第33話 回り道
病院の待合室で、綾子さんが待っていてくれた。
私が怪我の具合の説明をすると、綾子さんは、ほっとしたように息をついた。
「骨が折れてなくて、よかったわね」
綾子さんが、明るく言った。
「あの……いろいろと……すみませんでした」
「私の方こそ、ごめんなさい。ちゃんと注意してなかった私たちのせいでもあるから」
綾子さんが頭を下げるのを、私は慌てて止めた。
「そんな! 綾子さんのせいじゃないです」
「お客さんの安全は、私たちの責任だから」
綾子さんは真面目な顔で言った。
私はそれ以上、謝罪の言葉が言えなくなってしまった。
「……私、明日、東京に帰ります」
「その足で? 大丈夫なの?」
綾子さんが心配そうな表情をする。
「ずっと逃げてるだけじゃ、だめだっていうことだと思うんです」
「……逃げてきたのね」
綾子さんは、何から?とは聞かなかった。ただ、私の言葉を受け止めてくれる。
「私は、時には、逃げることも大事だと思う。いつでも逃げ込める場所がある、って心強いと思う。さくらさんにとって、そういう場所のひとつが、あさひ山荘だったらいいな、と思うの」
綾子さんは、静かに言った。
綾子さんの言葉が、私の心に静かに降りてくる。
その言葉が、心の奥にある固いものを、少しずつ溶かしていった。
「……私、今まで失敗ばかりしてきました。また失敗するのが怖くて、これ以上、前に進めなくなってしまったんです」
また傷つくのが怖くて、うずくまっているうちに、私の中の傷が化膿して、身動きがとれなくなってしまった。
私の中に、どろどろしたものが溜まっていって、呼吸することさえ難しくなって――
逃げるように、ここに来たのだった。
「逃げてもいい、失敗してもいい、って思って気楽にやれば、いいんじゃないかな。人生は一度きりだもの。自分で選んだ道を行ってみたらいい。逃げても、失敗しても、またそこから始めればいいのよ。回り道や寄り道だって、歩いた道は必ずあなたをどこかへ連れていってくれる。すべて含めて、人生なんじゃないかな。
どんな経験も――絶対に無駄にはならないから」
「……」
「なーんてね。語ってしまったわ。亮介さんが聞いてたら、柄じゃない、なんて揶揄うでしょうよ」
綾子さんはそう言って、悪戯っぽく笑った。
私の中で、何かが動き始めた、そんな気がした。
*****
昼過ぎ、店で伝票の整理をしていると、スマホが震えた。
表示された名前を見て、思わず背筋が伸びる。
「はい、トクヤマです」
『綾子です。仕事中ごめんなさいね』
綾子さんの穏やかな声を聞いた瞬間、胸の奥に詰まっていたものが少しだけゆるんだ。
『さくらさんと病院に行ってきたわ。骨は大丈夫。ひどい捻挫で、全治三週間くらいですって』
「……そうですか」
それだけしか言えなかった。
よかった、の言葉が喉まで出かかって、言葉にならない。
『今日は山荘で休ませるわ。ああ、それから……』
綾子さんは、何気ない口ぶりで続けた。
『さくらさん、明日東京に帰るって』
「そう……ですか……」
自分でも呆れるくらい、声が上ずった。
その理由を、知るのが少しこわくて――
通話を切ったあとも、しばらくスマホを握ったまま動けなかった。
山荘への道は、カーブの多い、車一台が通れる幅の林道だ。
もう何度も通っている、慣れた道だった。
俺は、ほとんど反射的にハンドルを動かしながら、山荘へ行くための言い訳を考えていた。
さくらさんのことが、気になっていることは、事実だ。
それは、認める。
彼女は、真冬の山荘に一人旅で来た客だ。
初めて会った時――列車の車窓を眺める顔が、あまりに寄るべなく悲しそうだったから、見ていられなくて、何とかしてやりたい、と思っただけだ。
――誰にでも、優しい……。
そんなふうによく言われる。だから今回も、親切心とか、同情心とか――そういう感情にすぎない。
俺は、昔から人の気持ちには敏感な方だから、彼女が俺に対して、「旅先で知り合った、田舎の親切でちょっとお節介な人間」に対する以上の気持ちを抱いていることは、わかっている。
彼女の、俺を見る眼差しや、態度や、言葉や――そういうものが、いつも、温かくて優しい感情を表していたから。
けれど、だからといって彼女は、それ以上俺に何かを求めたりはしていない。
俺は、相手が何も求めているかを察するのは得意だから、余計にわかる。
彼女が、俺に何も期待していない、ということが。
雪の中を、たった一人で鏡池に行こうとした彼女――
多分彼女は、もう一度、あの景色を見たいと思っただけなんだろう。
それが、危険かもしれないと思っても、誰かに――俺に――頼る、という選択肢はなかったのだと思う。
――「明日、東京に帰るって……」
凍りついた静寂の鏡池で、彼女は、ここに来た目的を果たしたのかもしれない。
ここに来てからの数日で、彼女は見違えるほど、回復しているように見える。
そんなふうに、会う度に変わっていく彼女を、つい見てしまうのは、仕方のないことだと思う。
そして、地元のお節介な人間としては、それが素直に嬉しい。
だから――
今の俺が、こうして山荘に向かっているのは、怪我をした彼女のお見舞いと、この数日を関わった人間としての、別れの挨拶――そんな理由だ。
これは、「言い訳」なんだろうか……。




