロック塀の上に、もう一体。

 左の室外機の上に、さらに一体。


「みうが三体……いや」


 気付けば、逃げ場がなかった。

 狭い路地を完全に囲むようにして、全く同じ姿をした——


 十二体の兎ディジーザーが、赤い瞳で俺を見下ろしていた。


「……もしかして、増えた? いや、速すぎて残像が実体化してんのか?」


 俺はべっとりとへばりつく油汗を流して呟いた。



 兎達が一斉に跳んだ。

 上から、横から、背後から。完全な三次元の包囲網による波状攻撃。

 俺は動体視力の限界を超えてデタラメにパイプを振り回す。

 一体の頭部にクリーンヒットする。だが、またしても感触だけを残して残像が煙のように消え、すり抜けた直後に別の個体が死角から飛び込んでくる。


「ぐっ……!」


 肩を鋭い爪が掠める。

 パーカーの袖が容易く裂け、薄く血が滲んだ。

 咄嗟に横へステップを踏むが、そこにはすでに別の個体が待ち受けていた。


 巨大な前歯が、白い凶器となって迫る。

 身をよじって躱そうとするが、脇腹の肉を浅く抉り取られた。

 焼けるような熱い痛みが走る。


 俺はたまらず片膝をついた。

 また一体。壁を蹴り、電柱を蹴り、アパートのトタン屋根を蹴って、縦横無尽に跳ね回る。

 容赦のない爪撃と咬撃。

 少しずつ、確実に、俺の体が削られていく。


「はぁっ……はぁっ……!」


 激しく息が切れる。肺が血の味で焼けつくように痛い。

 速い。そして、絶望的に数が多い。


(……なんで、俺はこんなに押されてんだ?)


 だが、俺は血の滴るパイプを握りしめながら、自分自身が陥っている「苦戦の理由」に嫌でも気づき始めていた。


「だからって」


 ネズミの時も。牛の時も。トラの時も。

 相手の正体が人間だと気づいたのは、倒した後だ。

 その前は、全く知らなかった。

 だからこそ、本能のままに全力を出せた。


 でも、今は違う。


(こいつの正体は、魅兎だ。一週間前お姫様だっこして、今まで俺に涙ながらに話しかけてきたアイツだ。俺がここで、こいつの頭をフルスイングでカチ割ったら……)


 死ぬかもしれない。

 俺が、殺してしまうかもしれない。


 その恐怖が、無意識のうちに俺の腕の振りを鈍らせていた。

 致命傷を与えないように。殺さないように。


 その僅かな手加減と躊躇いが、この絶望的な被弾を生んでいたのだ。


「いや……鬼なんだぞ。甘えてんじゃねえよ」


 俺は自分自身をひどく叱咤し、奥歯を強く噛み締めた。


 その瞬間。


 口の中の四本の犬歯が、内側から激しい熱を帯びて疼き出す。

 中途半端な人間の理性を塗り潰すような、純粋で暴力的な狩猟本能。

 神経の先が直結し、俺の瞳の奥にギラリと獣の光が宿る。


「手加減して勝てる相手かよ……やってやるよ!」


 迫り来る兎の残像に向かって、俺はすべての躊躇を捨ててパイプを振り抜く。


 ゴシャッ!

 一体の頭部を本気で叩き潰す。

 だが、残像が煙のように消える。


 振り向きざまに、背後から来たもう一体の胴体を薙ぎ払う。

 それも消える。右。左。上。


「まだ、魅兎は……って、安心してんな……よ」


 俺は犬歯の疼きに身を委ねた。

 容赦のない力で、襲い掛かる幻影を一体ずつ確実に破壊していく。


 だが。


 倒しても倒しても、本体の超高速移動による残像は次々と再生産される。


 一向に数が減る気配がなかった。


「……本気で……本気でやるぞ」



 俺は息絶え絶えになりながら、くの字にひしゃげた鉄パイプを杖にして立ち上がった。

 体中がズキズキと痛み、至る所から血が流れている。


 今になって、やっと確信に至る。

 鬼や妖怪の類、その正体は人間だった。


「鬼退治……ばけもの……」


 そして、完全に囲まれていた。

 残りの兎が、俺を嘲笑うかのように路地の壁や地面を蹴ってぐるぐると超高速で回り続けている。

 視界がその度に揺れる。

 眩暈がするほどのスピードだった。


 このまま削られ続ければ、確実に俺の限界が先に来る。


「くっ」


 ——その時だった。


 俺の頭に、ここ数日の魅兎の言葉がよぎった。


『偶然ですね』

『すごい偶然です』


 行く先々に現れていた彼女。


 てっきりストーカーだと思っていた。


 だが——


(何日目とか言わなかった……んだ。アレが違う意味なら、故意のストーカーじゃなかったとしたら)


