第10話 虎ディジーザー③
その虎は、二足で立ち上がった。
しかも元から、普通の虎より大きな猛獣だ。
獣としての脅威を遥かに超え、異界の圧力を放つ「怪物」へと変貌していた。
「デカすぎんだろっ」
膨れ上がった広背筋が皮膚を内側から押し広げる。
橙色の毛並みの下で鋼のような筋肉が波打つ。
その姿はもはや、人型の化け物、獣人か。
それとも鬼。
「ガルルルルル……」
人間の倍近い巨体から放たれる圧倒的な質量感。
ここ一体が縄張りだと主張する、噎せ返る獣特有の生臭い熱気。
学生街の路地に充満していく。
「グルルルル……」
丸太のように太く、だがしなやかに伸びた後ろ脚の先は、アスファルトを容易く削り取る。
体の一部とは思えないほどに湾曲した、黒光りする爪が五本並んでいる。
秋人は震える手で、ひしゃげた鉄パイプを握り直した。
「熊……かよ。トラってマジか。冗談だろ、おい」
先ほどまでの四足歩行の虎が「野生の脅威」だとするなら、目の前の存在は「ファンタジーの降臨」だった。
「二本足は人間の特権だろうがよ……。ひっ」
一歩、怪物が足を踏み出す。
そのたびに、ズシンと腹に響くような重低音が、アスファルトから伝わってくる。
「……ご……くん」
二階のベランダ。
そこからは、避難させた少女が息を呑む微かな音が聞こえる。
だから、逃げる選択はない。
「ガウ……」
虎が喉の奥で、空気を震わせるような低い唸り声を上げる。
ドスンっ!!
そして、爆発的な踏み込みをした。
「嘘だろ。こんなのってっ!」
牛に追いかけられた、その時と変わらない重厚感だった。
巨体からは想像もつかない速度で、怪物が肉薄する。
「ガウッ!!」
秋人は反射的に鉄パイプを振り上げる。
だが、その瞬間に視界を黒い爪の閃光が覆った。
ガキンッ、と硬質な金属音が路地に響き渡る。
「くっ……トラってこんな動き……」
爪と鉄パイプが衝突した衝撃が走る。
腕の骨を伝わって肩、そして全身の関節へと響いた。
あまりの重さに膝が折れそうになる。
「ガンガン、殴られてるっ……てさ」
秋人は奥歯を噛み締め、必死に踏みとどまった。
しかし、虎の攻撃は止まらない。
「夢だろ? 夢なんだよな?」
二撃目、三撃目と、重戦車のような重みが連続して襲いかかる。
秋人は必死に鉄パイプで致命傷を防ぐが、ついに限界が訪れた。
「ガルゥワっ!!」
バキッ!
嫌な音がして、頑丈なはずの足場用パイプが「く」の字に曲がる。
間髪入れずに振り下ろされた四撃目の爪が、さらにその金属の塊を無残に叩き折った。
その爪の先が、腕をなぞる。
バキン、と乾いた音がして、鉄パイプの先端が宙を舞う。
「痛ってぇ! やっぱ、夢じゃないのかよ。冗談キツイ……」
秋人の手に残ったのは、鋭く折れた短い鉄片だけ。
「クンッ」
虎が勝利を確信したように鼻を鳴らす。
そして、残った一本の巨大な牙を剥き出しにする。
ドンっ!
次の瞬間、巨体が弾丸のように跳んだ。
秋人の顔、いや喉元を狙った、一直線の咬みつき攻撃だ。
咄嗟に体を横へ投げ出したが、怪物の反応速度が上回る。
「うっ!」
鋭い牙が右肩をかすめ、厚手のパーカーが紙のように容易く裂けた。
熱い痛みが走る。
だが死にたくない、秋人は止まらない。
そのまま地面を強く蹴り、一気に間合いを離す。
虎がしなやかな動作で振り返り、爛々と光る黄色い瞳で再び秋人を捉えた。
「犬歯が……疼きやがる」
逃げ場のない路地の奥で、決定的な死に誘う突進が始まる。
——だが、秋人は動かない。
今度は逃げず
真正面から迫り来る巨大な牙を、ただじっと見据える。
剣士の、犬歯の導き——
「いける……のか? 神経の先が、繋がってる……?」
口の中、四本の犬歯に宿る疼きが、指先の神経にまで伝播する。
激突の直前、秋人は目にも留まらぬ速さで両手を伸ばした。
「つかめ……」
ガシッ、と確かな手応え。
虎の口元から突き出した、あの硬度7のエナメル質を誇る巨大な牙。
「……んでっ!」
秋人は両手で正面から掴み取った。
虎の突進の勢いは殺せない。
靴の底がアスファルトを削り、そのまま数メートル後方へ滑る。
「ここ……から」
だが、秋人はそこから体を深く捻った。
怪物の突進の力を、逆らわずに横へと受け流す。
その瞬間を、秋人の体は無意識に動く。
指先、いや爪先。
通常の人間には不可能なほどの力が、爪先数点に凝縮される。
「……牙にひっかけて!!」
傷一つつかないはずの硬い牙に、秋人の指が食い込む。
トラの牙の生え際に、爪が楔のようにめり込む。
凶悪な力に対抗する為、秋人は自らの体と大地を一体化させた。
地面から繋がる肩を支点に、虎の巨体が慣性の法則に従って宙を舞った。
即ち、鮮やかな一本背負い。
三メートルを超える筋肉の塊が、重力に従って反転する。
ブチッ、という生々しく、破壊的な音が響く。
そこから暫くも置かず、ドォンッ!!
