第三十三話 なんか変な空気
馬車工房での仕事にも慣れ、一年ほどが経った二十八歳の頃、ボドはようやく、リゼットの家を出て一人暮らしを始めることができた。
「もう出てくの?」
最後の夜、リゼットは案の定、目に涙を溜めながらそう聞いてきた。ひと悶着どころではない時間を要したが、最終的には「近くに部屋を借りるだけで、別れるわけじゃない」という、なんとも歯切れの悪い落としどころで、どうにか収まりをつけることができた。
小さいながらも、誰にも気兼ねしなくていい自分だけの部屋。それだけで、ボドの中の何かが、久しぶりに軽くなった気がした。
「お前、そういえば」
工房のある先輩職人に、ある日ふとそう聞かれた。
「盗賊でSランクだったんだろ、地元のギルドで。なんで冒険者にならなかったんだ、こっちで」
その問いに、ボドは一瞬詰まった。
「まあ、色々あってさ」
「もったいなくないか、それ」
「いや、冒険者、それも盗賊なんて、正直あんまりロックじゃないだろ」
「ロック……?」
先輩職人が、怪訝な顔をした。
「男の仕事は、結局こういう、手に職つける方だと思うんだよな、俺は」
我ながら苦しい理屈だとは思っていたが、口に出してしまえば、それなりに筋が通っているように聞こえた。実際のところ、冒険者に戻るという選択肢は、この時のボドの頭には、そもそも浮かんでもいなかった。
「まあ、お前がそう思うならいいけどよ」
先輩職人はそれ以上追及せず、作業に戻っていった。
その日の仕事終わり、久しぶりにレオンの店に顔を出した。
「おう、久しぶり」
「ボドくん、元気そうじゃん」
「アッシュだけど」
いつも通りのやり取りだったが、なんとなく、店内の空気がいつもと少し違う気がした。
「アッシュさん、仕事どうですか」
トビアスがそう聞いてきたが、その口調に、微妙な間があった。
「まあ、ぼちぼち」
「そうっすか」
トビアスが、心なしか目を合わせないまま、棚の整理を始めた。
「なんか、変な空気じゃないか、今日」
「そんなことないですよ。別に、いつも通りっす」
その言い切るタイミングまで、妙に不自然だった。
「レオンは?」
「奥で在庫確認してる」
カウンターの奥をちらりと見ると、レオンが一瞬だけこちらに目をやり、すぐに視線を逸らした。その一瞬の間に、何か言いたいことを飲み込んだような、微妙な表情が見えた気がした。
――なんだ、これ。
具体的に何がおかしいのか、ボドには言葉にできなかった。だが、長年培ってきた勘のようなものが、小さな警報を鳴らしていた。
その正体に気づくまで、そう長くはかからないことになる。