 俺は迫り来る爪を間一髪で避けながら、極限状態の中で思考を加速させる。


 この超高速移動による残像の群れ。

 もし、彼女の病状が進行するにつれて、異能が現れていたとしたら。

 日常の中でも無意識にこの「分身」を生み出してしまっていたのだとしたら。


(あの『偶然』の中に、みうの分身が混じっていた……)


 ドンっ!と背後から衝撃が走る。

 げっ歯類の前歯で、皮膚の一部が削られる。


「みうっ! お前は何度も現れたわけじゃ……ならっ!」


 迫り来る爪は避けきれない。

 痛みが走る。それながら、極限状態の中で思考を更に加速させる。


「いぬ……づ……くん」

「みうっ!」


 その瞬間、頭の中にある光景がはっきりとフラッシュバックした。

 静かな付属図書館。分厚い妖怪伝承の文献。鬼の挿絵。


(初日に現れたみうは、まだ日にちが経っていない。あれが間違いなく、本物だ)


 そして、あの場違いなウィスパーボイスで歌っていた魅兎の姿。


 俺は口元の血を乱暴に拭い、這い寄る兎の残像を睨みつけて低く呟く。


「……最初、図書室だったよな」


 兎達が次々と跳びかかってくる。

 俺は最小限の動きで致命傷だけを避ける。


「お前……ウチは童謡が好きだって、言ってたよな」


 深く息を吸い込む。

 そして、周囲を飛び回る残像の群れに向かって


 血生臭い夜の路地には全く似つかわしくない歌


 小さく、しかしはっきりと口遊んで……みた。


「おにのパァンツは……いいパァンツ」


 一瞬。


 本当に、コンマ数秒の一瞬だけだった。


 飛び交う兎達の動きが、僅かに鈍った。

 そして、その十二体の残像の中で、壁に張り付いていた『一体』だけ。

 頭の上の長い耳が、ぴくっ、と反応するように動いたのだ。

 俺の目が、獲物を捉えた鷹のように細くなる。


「……やっぱりそうか。見つけたぜ、みうっ!」



 俺は爆発的な脚力で地面を蹴った。

 偽物の兎達が俺の行く手を阻むように一斉に飛びかかってくる。


 だが、もう迷わない。

 そして、鉄パイプを放り捨てた。


「俺は……牙抜き……」


 残像の隙間をすり抜けるように一直線に突っ込む。


 壁に張り付いていた本体。

 兎ディジーザーの赤い瞳が、驚愕に見開かれる。

 逃げようと強靭な後脚に力を込めた瞬間、俺の両手が怪物の口元へ正確に伸びていた。


「……じゃない! 牙抜きは透子先生だっ!」


 ガシッ。

 四本の犬歯の疼きに導かれた指先が、標的をがっちりと掴み取る。

 中切歯――巨大な前歯だ。


 あの時と同じようにはしなかった。


 歯と歯茎の間に入れるのではない——


 そのまま掴んだ。そして、俺は指先に渾身の力を込めた。


「悪いな、少し痛えぞ」


 パキィッ!!


「ギャンゥゥゥゥゥウウウウウ」


 夜の路地に、硬いエナメル質が根元から砕け、引き抜かれる乾いた音が響き渡った。


 その瞬間。


 周囲を飛び回っていた十一体の兎の残像が

 砂嵐のノイズが走った。

 そしてサラサラと、砂上の楼閣のように掻き消えていった。


 残ったのは、俺に前歯をへし折られた一体だけ。


「ギィィィッ……!!」


 声にならない悲鳴を上げ、怪物の体が崩れ始める。

 異常発達した骨格が風船が萎むように縮み、全身の白い毛が溶けるように消えていく。

 凶悪に伸びていた耳が短くなり、人間の形へと再編されていく。

 土埃の中に倒れ伏したのは、ボロボロに引き裂かれたブラウス姿に戻った紙凪魅兎だった。

 俺は手に残った巨大な前歯を放り捨て、荒い息を吐きながら呟く。


「……当たり、か」


 魅兎はピクリとも動かない。

 血に染まった口元からは、ぽっかりと前歯が失われている。

 呼吸が異常に浅かった。


 あの時、トラのディジーザーの件がフラッシュバックする。


「おい、魅兎。しっかりしろ」


 肩を揺さぶるが、返事はない。完全に意識を失っている。

 俺は短く舌打ちをした。


「くそっ、透子先生んとこに運ぶしかねえか」


 魅兎の体を抱き上げ、そのまま背中に背負う。


「……っ」


 軽い。

 同年代の女子大生とは思えないほど、中身が空っぽなんじゃないかと思うほど、驚くほど軽かった。

 俺は背中の頼りない重みを感じながら、夜の学生街を無言で走り出した。

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