背中から地面に叩きつけられた衝撃で、路地全体が震えた。
てこの原理、虎自身の体重、そして回転の遠心力。
それら全てのエネルギーが、秋人の指先という一点に集約された。
「…………ッ!!」
虎は、声にならない絶叫を上げ、全身を激しく痙攣させた。
「や……ったのか?」
秋人はそのまま数歩下がり、荒い息を吐きながら手元を見つめた。
根元から強引に引き抜かれた、血濡れた巨大な「邪歯」がそこに握られていた。
──その瞬間だった。
怪物の巨体が、霧が晴れるように崩れ始めた。
美しい橙色の毛並みが透け、毒々しい縞模様が消えていく。
「え……?」
異常に膨らんでいた筋肉は急速に縮み、骨格が軋む音を立てて再編されていく。
そして、土埃が収まった路地中央に残されたのは、一人の男だった。
色褪せたTシャツに、どこにでもありそうなジーンズ。
どこにでもいる、疲れ切った風貌の男が、地面に突っ伏したまま不規則な呼吸を繰り返している。
「……へ?」
秋人は巨大な牙を握りしめたままだった。
その光景を呆然と見つめることしかできなかった。
さっきまで鬼のようなトラだった男の胸が上下する。
やがて、焦点の合わない目が、ゆっくりと秋人を捉える。
「……」
男の口が微かに動いたが、声は出なかった。
そのまま、男の全身からゆっくりと力が抜け、深い眠りに落ちるように動かなくなった。
そして、路地裏に数時間ぶりの静寂が戻る。
秋人は立ったまま、現実離れしたサイズの牙を見つめた。
風が吹き、男のシャツの裾がめくれた。
シャツの布地は、異常発達した筋肉によって内側から突き破られた痕があった。
それから、集合体恐怖症ならば立ち眩みを覚えそうな程の、凄惨な穴がいくつも開いていた。
だが、今の秋人はそれに気づく余裕はなかった。
「そんな……マジかよ。あの化け物、人間……」
自分が今しがた「治療」したものの正体に、戦慄が走る。
その時だった。
「おい、そこまでだ」
背後から低く、落ち着いた声がした。
秋人は弾かれたように振り向く。
そこには、いつの間にか二人の警察官が立っていた。
(え……。ちょ……ヤバくない?)
心臓が跳ね上がる。
警察にこの状況をどう説明すればいいのか。
手に持っている巨大な牙は——
倒れている男は——
(逃げるべき……?)
秋人が逃走を考え、身構えたその時――
警官の一人が、軽く頭を下げた。
当然の職務を終えた協力者に向けるような
淡々とした態度の、公務の一礼だった。
「ご苦労様です。あとの処理はこちらで」
「……え?」
秋人は思考が停止し、その場に固まった。
もう一人の警官が倒れた男のそばに跪き、手慣れた様子で容体を確認する。
「……ディジーザー確保。回収します」
警官たちは手早く、パトカーの陰から用意していた担架を運び込んだ。
「ディジ……」
男の体を丁寧に、しかし事務的に乗せ、その上から真っ白な布をかける。
担架はそのまま、音もなく路地の外へと運ばれていった。
秋人はそれ以上は何も言えず、ただその背中を見送ることしかできなかった。
◇
遠くでパトカーの赤色灯が静かに回り続けている。
その赤い閃光が、路地の壁をリズミカルに血のような色に染め上げていた。
秋人はゆっくりと自分の手を見つめた。
牙と血。
そして、先ほど担架で運ばれていった、どこにでもいるような普通の男の姿。
「……夢じゃない……のかよ」
路地には警察関係者と、白衣を着た医療従事者らしき集団と野次馬達が集まってくる。
しかし、その中の誰一人として、秋人の震える呟きに答える者はいなかった。




