第一話 灰になる夜
メルダ:地名。主人公の故郷。人口10万人未満の小規模都市
フェリシオン:地名。人口50万人前後の中規模都市
フェリシオンの夜は、メルダの夜より少しだけ長く感じられる。
同じ二十四時間のはずなのに、街灯の数が違うだけで時間の流れ方まで変わって見えるのだから、ボドはこの街がやはり自分に向いているのだと、来て三日目にしてすでに確信していた。
「なんか歩くところじゃなくて、飲んでるところ入ろうぜ!」
隣を歩くカインが、ポケットに手を突っ込んだままそう言った。地元にいた頃から変わらない、気だるそうな声。それでいて、その辺りを歩いている女たちが二度も三度もカインの方を振り返るのを、ボドは横目でちゃんと数えていた。
自分だって、悪くないはずだ。背は高いし、脚も長い。今日のために選んだ服だって、決して安物ではない。
ただ、視線の量が違う。それだけのことだった。
二人は目的もなく歓楽街の裏路地を歩いていた。地元の友達内で「一度フェリシオンに出てみよう」という話がまとまってから、まだ数日しか経っていない。ボドにとってこの旅は、単なる息抜き以上の意味を持っていた。何か、確かめたいことがある気がしていたのだ。それが何なのかは、まだ自分でも分かっていなかった。
路地の奥から、低い重低音が聞こえてきたのは、そのときだった。
空気そのものが震えているような音だった。ドラムの音が地面から伝って、足の裏からせり上がってくる。
「なんかやってんな!」
カインが顔をそちらに向ける。ボドはすでに、足がそちらへ向いていた。
看板もろくに読めないような、地下へ続く狭い階段。壁に貼られた一枚のポスターに、黒一色の写真が使われている。長い前髪の下から覗く目だけが、こちらを見ている気がした。
誘われるように階段を下りる。
扉を開けた瞬間、音の壁にぶつかった。
狭いフロアに詰め込まれた人間たちが、一つの生き物のように上下に揺れている。汗と煙と、安い酒の匂い。ステージの上では、ギターを抱えた男が、体をくの字に折るようにして弦を弾いていた。
声が出た瞬間、フロア全体の空気が変わった。
ステージの上で吠えるように歌っているこの男は、ガルシオンという。首都グランディアを拠点に活動しているらしく、ここフェリシオンにまで流れてくる客の中にも、彼目当ての者が何人もいるらしかった。もっとも、そんな前情報を、この時のボドはまだ何一つ知らない。ただ音の壁にぶつかって立ち尽くしていただけだった。
ボドはそれまで、歌というものを「うまいか、下手か」で聞いていた。地元の楽団のライブも、酒場で流れる流行りの曲も、全部そうだった。うまい人間はうまい。下手な人間は下手。そういうものだと思っていた。
だが、ステージの上のその男の声は、うまいとか下手とか、そういう物差しの外側にあった。
叫んでいるのか歌っているのか分からない。唸っているような、怒っているような、そのくせどこか泣いているような声。ギターの弦が切れそうな勢いで掻き鳴らされ、それに男の声が絡みつく。歌詞の意味は半分も聞き取れなかったが、意味なんてどうでもいい気がした。
この男は、誰の許可も得ずに、ここにいる。
(何だよ、これ……)
その事実だけが、ボドの胸の奥に杭を打ち込むように刺さった。
冒険者ギルドの評価、盗賊としてのランク、賭博で溶かした金、地元での「お調子者」という評判——そういうものが、頭の中で一つずつ音を立てて崩れていく感覚があった。自分がこれまで積み上げてきたものは、何だったのだろう。誰かに認められるために、器用に立ち回ってきただけではなかったか。
この男は、そんなことをしていない。ただ、そこにいる。それだけで、フロアにいる全員の目を独占している。
曲の合間、男がぼそりと呟くようにMCを挟んだ。
「次の曲は……まあ、俺の話だ。灰になった男の話」
短いギターのフレーズが始まる。
タイトルを叫ぶように、男が声を張った。
「―― “アッシュ” ――」
その一言が、フロアの空気を切り裂いた。
燃え尽きて、灰になって、それでもまだ何かを探して歩き続ける。そういう男の生き様を歌った曲だった。ボドには、歌詞の細部まではっきりと聞き取れたわけではない。だが、輪郭だけは確かに伝わってきた。
誰にも縛られず、誰の目も気にせず、燃え尽きるまで自分のまま生きる男。
それこそが、自分の探していたものだと、ボドは思った。
「……アッシュ」
口の中で、その響きを一度転がしてみる。
(これだ。これしかない……)
隣でカインが、酒瓶を片手に「うっるせぇなあ! これロックってレベルじゃねえだろ! 喧嘩の音じゃん!」と顔をしかめながら笑っているのが見えたが、ボドの耳にはもう、ほとんど届いていなかった。
ステージの光を浴びながら立つ男の姿が、今の自分とは正反対の場所にあるように見えて、それなのに、なぜか自分もそこに立てる気がしてしまった。
この日から、ボドは自分をアッシュと名乗ることにした。
誰に頼まれたわけでもなく、誰に認められたわけでもなく、ただ自分の中だけで、静かに——そして、いくらか大げさに——そう決めたのだった。




