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俺の犬歯が疼きやがる ~保険の利かない戦いがここにある~  作者: 乙女座の一等星
十二支との戦い・前編

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第11話 虎ディジーザー④

 赤色灯の毒々しい光が、薄暗い学生街の路地を断続的に照らす。

 パトカーの陰、その奥にも赤いランプを灯す白と赤の車から、担架が姿を見せていた。

 真っ白な布に覆われたその下に、さっきまで三メートル超の虎だった男の体がある。

 秋人はまだ、狂乱の余韻が残るその場に立ち尽くしていた。


 その右手には、根元から引き抜いた巨大な牙。

 掌にこびりついたドス黒い血は、風に吹かれてもう乾き始めている。


 すると


 事後処理をしていた警察官の一人が、無表情のまま近づいてきた。

 秋人は反射的に身構え、牙を握る手に力を込める。

 だが警官は、秋人を見ると業務的に軽く頭を下げた。


「ご苦労様です」


 短くそれだけを言い残し、背を向ける。

 もう一人の警官がビニール袋を取り出しているのが見えた。


「そちらも回収します」

「え……はい」


 誰も詳しいことは聞かない。

 質問も、身分証の提示も、事情聴取すらない。

 担架は静かにパトカーの奥へと消えていった。


 秋人はしばらく動けなかった。

 手の中から消えた、巨大な牙の残像を見つめ、ぽつりと呟く。


「今の完全に……人間じゃねえか。何がどうなってんだよ……マジで」


 その時だった。


 路地の入口で、聞き慣れた車のエンジン音が止まる。

 僅かに見覚えのある、白い軽ワゴン車だ。


 側面にプリントされた『枢木院歯科医院』の文字だった。


 運転席のドアが開き、ピンクのナース衣を着た女が軽快に降りてくる。


「お疲れ様ですー! 終わりました?」


 後部座席からは、白衣を揺らして女医も降りてくる。

 赤いメガネ越しの視線で路地の惨状を一瞥した。


「そう。無事に済んだようね」


 それだけで、状況を全て理解したようだった。

 透子は短く、事も無げに言う。

 秋人は疲労困憊の体で振り向いた。


「……だって」


 荒い息を整え、少し間を置く。


「百万円だろ?」

「いきなりそこですか!?」


 絵里奈は堪えきれずに吹き出した。

 ただ、秋人はそこで押し黙る。


「あれ……ちょっと……待てよ」


 警察官、消防隊員、救急隊員が並んでいる。

 脳内で響く合成音声は告げた。


 ——闇バイトは怖いのだ


「いや、これは違くて」

「あら、違うの?」

 

 だが、透子は淡々としたトーンで言った。


「成功報酬よ。約束通り、あなたの借金から引いておくわ」

「ちょ……それは」


 秋人は急いで辺りを確認するが、他の大人たちは気にする様子もなかった。

 でも、本当に?


