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俺の犬歯が疼きやがる ~保険の利かない戦いがここにある~  作者: 乙女座の一等星
十二支との戦い・前編

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第12話 兎ディジーザー①

 刃神大学の付属図書館は、総合大学の名に恥じぬ膨大な蔵書を誇っている。

 空調の微かな稼働音と、古い紙特有の甘埃っぽい匂いが漂う静寂の空間。

 最新の医学雑誌から難解な工学の専門書、果ては手袋必須の古典文学の写本までが、天を突くような巨大な書架に整然と押し込められている。


 だが、その広大で深遠な知識の海に飛び込みながらも、俺――犬塚秋人が机に広げているのは、およそ国立大学生には似つかわしくない軽薄なタイトルの本ばかりだった。


『サルでもわかる日本妖怪伝承史』

『図解・3分で読める御伽草子』

『マンガで一気読み! 酒呑童子と茨木童子』


 古文書かと見紛うような分厚く難解な専門書も、棚には並べられていた

 だが、俺の目はそれらを華麗にスルーしていた。

 タイパを愛する現代の大学生らしく、文章は流し読みする。

 イラスト中心のわかりやすいページだけを、スマートフォンの画面をフリックするような速さでめくっていく。


「ま……」


 酒呑童子、茨木童子。


 どの鬼の挿絵も、角と棍棒というお決まりの記号的アイテムを纏っている。

 だが、それと共に、ある身体的特徴がこれでもかとグロテスクに強調して描かれていた。


「……牙、だよな」


 俺は、デフォルメされた鬼の口元を指先でなぞりながら小さく呟いた。

 どの地方の伝承でも、どの絵師の筆でも、そこだけは奇妙なほど揺るがない。

 大きく裂けた口の両端から、顎の骨を突き破らんばかりに禍々しく伸びた鋭い牙。


「鬼と言えば、角と牙。それは知ってるけどさ……。位置的に考えて、これ全部『犬歯』じゃねぇかぁ?」


 ページの上を指先でトントンと叩く。

 透子の冷徹な声が、フラッシュバックのように脳裏でリフレインした。


 ――『邪歯』


 歯の変異。祖先返り。


「邪歯が炎症を起こして、鬼になる……って話? コイツら、歯ぁ磨けよ。昔からこの国には確かに鬼はいた……」


 逸る気持ちと、背筋を這う微かな悪寒を抑え込み、次のページをめくる。

 やはり、犬歯の位置から不自然に巨大な牙が伸びた鬼の絵。


「そして、枢木院家みたいな『牙抜き』が、鬼を退治——牙を抜いて回ってたって言われても」


 本来なら健全な大学生として、オカルト話のネタにでもしたいところだ。

 でも、頭を抱える。


 俺は……この鬼みたいなのの牙を抜いた。


「でも、そいつは牙を抜いた後……」


 柔らかい食事、豊かな甘味、良好な栄養状態。

 彼らの歯は長く残る。結果として、邪歯が残る。


「虫歯のせいで?」


 そう——

 だから、伽話の鬼は都に出る。


「都って、ここは大学——」


 その時だった。

 ふと、首筋にねっとりとまとわりつくような、奇妙な視線を感じた。


「ひ……じゃなくて……ん?」


 顔を上げると、広い机の向こう側に何かいた。

 いつの間にか、一人の女子学生が幽鬼のように立っていた。

 小柄で、オフホワイトの地味なブラウスに足首まである長いスカート。


 栗色の髪は後ろで長くまとめられている。

 でも、前髪の切り方が酷く歪だった。

 自分で切って失敗したのか、片側だけが異常に長く、顔の右半分を完全に覆い隠している。

 その隙間から覗く左の片目が、俺の手元にある『マンガでわかる』シリーズを、じっと見つめていた。


「えと……」


 俺は反射的に、バタンと音を立てて本を閉じた。


 ビクッと肩を揺らした女子学生が、少し慌てたように口を開く。


「あ、すみません! ウチも童謡、好きです」

「……は?」


 俺は完全に思考が停止し、固まった。

 女子学生は恐る恐る机を覗き込み、閉じた本の表紙を指差す。


「鬼のやつですよね」


 知らない少女。

 勿論、総合大学だ。知らない奴なんてゴロゴロいる……けど。


