第四十五話 包丁とレオンの仲裁
「首都、行くから」
ボドがそう切り出したのは、いつもの部屋での、何でもない夜のことだった。
「……え?」
リゼットの表情から、みるみるうちに色が抜けていくのが分かった。
「いつから?」
「来月には」
「私は」
その一言に、ボドは一瞬、言葉に詰まった。
「私も行く。当然、一緒に行くよね?」
「……いや、それは」
「何、その間」
リゼットの声が、急速に温度を失っていった。
「一人で行くつもりだったの、私を置いて」
「いや、向こうでの生活、まだ何も決まってないし。お前を連れていく余裕なんて」
「余裕とか、そういう話してる? 私は、一緒にいたいって言ってるだけなんだけど」
その日の会話は、そこから急速に悪化していった。
「私のこと、もう好きじゃないの」
「そういう話じゃないだろ」
「じゃあどういう話なの。ちゃんと説明してよ」
「四年も付き合ったのに、この時間はどうなるの?」
「いや、それとこれとは」
「結婚するって言ったよね、前に」
「……は?」
(言ってない……! 俺、そんなこと一言も言ってない……!)
ボドの頭の中は、一瞬で真っ白になった。だが、この空気の中で「言った覚えがない」と正面から否定することが、事態をさらに悪化させるであろうことだけは、本能的に理解していた。
「い、いや、その話は、また今度」
「今度っていつ? 結局そうやって、いつも先延ばしにするよね」
ボドが何を言っても、リゼットの涙は止まらず、声は次第に激しさを増していった。
「私、あなたのために色々我慢してきたのに。あの刺繍の帽子も、みんなに笑われても着けてくれたし」
「いや、あれは、その」
(頼んでない! っていうか、着けてって言われたから仕方なく着けてただけだから!)
「それなのに、こんな大事な時に、私を置いていくの?」
部屋の空気が、限界まで張り詰めていく。そして、リゼットが台所に立ったかと思うと、次の瞬間、その手には包丁が握られていた。
「ちょ、待て、待て」
「私を置いていくなら、もう、何しでかすか分からないよ」
その目は、正気とそうでないものの、ちょうど境界線上を漂っているように見えた。
「落ち着けって、頼むから」
ボドは、部屋の隅まで後ずさりながら、必死に言葉を探した。だが、何を言っても、火に油を注ぐだけだった。
この修羅場に、決着をつけたのは、翌日、事の顛末を聞きつけたレオンだった。
「二人とも、ちょっと落ち着いて話そう」
レオンが仲裁に入ったのは、リゼットにとっても、もともと信頼していた相手だったからこそ、できたことだった。
「リゼットちゃん、聞いて。ボドくんは、お前を嫌いになったから置いていくわけじゃないんだよ」
「でも」
「向こうは、右も左も分からない土地なんだ。生活の基盤も、まだ何もない。そんなところに、大事な相手を巻き込むのは、無責任だと思わないか」
レオンの言葉は、あくまで穏やかで、それでいて筋の通ったものだった。
「ボドくんが落ち着いたら、ちゃんと迎えに来るとか、そういう話もできるだろうし」
「……本当に?」
リゼットが、涙目のままボドの方を見た。
「あ、ああ、うん」
ボドは、その場しのぎのように頷いた。
結局、その日のうちに、二人は「一旦、距離を置く」という、なんとも曖昧な形で話をまとめることになった。リゼット本人にとって、それが本当に納得できる着地点だったのかどうかは、誰にも分からなかった。少なくとも、包丁は静かに台所へ戻され、その日の修羅場は、一応の収束を見た。
「助かったよ、レオン」
「まあ、これくらいはな」
レオンはそう言いながらも、内心では複雑な思いを抱えていた。もとはと言えば、この二人を引き合わせたのは、自分自身だった。その負い目が、こうして最後の後始末にまで、彼を駆り立てていた。




