第13話 兎ディジーザー②
翌日。
昼前のざわめきに包まれた広めの講義室。
俺――犬塚秋人は机に肘をつきながら、気だるげにスマホの画面をスクロールしていた。
開始時刻を過ぎても、教授はまだ来ていない。
「おはようございます」
ふいに、頭上から鈴を転がすような細い声が降ってきた。
顔を上げると、そこには見覚えのある小柄な女子学生が立っていた。
相変わらずのオフホワイトの地味なブラウスに、足首まである長めのスカート。
後ろで長くまとめられた栗色の髪と、顔の右半分を完全に隠すほど歪に伸びた片側の前髪。
——紙凪魅兎だ。
その髪の隙間から覗く左の片目だけが、俺の顔をじっと見下ろしている。
「……よう。またお前か」
「紙凪魅兎です」
魅兎はコクリと頷き、さも当然のような顔をして、俺の隣の空席にちょこんと座った。
「同じ授業取ってんの?」
「違います」
「じゃあ、何でいるんだよ」
魅兎は少しだけ視線を宙に泳がせ、至極真面目な顔で答えた。
「ウチ、この教室の雰囲気、好きなんです」
「……教室の雰囲気……って。そんなもんかな」
「そんなものです」
俺は小さく笑ってため息をつき、それ以上追い払うようなことはしなかった。
魅兎はカバンからノートやペンを出すわけでもなく、ただ静かに前を向いて膝の上で両手を揃えている。
(んー。どうしたものか)
彼女は講義が始まるまでの間、本当にただそこにいるだけだった。
スマホをいじるふりをしながら、横目でチラリと隣を見る。
空調の風が通ったわけでもない。
だが、魅兎がわずかに首を傾げた拍子に、前髪の奥に隠れた右目が一瞬だけ覗いた。
(……あれ?)
俺は微かに眉をひそめる。
髪の隙間から見えた瞳の輪郭
血が滲んだような赤みが混じっていた気がした。
そして、すぐに視線をスマホの画面に戻す。
(あれ。気のせい……か。みう、だっけ。もしかして怖くて寝不足……?)
ちょっとだけ気になった。
けれど、その後、教授が来て。
気付くと、彼女はいなくなっていた。
◇
数日後。
昼休みのひどく混雑する購買で、俺はお目当てのフライドチキンを受け取った。
ジャンクな油の匂いが染みた温かい紙袋を持ち、人混みを抜けようと振り向いた瞬間。
「こんにちは」
また、いた。
紙凪魅兎が立っていた。
俺が振り返る位置を計算して待っていたかのように、長いスカートを揺らして微笑んでいた。
俺は手元の紙袋を見て、それから魅兎の顔を見た。
「……またか」
「偶然ですね」
「三日連続だぞ。暇なのか?」
「すごい偶然です」
全く悪びれる様子のない魅兎。
そんな彼女に呆れつつも、俺は購買を出て歩き出す。
魅兎は小走りで追いつき、自然な動作で俺の横に並んだ。
「それ美味しいですか? ウチ、まだ食べたことないです」
「普通……いや。コンビニのよりうまいかも。食ってみる?」
「いえ、大丈夫です」
軽く紙袋を差し出してみたが、魅兎はふるふると首を振った。
二人の間に奇妙な沈黙が落ちる。
俺は気にせず紙袋からチキンを取り出し、ぱりっと音を立てて齧りついた。
(……はぁ。嫌ってほどじゃないけど。俺、考えないといけないんだよな。借金……あるし)
魅兎は歩きながら、俺が咀嚼する様子をじっと横から見つめていた。
流石にその視線の居心地の悪さに耐えかねて、口を開く。
「それで、今日こそ用事あんの?」
「え? と……特には」
「じゃあ、なんで着いて来るんだよ」
すると彼女は止まった。
でも、俺が歩き出すとついてくる。
本当に嫌……ではなかった。
ただ、前の件が頭に残っていた。
話をしていいか、分からなかった。
「もしかしてストーカーか」
ちょっとだけ。
冗談めかして言うと、魅兎は歩調を少し緩め、黙り込んだ。
それから、消え入りそうな声でポツリと言った。
「……安心するんです」
「え……?」
俺はチキンを咀嚼する手を止めた。
魅兎は足元のタイルに視線を落とし、言葉を探すように少し躊躇ってから口を開いた。
「あの……この間のこと。虎の化け物……やっぱり、夜になるとちょっと怖くて」
再び沈黙が落ちた。
俺は小さくため息をつき、残りのチキンを口に放り込んだ。
それはそう。
俺もそう思う。でも、何て言えばいい?