 どこかで……


「いや、これ……どう見ても妖怪伝承だし、サルのイラスト描いてあるけど」


 俺が呆れ顔で本の表紙を見せる。

 すると、女子学生はなぜか安心したように迷わず向かいの椅子を引いた。


「隣、いいですか」

「……もう座ってるじゃん。しかも向かいだし」

「ありがとうございます。ウチ、ああいうの好きなんです。鬼の童謡、ありますよね。ほら……♪おにのパァンツは、いいパァンツ」


 図書室の静寂に配慮したのか、消え入りそうなウィスパーボイス。

 女子学生が唐突に、少し恥ずかしそうに歌い始めた。


「あ……そのさ」


 だけど、一生懸命に。

 わずかに首でリズムを取りながら。

 俺は半目になり、しばらく黙ってそのシュールすぎる光景を眺める。


「……ま、いいか。童謡好きが妖怪伝承の解説本で寄ってくるのか。ていうか誰? 俺たち、普通に初対面だよな?」


 肩をすくめてみせると、女子学生の青白い顔が一瞬にしてポッと赤く染まった。


「しょ、初対面じゃないです! ウチは……その……お姫様……だっこを……」


 少女は慌てて声を落とし、両手でスカートの裾を握りしめてもじもじと身をよじる。

 俺は僅かに眼を剥いた。


「お姫様だっこ」という単語を脳内で咀嚼し、数秒フリーズした。

 その直後、昨日の異常な光景を鮮明に思い出した。


 初対面ではない、っというか。

 ちゃんと顔なんて見ていないし。


「昨日の、ベランダの……」

「それです! 紙凪魅兎(かみなぎみう)です」

「かみな……」

「かみなぎみう。ウチの名前、よく珍しいって言われます」


 ひとこと。小動物系の女の子。

 少女はホッとしたように姿勢を正し、ぺこりと深く頭を下げた。


 そして。


 俺の眉が、微かにピクリと動く。


「……難しい漢字? うは、兎……か。なるほど」


 そのまま、机の上の本へ視線を落とした。

 鬼の挿絵、剥き出しの犬歯。昨日の「トラ」の咆哮。

 それから、目の前に座る「兎」をじっと見つめる。


「昨日は虎。今日は兎。……出来すぎじゃね」


 誰にともなく肩をすくめて呟くと、魅兎がきょとんと首を傾げた。


「え?」

「いや、こっちの話。気にするな」


 ヒラヒラと手を振る。

 すると、魅兎は再び身を乗り出して、閉じた本を興味深そうに覗き込んだ。


「でも、さっきのこの鬼。牙、すごいですね。ちょっとウサギっぽい」

「うん? どこがだよ」

「前歯、出てるじゃないですか。こういうの」


 魅兎が自分の口元を指差し、楽しそうにクスクスと笑う。

 俺の手が、ピタリと止まった。


「……前歯?」


 鬼の牙は、間違いなく犬歯の位置にある。

 だが、ウサギの最大の特徴である歯は、前歯――すなわち切歯(せっし)だ。


 前歯の飛び出した鬼。そんなものは伝承にはない。

 だが、俺は頭の中で少し視点をズラしてみた。


 鬼という枠を外し、妖怪全体まで幅を広げたらどうだ。

 例えば、国民的な妖怪アニメに出てくる、あの灰色のずきんを被ったネズミの半妖。

 あいつのトレードマークは、見事な出っ歯だ。

 もし、透子が言っていた『邪歯』が、犬歯以外にも存在するのだとしたら。


 犬歯の異常発達が「鬼」や「虎」を生んだように、前歯の異常発達が「ネズミ」や「兎」の妖怪伝承を生んだのだとしたら。


 俺はしばらく黙り込み、それからゆっくりと本を手元に引き寄せた。


「やっぱ……鬼のイメージにはない……。妖怪全体まで広げたらありそうっちゃありそうだけど。いや、牛鬼は犬歯のイメージじゃない……」

「どうしました?」

「いや、なんでもない」


 俺が努めて平静を装い、誤魔化すように鼻を鳴らす。

 魅兎は少しの間、長い前髪の奥の左目で、俺をじっと見つめた。

 やがて、彼女はウィスパーボイスの童謡とは違う、震えるような細い声だった。


 多分、これが言いたくて、彼女は俺に近づいたのだ。


「犬塚さん。昨日のこと……普通じゃないですよね。ウチ、ちょっと怖くて。だから……また会えてよかったです」

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