第二十九話 追い出される
姉の家での生活は、最初の数日こそ平穏だった。
「ちゃんと仕事探しなさいよ」
「分かってるって」
姉はそう言いながらも、弟の急な居候を、渋々ながら受け入れてくれていた。だが、その平穏は、そう長くは続かなかった。
「うるさい、その音」
夜、部屋にこもってギターの練習をしていると、隣の部屋から苛立った声が飛んできた。
「練習だよ、大事な」
「大事なのは知らないけど、うちは楽器練習用の防音設備なんてないんだから」
最初のうちは、こうした軽い小言で済んでいた。
だが、ある夜、リゼットが姉の家に遊びに来たことをきっかけに、事態は一変した。
「今日は泊まっていい?」
「まあ、少しだけなら」
その「少しだけ」の判断が、後々大きな災いを招くことになるとは、この時のボドはまだ知らなかった。
夜も更けた頃、壁一枚隔てた向こうで、姉が眠れないまま、隣室から漏れ聞こえる物音に、次第に顔を歪めていった。
翌朝、ボドは姉の部屋に呼び出された。
「あんたたち、少しは加減ってものを考えなさいよ」
「な、なんの話だよ」
「昨日の夜、丸聞こえだったから、全部」
姉の声には、怒りを通り越した、疲れ切ったような響きがあった。
「うちに置いてあげてるのは、あんたが仕事見つけるまでの間だけよ。それなのに、ギターはうるさいわ、夜は夜で騒がしいわ。もう限界」
「いや、それは……」
「出てって」
あまりにきっぱりとした一言だった。
「今日中に。友達んちでも、彼女んちでも、好きなとこ行きなさい」
弁解の余地は、どこにも残されていなかった。
その日の夕方、ボドは荷物をまとめ、行き場を求めて途方に暮れていた。頼れる相手は限られていた。カインの家は狭く、ハンスやジークやゴランツは地元にいる。フェリシオンで、当座の寝床として現実的な選択肢は、実質一つしかなかった。
「今日から、少しの間だけ、泊めてくれないか」
ボドがそう切り出すと、リゼットは目を輝かせた。
「もちろん! ずっと一緒にいたかったから、嬉しい」
その反応に、ボドは安堵と、同時にわずかな不安を覚えた。仕事が見つかるまでの、あくまで一時的な同居のつもりだった。だが、これが本当に「一時的」で済むかどうか、この時のボドには、まだ確信が持てずにいた。
少なくとも今は、他に選択肢がなかった。それだけが、この決断の全てだった。




