第36話――エピローグ
発車のベルが鳴って、列車がゆっくりと動き出す。
窓際の席に腰を落ち着けて、私は小さく息を吐いた。
ガラス越しの世界は、来たときよりもずっと白い。雪はさらに深く積もり、森も、畑も、屋根も、すべてが静かに包まれている。
同じ景色なのに、まったく違って見えた。
変わったのは、景色ではなく、私だった。
あのときは、逃げるような気持ちだった。
今は――戻ってくる途中みたいだ、と思った。
ここはもう、「通り過ぎた場所」ではない。
また帰ってくる場所だ。
自然と、口元がゆるむ。
斜め前の席に目をやる。
空いているはずのその席に、一瞬だけ、紺色のジャンパーが見えた気がした。
背もたれに頭を預けて、少しだけ口を開けて眠っている人。
瞬きをすると、当然そこには誰もいない。
代わりに浮かんだのは、ほんの数分前のホームの光景だった。
冷たい朝の空気の中で、少し照れたような明るい笑顔。
「お気をつけて。……ちゃんと予約、忘れないでくださいね」
最後まで、半分は仕事みたいな言い方で。でも、眼差しは優しく、温かかった。
列車はカーブを曲がり、あっという間に町が見えなくなる。
線路が山あいへ吸い込まれていく。
私は目を閉じた。
浮かぶのは、雪ではない。
やわらかな光。
水面に空を映す池。
――「春の鏡池も綺麗ですよ」
別れ際の、耕平さんの何気ない言葉。
風にほどけるみたいに揺れる、春の気配。
その景色の中に、自分がもう一度立っているところを、はっきりと想像できた。
今度は、逃げてきた旅人ではなく。
約束を持って帰ってきた人として。
「あさひ山荘の物語――さくらの物語」を読んでくださって、ありがとうございます。
続く「あさひ山荘の物語――さくらと耕平の物語(前編)」では、さくらと耕平のこれからの物語が始まります。
もしよろしければ、もうしばらく、この世界にお付き合いください。




