第二話 似合う男
轟音酒場:ライブハウスのようなもの
地下の轟音酒場を出た頃には、耳の奥にまだ低い残響が残っていた。
夜の空気は冷たいはずなのに、ボドは全く寒さを感じなかった。むしろ体の内側が、まだ小さく発熱しているような感覚があった。本人はこれを「運命の高揚」だと思っていたが、単に酒と興奮で血の巡りが良くなっていただけの可能性も、当然ある。
「なあ、もう一軒どっか行こうぜ! 今日はまだ帰りたくない」
「お前、テンションおかしいって! さっきから何もしゃべってねえのに、目だけギラギラしてるじゃん」
カインが半分呆れたような声で言う。もっともな指摘だったが、こういう時のボドに常識的な意見が届いた試しはなかった。
路地を適当に歩いていると、明かりの漏れる小さな店が目に入った。
ガラス張りの店先に、無造作にかけられたジャケットが一着。それだけなのに、通りすがりの誰もが一度は足を止めてしまうような、妙な吸引力があった。
「入ってみようぜ」
ボドがそう言うと、カインは「もう金ねえだろ」と苦笑しながらも、面倒くさそうについてきた。この男が律儀に付き合ってやっているという事実に、後々ボドが気づくことは、残念ながら一度もなかった。
扉を開けると、革と染料の匂いが鼻をつく。狭い店内には、これまで見たことのない形の服が並んでいた。地元メルダの服屋にあるような、無難で丈夫なだけの服とは全く違う。
「いらっしゃい」
カウンターの奥から、店主らしき青年が顔を上げる。年齢はボドたちより一つ上くらいだろうか。人当たりのいい笑みを浮かべているが、その目はさりげなく、入ってきた客の全身を一瞬で値踏みしているようにも見えた。
これがレオンだった。長くこの商売をやっていれば、財布の中身から自惚れの度合いまで、大体は服の見方だけで分かるようになる。この日入ってきた青年についても、レオンはすでにいくつかの見当をつけていたが、口には出さなかった。それが商売というものだった。
「ちょっと見てるだけ」
カインがそう言って、興味のなさそうな顔で店の隅の椅子に腰を下ろす。だが、ボドの方はすでに、店内の空気に呑まれていた。
一着のジャケットに、目が釘付けになる。
「これ、試着していい?」
「もちろん」
ボドは鏡の前でそのジャケットに袖を通した瞬間、思わず息を止めた。
鏡に映る自分が、いつもの自分ではなかった。
(これ、俺か……?)
いや、正確に言えば、これまで自分がなんとなく「かっこいい」と信じて着ていた服が、実は全部的外れだったということに、今初めて気づいたのだった。ボタンの位置一つ、裾の丈一つで、人間の見え方はここまで変わるらしい。それを二十四年かけて知らなかったこと自体が、そこそこの事件のはずだが、本人はそちらには一切気を留めなかった。
「……これ、俺に似合ってる」
「うん、似合ってるよ。脚長いし、肩幅もいい位置にあるから、こういう縦のラインが映えるタイプ」
レオンが淡々と、まるで営業トークとも本音ともつかない口調でそう言った。ボドはその一言を、必要以上に深く受け止めてしまった。
この人は、自分の「良さ」を正しく分かっている。
鏡の中の自分を見つめながら、ボドの中で何かが繋がっていく感覚があった。さっき轟音酒場で見たガルシオンの姿。誰にも媚びず、ただそこに立つだけで人の目を集めていた、あの姿。あれは、才能とか歌のうまさだけの話ではなかったのかもしれない。
自分にも、それができるかもしれない。
鏡越しに、レオンと目が合う。レオンは特に何も言わず、ただ商売用の笑みを浮かべたままだった。
――この客は、少し面倒なタイプかもしれない。
そんな内心が顔に出ることは、レオンの営業スキルとして許されていなかったが、長年この店に立っていれば、そういう予感くらいは自然と身についてしまう。目の輝き方に、覚えがあった。自分に何かが「降りてきた」と信じてしまっている人間特有の、あの目だ。この手の客は大抵、数ヶ月後には別の何かに「降りてこられて」いなくなるのだが、レオンはそこまで先読みして商売をするほど暇ではなかった。
「他にも見てく? 合わせるパンツも一応あるけど」
「見る。全部見る!」
カインが椅子の上で、小さくため息をついたのが聞こえた。
「……お前、今日で人生変わった系のテンションになってねえか?」
「変わったんだよ、たぶん」
ボドは本気でそう言った。誰に何を笑われても構わないくらい、今この瞬間だけは、自分の中で全てが繋がっている気がしていた。もっとも、こういう確信は大抵、翌朝には半分くらい萎んでいるものだが、その事実にボドが気づくのは、もう少し先の話になる。
試着室から出るたび、鏡の前で角度を変え、自分の見え方を確かめる。だが、いくつか羽織ってみるうちに、一つだけ気になることがあった。
「これ、めちゃくちゃ良い……けど、腕上げにくいな。動きづらくないか、これ」
「動きにくいね、それ。まあ、オシャレは我慢だから」
レオンは特に力むでもなく、まるで天気の話でもするような調子でそう言った。おそらく本人としては、単なる世間話のつもりだったのだろう。だが、ボドの中では、その一言が思いのほか深く響いた。
――オシャレは我慢。
窮屈な靴も、体に張り付くようなシャツも、この見え方のためなら我慢して当然。あのガルシオンだって、きっとステージの上であれだけ動き回るのに、決して着崩れない格好をしていた。あれも、我慢の結果だったのかもしれない。だとすれば、自分がこの程度の窮屈さに音を上げるわけにはいかない。
レオンにとっては世間話の延長で出た軽口の一つに過ぎなかったが、ボドはこれを、自分だけの真理として持ち帰ることになった。誰に教わったわけでもなく、鏡の前で一人で気づいてしまった――と本人は思っていたが、正確には、さっきレオンが言った通りの言葉である。真理と呼べるかどうかは、この際どうでもよかった。
会計の際、レオンが軽い調子で聞いてきた。
「名前、聞いてなかったね。今度また来る時、声かけやすいように」
少し迷ってから、ボドは答えた。
「……アッシュ」
自分の口から出たその名前は、まだ少し慣れない響きをしていたが、悪くない、と思った。
「アッシュくんね。じゃあまた、良いの入ったら声かけるよ」
レオンはそれ以上、深く聞き返すことはしなかった。この街には、そういう名前で通したい若者が、割と多く出入りする。だから、レオンにとってそれは、特に珍しいことでもなかった。




