第二十二話 絵になる客層
「へえ、ここがアッシュさんの職場」
ある日、フィオナがふらりと店に顔を出した。誰かに場所を聞いたのか、あるいは単なる気まぐれか、店の奥の席に腰を下ろすなり、興味深そうに店内を見回している。
「こんなとこ、女が一人で来るとこじゃない」
ボドはカウンターの中から、努めて低い声でそう言った。危険な場所に不用意に踏み込んできた相手を、余裕を持って窘める――そういう構図を、頭の中で勝手に組み立てていた。
「別に平気だよ。むしろ、こういう空気、絵の題材として面白いから」
フィオナはそう言いながら、懐から小さなスケッチ帳を取り出した。物怖じする様子は、まるでなかった。
「危ないって、こういう店。柄悪い客も多いし」
「知ってる知ってる。あそこの人、腕に入れ墨バリバリだし、あっちの人なんて指、何本か欠けてるし」
フィオナは店内を指差しながら、あっけらかんとそう言った。ボドが「怖がらせよう」として並べたはずの要素を、フィオナはただの観察対象として、淡々と消化していた。
「あと、あそこの奥にいる人、さっきからずっと下ネタしか言ってないけど、あれは平気なの」
「……お前、それも聞こえてたのか」
「聞こえてたよ、普通に。でも別に、下ネタくらい普通じゃない? 男女どっちが言っても」
あっけらかんとそう返され、ボドは何も言い返せなかった。むしろ、この程度で動じない相手を怖がらせようとしていた自分の方が、いくらか間抜けに思えてきた。
「……お前、それ見て怖くないのかよ」
「絵描きとして見ると、むしろ良い顔してる人多いよ、この店」
その返答に、ボドは若干、拍子抜けした。
「アッシュさんは怖くないの、こういう人たちと働いてて」
「怖くはない。まあ、多少は緊張感あるけど」
「へえ、やっぱりロックだね」
フィオナがそう茶化すように言うと、ボドは満更でもない顔をした。
「まあ、そういう世界にいるってことだよ、俺は」
「でもさっき、奥の常連さんに『新入り、まだビビってんな』って笑われてなかった?」
「……見てたのか」
「聞こえてたよ、普通に」
ボドは口をつぐんだ。
フィオナはそれ以上追及せず、スケッチ帳に、カウンターの隅で酒を飲む常連客の横顔を、さらさらと描き始めた。慣れた手つきだった。
「アッシュさんも描いていい?」
「……別に、いいけど」
しばらくの沈黙のあと、フィオナがスケッチ帳をこちらに向けた。そこに描かれていたのは、努めて渋い顔を作りながら、グラスを拭くボドの姿だった。
「……なんか、思ったより不自然な顔してんな、俺」
「うん、めちゃくちゃ気張ってる顔してる」
フィオナが笑いながらそう言った。
「絵、上手いな」
「でしょ。今度、レオンの興行の告知にも使う予定なんだよね、こういうタッチの絵」
「俺の絵も、使ってくれよ」
「これ? これは個人的に気に入ったから、自分用にとっておく」
その言い方の軽さに、ボドは何も言い返せなかった。
結局その日、フィオナは特に何をするでもなく、店の隅で常連客たちの顔をスケッチしては、時折ボドに軽口を叩き、日が暮れる前に帰っていった。
「また来ていい?」
「……勝手にしろ」
ボドはそう言ったが、その口調には、思ったよりも拒絶の色がなかった。
この日を境に、フィオナは時々、気が向いたようにこの店に顔を出すようになった。ボドにとって、それは危険な自分を演出する上での、地味に都合の悪い観客が一人増えた、ということを意味していた。