「要らないのー?だったらあたしが」

「いやいや!俺だからっ!」


 秋人は思わず天を仰いで言った。


「俺が退治した……んだよ」


 だが、ハッと我に返る。

 先ほど担架で運ばれていったのは、間違いなく普通の人間だ。

 人間をボコボコにして、巨大な牙を引き抜いて、百万円の高額報酬。

 秋人は、不審者のように周囲をきょろきょろと見回した。


「……てか、こういうのって闇バイトでは」

「そんなわけないじゃないですか。警察もいるんですよ」


 絵里奈は、即座に呆れたツッコミを入れた。

 死線を潜り抜けた秋人の取り乱し方を見ても、透子の涼しげな表情は変わらない。


「闇ではないわね」


 そして、ふと何かを思い出したように秋人を見つめた。


「ところで、さっき言ってたわね」


 秋人は怪訝そうに首を傾げる。


「何がです」

「鬼、と」


 秋人は少し考え、思い出す。


「ああ……まあ、見た目はそれっぽかったですよ。トラ柄で、牙があって、耳が尖ってて。昔の人が見たら、いや今だって」


 すると、透子は静かに頷いた。


「鬼の話、聞いたことある?」

「そりゃ昔話だから。桃太郎とか?」

「そうね。それもある……けど」


 透子はゆっくりと歩み寄りながら続けた。


「昔の人間はね、歯がすり減って生きていたの」

「はい?」


 秋人は首を傾げる。


「古代エジプト。メソポタミア」

「ん?」


 秋人は眉を寄せる。


「日本で言えば、縄文時代」

「え……何を言ってんだろ……」


 秋人は眠そうになった。


「発掘された当時の頭蓋骨を調べると、ある共通した特徴が見られるわ」


 だが、透子が続けて、専門用語を口にする。

 一般人に学術的な話を垂れ続ける。


咬耗(こうもう)に注目しなさい」

「こーもー?」

「そう。歯がすり減っていくこと」


 咬耗、そこで秋人はピンときた。


「あぁ、テレビで見たような? 当時の食事は、砂の混じった粗末な穀物で」

「そうね。でも、その考えに私は反対だわ」

「は?」


 だが、女医は冷たい視線で大学生を睨む。

 間にピンクの天使が舞い降りる。


「せんせっ。その話は……色々、宗教的なとこあるから」

「ん? 宗教の話?」

「全然違うわね。大体、開口反射はどう説明する気」


 秋人は半眼になり、軽く腕を組んだ。


「そんなの知らないですよ。問題はそこじゃないですよね」

「……そうね。とにかく、昔の人は虫歯になる前にすり減っていた。あるいは栄養失調や歯周病で抜け落ちていたのよ」

「いや、何の話だよ……」


 白衣の女とピンク衣の女が軽い口論をする中、辿り着いたのは意外でもない話だった。


「昔の人は、虫歯にならなかったってことです」


 まさかの予防歯科着地。

 だが、今までの話を纏めると——


「つまり、邪歯が残りにくいってこと……であってる?」

「そういうことよ」


 そして透子は少し不満気だが、肩をすくめて頷いた。


「でも、例外があった。それは貴族よ」


 秋人はまた首を傾げる。


「貴族? じゃなくて、まだ続くんだ」

「ええ。柔らかい食事、豊かな甘味、良好な栄養状態。彼らの歯は長く残る。結果として、邪歯が残る」


 透子は、夜の闇に溶けるような静かな声で言った。


「はぁ……甘いものを食べるから虫歯になるってことか」

「そう。だから、都に鬼が出るのよ」

「なるほど、だから鬼……。おにぃぃ?!」


 秋人は眼を剥いた。

 予防歯科の後は、まさかの鬼着地だった。


 そう言えば、そんな話の続きだ。


「——鬼退治の記録」


 透子が言葉を継ぐ。


「鬼退治、誰がやっていたと思う?」


 秋人は日本史の授業を思い出すように、少し考える。


「えっと……武士とか」

「そうね」


 透子はコクリと頷く。


「公家、武士、皇族。当時の特権階級であり、全部、貴族社会」


 何とか童子とか、御伽草子とか、とかとか。

 秋人も一応、知っていた。


 だが、大きく目を見開いた。


「私。——枢木院(くるるぎいん)は、その鬼退治を生業にしていた家よ」

「え……はは。まさか」


 秋人は思わず、乾いた笑いを漏らした。


「まさか、よね。でも、事実よ。別名、牙抜き」

「牙……抜き……って。あれ……?」


 その時だった。


 透子がふと、少し興味深そうな声で聞く。


「ねぇ。そういえば、さっきのあなたの動き」

「……?」

剣士游道(けんしゆうどう)。ケーナインガイダンスね」


 青年はポカンとして、しばらく固まった。


「へ? 今、何て言いました? 剣士がいうと? けーないん……だんす……?」


 すると透子は少しだけ呆れたように、形の良い眉を顰めた。


「ケーナインガイダンスよ。犬歯の導きという意味よ。どこで覚えたの?」


 秋人は慌てて首を振った。


「い、いや。俺、そんな横文字、知りませんよ。第一、剣道とか柔道とか、格闘技なんて習ったことないし」


 すると透子は、少しだけ間を置いた。


「覚えてる? ネズミの時に少し話した、哺乳類の祖先の事」


 秋人は顔をしかめ、記憶を探る。


「……なんでしたっけ」


 透子は教師のように教え諭す。


「モルガヌコドン。Morganucodon。約二億年前の初期哺乳類よ」


 秋人は困ったように頭をかいた。


「いや、急に古代の学名出されても……」


 透子は秋人の困惑を気にせず、またもや続ける。


「彼らは小さな捕食者だった。夜行性で、虫や小動物を狩って生きていた」


 そして、秋人の瞳の奥を覗き込むように見た。


「あなたの祖先の、ずっと前の形」


 秋人は顎に手を当てて少し考える。


「……つまり、俺のあのあり得ない動きは、二億年前のネズミのパクリってことですか」

「全然違う。雑な理解ね」


 透子は小さくため息をついた。

 その時、後ろで聞いていた絵里奈が楽しそうに口を挟む。


「でも、ほら。遺伝子の記憶って話、よくありますよね。虫が苦手な人が多いのは、大昔に人間が巨大な虫に捕食される側だった名残だとか」


 そこで漸く、秋人は頷いた。


「それは聞いたことあります。一応、俺は腐っても国立大学には受かってるんで。でも、ピンチの時に遺伝子が、二億年前の記憶を引き出すとか言われてもなあ」


 すると透子は、少しだけ口元を緩めた。


「遺伝子は記憶するわ。理屈じゃないの」

「……んでも」


 秋人はお手上げだというように肩をすくめる。


「究極の火事場の馬鹿力……本能ってやつでしょ。確かにそうかもしれない……けど」


 透子はコツ、とヒールを鳴らして一歩近づいた。


「私はこっちの言い方が好きなのよ」


 秋人が顔を上げる。

 透子は言った。


「あなたの戦いは」


 ほんの少しだけ、意味ありげな間を置く。


「遠い遠い、遺伝子の記憶なの」


 秋人は小さく笑う。


「……結局、本能じゃないですか。言い換えただけで」


 透子はゆっくりと首を振る。


「たった二文字で終わらせるのは」


 そして、夜風に黒髪を揺らしながら言った。


「無粋でしょう?」


 その時だった。


 秋人は軽く息を止めた。


 透子が自分に向けて、はっきりと、魅力的な大人の女の顔で笑ったのだ。


 この時の彼には、彼女の笑顔の意味が分からなかったのだけれど。

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