第35話 展望台
朝七時前。
エンジンをかけたままの車の中で、俺は二度目の深呼吸をした。
山荘から駅までは三十分もかからない。
九時発の列車なのに、迎えの時間は七時。自分で言い出しておいて、早すぎると思う。
でも――彼女が帰る前に、連れていきたい場所があった。
山の朝の空気は、夜の名残できりりと冷たい。
フロントガラスの端に白く霜がついていた。
山荘の玄関が開く音がして、顔を上げる。
彼女が出てきた。
固定具と包帯の巻かれた足。ぎこちなく、ゆっくりした動き。それでも、表情は明るい。
帰る人、というより、これから出発する人みたいに見える。
俺は車から降りると、玄関への階段を駆け上った。
「おはようございます」
「おはようございます」
「荷物は、それだけですか」
彼女はショルダーバッグひとつを肩にかけているだけだった。
「後から、送ってもらうことにしました」
彼女が笑う。目の強さに、自力で帰る、そんな覚悟が見えた。
彼女を支えて階段を下り、助手席のドアを開ける。
「駅、行く前に少しだけ寄り道してもいいですか」
「はい」
彼女は頷いた。
待ち合わせを二時間も早い時間にした時点で、わかっていたと思う。
その時は理由を聞かれなかった。
山間の朝は遅い。
空は夜の色を薄めているが、この辺りは山の陰になって、まだ薄暗い。
薄暗さの中、車を走らせる。
山道を登る。除雪された細い道。朝日が木々の間から斜めに差しはじめている。
会話は途切れ途切れだった。
気まずいわけじゃない。ただ、どちらも、言葉を選びすぎている。
やがて――
峠の手前の小さな広場に車を止めた。
「降りられますか」
手を差し出すと、彼女は一瞬ためらってから、そっと手を乗せた。
彼女が降り立つと、俺は彼女に背を向けてしゃがんだ。
「俺の背中、乗ってください」
つとめて明るく言う。背後で、彼女が躊躇しているのがわかる。
「すぐそこまでです。ほら、早く。時間がないので」
俺があえて急かすと、彼女は俺の背に身体を預けた。
何でもないふうを装って立ち上がり、彼女を背負い、雪を踏みしめて歩く。
彼女は軽かった。一昨日抱き上げた時より、さらに軽く感じる。
森の中を数分歩き、丸太で土留めした階段を十段ほど上ると――
俺たちは、展望台に到着した。
車四台分くらいの平地を柵で囲っただけのスペースだが、背後には、針葉樹の森。そして目の前には、雪化粧の山々。その麓には小さな町。町の中ほどを線路が一本、ゆるやかにカーブしながら通っている。
ちょうど俺たちの背後から、遅れた朝陽が差してきたところだった。
眩しい朝の光が、目の前の山々の尾根の雪を輝かせている。
俺は彼女をそっと下ろした。
「……わあ……きれい……」
彼女が目を輝かせ、深く息を漏らした。
思った通りの彼女の反応に、俺も、自然と顔がゆるむのがわかった。
「この前、展望台に連れていくって言ったでしょう?」
何気ない口調で、俺は言った。
「本当は、夕陽がきれいに見える場所なんですけどね」
「……」
彼女に、俺が約束を覚えていることをわかってほしかった。
彼女の顔に、複雑な表情が浮かんで、俺はたじろいだ。
驚いているのか、嬉しいのか、それとも、泣きそうなのか……。
俺はただ――
これで終わりにはしたくなかった。
それだけのことだ。
どんなに細くても、繋がっていたい、そう思った。
「夕陽はまた今度、見に来ましょう。さくらさんが、もしよければ」
俺は重ねて言った。
風が吹いた。
冷たいのに、不思議と痛くない風だった。
*****
展望台の上は、森の陰になっていて薄暗かった。だから、よりいっそう目の前に開けた景色が、朝の光を浴びて明るんでいく様子は、輝かしく見えた。
空気は冷たいのに、不思議と胸の奥はあたたかい。
展望台へ連れていくという約束を、守ってくれた耕平さんの優しさが、嬉しかった。
――「夕陽はまた今度、見に来ましょう。さくらさんが、もしよければ」
重ねて言ってくれた言葉が、心に染み込んでくる。
また今度――
そんな時が、あればいいなと思うけれど……。
「……さくらさん……」
名前を呼ばれて私は我に返り、顔を上げた。
「……?」
少しだけ言いよどんでから、彼は言った。
「名前。似合ってるな、って思って。綺麗ですよね、桜の花」
不意打ちだった。
頬のあたりが、ふっと熱くなる。
「この辺でも、有名じゃないけど、きれいな場所あるんですよ。川沿いの土手が桜並木で。開花は遅くて……ゴールデンウィーク前くらいかな」
耕平さんは、少し早口になっている。私の頭の中に、一瞬、桜並木のイメージが浮かんだ。春風に揺れる、淡いピンク色――
「一緒に……見に行きませんか?」
耕平さんと、目が合った。穏やかな笑みを浮かべた目元から、視線が外せない。
胸の奥で、何かがほどけた。
戻ってくる場所ができた――そのことが、とても尊く思えた。
私は小さく息を吸って、うなずいた。
「……はい」
声に出したら、それはもう、ちゃんとした約束になった。
彼の顔が、ぱっと明るくなる。人懐っこい、太陽みたいな笑顔。
「あさひ山荘、ゴールデンウィークは結構人気なんですよ」
もう完全に仕事モードの口調なのに、目だけが嬉しそうで。
「今から、予約しておいてください」
思わず笑ってしまった。
「そんな先の営業まで」
「先じゃないです。すぐです」
即答だった。
その迷いのなさが、嬉しかった。
私たちのいる場所にも、いつしか朝の光が満ちていた。




