第14話 兎ディジーザー③
数日後の夜。
街灯もまばらな学生街の路地裏。自販機の頼りない蛍光灯だけが白白と闇を切り裂く中で、俺は立ち止まり、缶コーラのプルタブに指をかけた。
プシュッ。
炭酸の弾ける軽い音が、不自然なほど静まり返った暗がりに響く。
その時だった。
「犬塚さん」
足音も気配も、一切なかった。
背後から耳元を撫でるように、不意に声が落ちてきた。
俺がビクッと肩を震わせて振り向くと、自販機の光の届かない境界線に、紙凪魅兎が立っていた。
いつものオフホワイトのブラウスに、足首まである長いスカート。
後ろでまとめられた栗色の髪と、顔の右半分を隠す歪な前髪。
その奥の真っ暗な隙間から、片目だけが俺をじっと見つめている。
「……またお前か。どうやって……」
呆れよりも先に薄ら寒さが這い上がる。
俺が口ごもると、魅兎は力なく、糸の切れた人形のように少しだけ笑った。
「また……ですか。……ちょっと、話したいことがあって」
「なんだよ。夜まで待ち伏せか?」
動揺を悟られないよう、俺は冷たい缶に口をつけ、コーラを喉に流し込む。
甘ったるい炭酸が胃に落ちても、背筋の悪寒は消えなかった。
魅兎は少し言いにくそうに視線を彷徨わせ、
やがて細い手で自分の口元――右の頬を、爪が食い込むほど強く押さえた。
「歯が……ずっと痛いんです」
その言葉に、俺の表情がサッと凍りつく。
「い……いつからだ。歯医者は行ったのか」
「行ってないです。……だって、歯科医院、知らんかったから」
痛みへの恐怖からか、魅兎の口調から不意に地元の訛りが漏れる。
その瞬間
俺の脳裏に、前に見た自分の動画の
あの不気味なコメント欄がフラッシュバックした。
――『その歯科医院どこ?』
――『おねがい どこにあるの』
立て続けに書き込まれた異常な文字列。
あれは荒らしなんかじゃなかったのかもしれない。
行き場を失い、絶望的な痛みに耐えかねた「彼ら」の、血を吐くような悲鳴だったのかもしれない。
嘘松とかも書かれてたけどっ!
「チッ……そういうことかよ」
「え?」
きょとんとする魅兎から目を逸らし、俺は苛立ちと這い寄る恐怖をごまかすように
小さく舌打ちをした。
「くそっ」
魅兎は立っていた。
自販機横の薄汚れたコンクリート壁に、ズルズルともたれかかるようにして立っていた。
呼吸が浅く、ヒューヒューと喉が鳴っている。
青白い額には脂汗がびっしりと浮かび、口元を押さえる手が小刻みに、異常な速度で震えていた。
「……みう」
俺が警戒しつつも一歩近づく。
すると、魅兎は顔を上げ、すがるような、ひどく力のない笑みを浮かべた。
「最近ずっと、歯が疼くんです。頭蓋骨の裏側まで、ガリガリ削られるみたいに。……ウチ、ネット見て。犬塚さんの動画……ギアトちゃんねる、ですよね。コメントに、歯が痛いって書いてある人、いっぱいおった。だから……もしかして、ウチもあれなんかなって」
俺は何も答えることができなかった。
喉が干からびたように声が出ない。
安易な慰めなど、今の彼女には何の意味も持たない。
魅兎は静かに目を伏せ、震える両腕で自分の肩を抱いた。
そして、ふたたび顔を上げ、暗がりの中で俺を真っ直ぐに見つめる。
「ねえ」
少しの間。
痛みを堪えるような、張り詰めた沈黙の後。
魅兎の口から、隠しきれない方言が吐血のようにこぼれ落ちた。
「ウチ……死ぬん?」
俺は息を呑んだまま、返す言葉を見つけられない。
自分が「治療」と称してトラの男から牙を抜いた後、あの男がどうなったのか。
本当のところは何も知らないのだ。
人間に戻ったのか、それとも死んだのか。
俺の沈黙を肯定と受け取ったのか、魅兎は少しだけ寂しそうに笑った。
「やっぱり、そうですよね」
魅兎は静かに目を伏せる。
だが、すぐにまた俺を見つめ返し、消え入りそうな声で、それでもはっきりと呟いた。
「……でも。犬塚さん、おるけん」
その瞳の奥に、得体の知れない依存と狂気がゆらりと灯った
――次の瞬間だった。
魅兎の小柄な体が、見えない巨大なハンマーで殴られたようにビターンッと大きく跳ねた。
「っ……!!」
メキィッ、ゴキッ!
背骨が異常な角度で軋み、人間のものとは思えない、骨の砕ける重い音が路地に響き渡る。
「魅兎!!」
俺が叫んで手を伸ばすより早く、魅兎は四つん這いになった。
両手を激しくアスファルトに叩きつけた。
爪が剥がれ、指の骨が異様に伸びていくのが見える。
「マジ……かよ」
全身が高圧電流を浴びたように震え上がる。
口元からドス黒い血がゴボッと溢れ出す。
ギリギリ、ゴリゴリと歯が頭蓋骨を突き破るような凄惨な音が鳴った。
歪な前髪が振り乱され、完全に露出した両の瞳が、血の池のように深い赤色に染まりきっている。
そして、血に塗れた口元から
人間の口腔サイズを完全に無視した
長大で鋭利な二本の「前歯」がメキメキと突き出してきた。
「……っ、あ……ギ、ィァァッ!」
魅兎の喉から、鼓膜を裂くような言葉にならない獣の絶叫が漏れる。
体が再び大きく跳ね上がった。
「前……歯……って」
骨格が完全に歪み、グチャグチャと音を立てて再編されていく。
オフホワイトのブラウスが内側からの膨張に耐えきれずに引き裂かれ、汚濁したような白い毛皮が全身を覆う。
頭部からは、肉を突き破って空気を切り裂くような長い耳が不気味に伸びていった。
「犬歯じゃないのかよっ!」
◇
ほんの数秒後。
俺の目の前に立っていたのは、小柄な女子学生ではなかった。
血走った巨大な赤い瞳。
異常発達した長い耳。
そして、口元から凶器のように突き出た、大理石のような巨大な二本の切歯。
理性を完全に喪失した、異形の兎の化け物
ディジーザー。
俺は手にしていたコーラの缶を地面に投げ捨て、無意識に後ずさりしながら低く唸った。
「……くそっ」
兎の怪物が、強靭な後脚でアスファルトを粉砕し、俺の喉笛を食いちぎらんと跳躍する。
生臭い血と絶望の匂いが立ち込める夜の路地で、避けられない死闘が始まった。




