第三十七話 背中を撫でる男
「今度の興行、ガルシオン呼べることになったから」
レオンがそう言った瞬間、ボドは持っていたグラスを取り落としそうになった。
(うそだろ……! また会える……!)
「え、マジで」
「マジで。向こうの箱で世話になった時の伝手で、無理言って頼んでみた」
その一言で、ボドの頭の中は、その日から数週間、ほとんどそのことでいっぱいになった。
あの夜、フェリシオンで初めて聞いた、あの声。あの姿。自分に「アッシュ」という名前をくれた、原点とも言える存在。それが、また目の前に現れる。
当日、ボドは開場前から会場の外に並び、誰よりも早く中に入った。ステージの上でギターを掻き鳴らすガルシオンの姿は、あの夜と変わらず、荒々しくも芯のある佇まいだった。
(変わってない……あの日のままだ)
演奏が終わり、打ち上げの時間になった頃には、ボドの興奮は、もはや隠しようのないレベルに達していた。
「あの、すいません」
思い切って、ガルシオン本人に声をかける。
「ん?」
「今日の演奏、本当に、その、感動しました。というか、あなたの歌に出会って、俺、人生変わったんです」
「へえ、そりゃどうも」
(このままじゃただの一言で終わる……何か、繋がるきっかけが欲しい……)
ガルシオンの反応は、悪くはなかったが、特別なものでもなかった。この手のことを言われるのは、彼にとっては日常茶飯事なのだろう。
だが、ボドはそれで満足できなかった。もっと、決定的な印象を残したい。その一心で、次の行動に出た。
「あの、握手とか、いいですか」
「ああ、いいよ」
差し出された手を握った瞬間、ボドの手は、そのまま流れるようにガルシオンの腕をなぞり、あろうことか背中にまで伸びていった。
(この筋肉、本物だ……すごい……)
「……お前、何してんの」
ガルシオンが、さすがに困惑した声を上げた。
「あ、いや、その、筋肉が、すごいなと思って」
「いや、それにしても撫でるか、普通」
周りにいた何人かが、ぎょっとした顔でこちらを見ていた。レオンも、少し離れた場所で、頭を抱えるような仕草をしていた。
(あれ、なんかまずかったか……?)
その後、ボドは自分の名前を名乗った。
「俺、アッシュって名乗ってるんですけど、これ、あなたの曲から取ったんです」
「……ああ、あの曲か」
ガルシオンは、一瞬だけ、何とも言えない顔をした。自分の曲のタイトルを、初対面の男が名前として名乗り、しかも背中を撫でてきた。その状況に、多少の気味悪さを覚えたのは、想像に難くなかった。
「まあ、気に入ってくれたなら、光栄だけど」
そう言いながらも、ガルシオンの視線には、明らかな戸惑いが残っていた。
だが、皮肉なことに、この一連の奇行は、結果として、ガルシオンの記憶にボドの存在を強く刻みつけることになった。
「お前、さっきの、名前何だっけ」
打ち上げの終わり際、ガルシオンの方から、そう声をかけてきた。
「アッシュです」
「ああ、うん。まあ、連絡先くらいは交換しとくか。変な奴だけど」
(やった……! 繋がった……!)
その一言で、ボドは天にも昇るような気持ちになった。
こうして、この夜をきっかけに、ボドとガルシオンは、時々連絡を取り合える程度の間柄になった。もっとも、それは「気に入られた」からというより、「印象に残る奇行をした客」として記憶された、という側面の方が大きかったのだが、ボドがその違いに気づくことは、この先もずっとなかった。