「まあ、あのサイズの虎は普通じゃないわな。動物園でもお目にかかれない。夢に出るレベルだな」
努めて軽い調子で言うと、魅兎はホッとしたように頷いた。
「ですよね。だから……犬塚さん見てると、あの時助けてもらったの思い出して、安心するんです」
少しだけ口角を上げて笑う魅兎から、俺は気まずそうに視線を外した。
そういう殊勝なことを言われると、今度は邪険にもしづらい。
「……それは……まぁ」
キャンパスを吹き抜けるそよ風が、魅兎の歪な前髪を揺らす。
隠れていた右目が、また少しだけ覗いた。
赤い?
先日の講義室で見た時よりも、ほんの少しだけ赤みが強くなっているように見えた。
充血というよりは、色素そのものが変容しているような不気味さ。
俺は目を細め、すぐに前を向く。
(えっと……あいつの目、最初からあんな色だったっけ?)
◇
さらに別の日。
大学の中庭にある、俺のいつもの定位置のベンチ。
購買の紙袋を開けようとした、その時だった。
「こんにちは」
顔を上げると、そこには魅兎が立っていた。
いつもなら当然のような顔で隣に座ってくる。
そのはずだが、今日に限って彼女はベンチに座ろうとせず、俺の前に力なく立ち尽くしていた。
「……よ。これで何日目だ?」
「何日目でしたっけ」
「五日目? っていうか、土日挟んでるから一週間だぞ」
俺は苦笑しながらチキンを取り出し、一口齧った。
だが、
今日の魅兎の様子は、明らかにおかしい。
ぼーっと足元の芝生を見つめたまま動かず、顔色も陶器のように青白い。
平日五日も連続で現れるストーカー。
そんな気質への不気味さはあったが、目の前で倒れられそうな体調不良のほうが気になった。
そして、俺は咀嚼の手を止めた。
「……おい、みう。気分でも悪いのか。ちゃんと病院で診てもらえよ」
呆れたような、それでいて少し心配するような声で言う。
すると、魅兎はビクッと肩を揺らした。
そして、少しだけ俯いてポツリと返す。
「善処します」
「政治家かっ!」
その妙に固い返答に、俺は思わずツッコミを入れた。
「この歳で病院怖いとか……ま、分からないでもないか」
つい一週間前まで、歯医者から全力で逃げ回っていた自分のことを棚に上げ、俺はチキンを持ったまま肩をすくめる。
魅兎は俯いたまま、何も答えなかった。
その時、強めの風が中庭を吹き抜けた。
「おま……」
魅兎の右半分を隠す前髪が、大きくめくれ上がる。
その奥から現れた瞳。
本当に赤い。
充血などという生易しいものではない。
まるで夕焼けをそのまま網膜に溶かし込んだような、明らかな異物の色だった。
俺はチキンを持ったまま、その目をじっと見据える。
(……いや、流石にだろ)
風が止み、再び前髪がバサリとその右目を隠す。
「ちゃんと寝てるか?」
「寝てません……寝れません……」
魅兎は右側の頬
――口元のあたりに細い手を当てた。
何かに堪えるように、小さく俯き続けていた。
「悪い。図書館に本を返却するから、またな」
俺は逃げるように立ち上がり、彼女に背を向けた。
平静を装って歩き出しながら、頭の中では先ほどの真っ赤な瞳と、歯痛を押さえるような彼女の仕草がグルグルと回っていた。
「……鬼とか妖怪とか、そんなにいるわけ……」
誰に聞かせるでもない現実逃避の呟きは、柔らかな風に攫われて消えた。




