第三十二話 男の仕事は職人
酒場を辞め、二十七歳になっていたボドが次に見つけたのは、フェリシオンの外れにある馬車の装飾工場だった。
朝早くから、木材と塗料の匂いが立ち込める作業場で、ボドは見習いとして働き始めた。
「お前、名前は」
初日、工房の親方にそう聞かれた。
「アッシュです」
「アッシュ? ここに書いてある名前と違うけど」
親方が手にした履歴書には、当然ながら本名が記載されていた。
「そっちは、まあ、正式な方の名前で」
「じゃあ何て呼べばいいんだ」
「アッシュで」
親方は怪訝そうな顔をしたが、それ以上は特に追及せず、「まあ好きに呼ばせろ」とだけ言って、作業に戻っていった。書類に本名が書いてあるにもかかわらず、頑なに「アッシュ」で通そうとする姿勢は、この工房でも変わらなかった。
仕事自体は、単調だった。彫刻の下地作り、塗装の下準備、金具の取り付け。地道で、目立つ要素は何一つない作業の繰り返しだった。
最初のうちは、この仕事に対して、複雑な思いがあった。
――俺は、有名になりたくてフェリシオンに来たはずなのに、なんでこんな、誰にも顔を覚えられない仕事をしてるんだ。
*
だが、働き始めて数週間が経つ頃には、その感情に、少しずつ別の理屈が上乗せされていった。
「見ろよ、この細工」
先輩職人の一人が、仕上がったばかりの馬車の側面を指差した。精巧な彫刻が施された装飾は、たしかに見応えがあった。
「地味な仕事だけど、こういうのが分かる客はちゃんと分かるからな」
その一言に、ボドの中で何かが繋がった。
――そうか、これも一つの「本物」の形なんだな。
華やかな舞台に立つことだけが、本物の証明ではないのかもしれない。黙々と手を動かし、技術を磨く。それもまた、男としての一つの生き方なのだと、ボドは自分の中で、都合よく再定義し始めていた。
「男の仕事は、結局こういうのだよな」
ある日、休憩中にそうつぶやくと、隣にいた別の職人が首を傾げた。
「急に何の話だ」
「いや、なんとなく」
その理屈は、実のところ、彼が有名になれていない現実と折り合いをつけるための、後付けの自己正当化に過ぎなかった。だが、一度その理屈を口にしてしまうと、ボドはそれを、まるで昔からの信念であったかのように、繰り返し使うようになっていった。
「事務仕事してる男とか、ちょっと分かんないよな、俺には」
そんなことを、根拠もなく言うようにもなった。手に職をつけて働く自分の方が、机に向かって書類を扱うだけの仕事より、いくらか「男らしい」のだという、妙な優越感を持ち始めていた。
この頃のボドは、有名人になるという当初の目標からは、着実に遠ざかっていた。それでも本人の中では、この工房での日々もまた、いつか何かに繋がる修行期間として、都合よく位置づけられていた。




