第26話 綾子
「お疲れ様」
談話室の椅子に身体を預けて、ほとんど放心状態の私に、綾子さんがコーヒーの入ったマグカップを持ってきてくれた。
亮介さんは先にお風呂に行っている。
「ありがとうございます」
私がカップを受け取ると、綾子さんは隣の椅子に座って自分のカップに口をつけた。
嵐のような一日だったにもかかわらず、綾子さんは、顔色は少し青ざめ髪も多少乱れていたが、いつもと変わらず落ち着いて、凛として見えた。
今日の綾子さんは、本当にかっこよかった。以前、国際線のCAをしていたと聞いたけれど、きっとあんなふうに働いていたんじゃないかと思った。
亮介さんや耕平さんや町の人たちも、みんな自分のすべきことに、真摯に向き合っていた。
「私だけ、おろおろして……あまりお役に立てませんでした」
肩を落として言うと、綾子さんが私の肩をぽんと優しく叩いた。
「そんなふうに、自分に厳しくしなくてもいいんじゃない?」
「え……?」
「私がさくらさんに、そんなことないよ、って言うのは簡単だけど、それだとさくらさん、うまく受け取れないでしょ?あなたが自分で言ってあげればいいんじゃない、今日はよく頑張った、って」
私は何と言っていいか分からず、綾子さんの綺麗な顔を見返した。疲れて、髪も乱れているのに、綾子さんは本当に美人だ。
「私も……綾子さんみたいになれたらよかったのに、って思います」
「私?なんで?」
「だって……美人で、優しくて、料理も上手で、(みんなから愛されて……)」
最後の言葉を声に出さないだけの分別が、残っていてよかった。
「ふふ……褒めてくれてありがとう。でも、私もさくらさんのことを、可愛いと思うし、優しい人だと思ってるわよ。そう思ってるのは、多分私だけじゃないと思うけど」
そう言って綾子さんは悪戯っぽく笑った。
「料理は……もともと得意でもなかったし。必要に迫られて、覚えただけだもの」
可愛くて優しい……自分のことをそう思えたら、どんなにいいだろう。
「でもね、さくらさん、容姿も優しさも、自分の人生を自分で決めるのに、関係ないと思うのだけど」
「……?」
私の物問いたげな視線を、綾子さんは優しく受け止めて言った。
「私がCAという職業を選んだのも、そしてCAを辞めてこの山荘を継ごうと思ったのも、私がそうしたいと決めたからだもの。要は、自分がどう思うか、何をしたいか、でしょう?」
静かに落ちたその言葉が、胸の奥にゆっくり沈んだ。
すぐには返事ができなかった。
でも、不思議と否定も浮かばなかった。
マグカップの縁に視線を落とす。
指先がじんわり温まっている。
「……今日は、何をしたいとか考える暇もなかったです」
「それでいい日もあるわよ」
綾子さんはさらりと言った。
「目の前のことに必死になるのも、立派な“選び方”だもの」
そのとき、玄関のドアが開く音がした。
冷たい空気と足音が同時に入ってくる。
反射的に顔を上げると、作業着のままの耕平さんが立っていた。
雪と油と金属の匂いをまとって、ひどくくたびれた顔で、それでもいつものように周りを先に見る。
「お疲れさまです。全部、引き渡し終わりました」
「本当にご苦労さま」
綾子さんが立ち上がる。
「ご飯、まだあるわよ」
「あとでいただきます。先に工具だけ片付けてきます」
そう言ってから、私の方を見る。
朝よりもずっと疲れているのに、目だけはやわらかかった。
「……すみません。今日」
それだけで、全部わかった。
(展望台へ連れていく約束、守れなくてすみません……)
こんな嵐のような大変な一日を終えて、こんな疲れきった顔をして、それでも私との約束を気にかけてくれる耕平さんの優しさに、胸の奥が熱くなった。
私は首を振った。
「いいえ。耕平さん……お疲れさまでした……」
これ以上、何と言っていいのかわからなかった。
これだけの言葉ではとても表せない思いを持て余して、私は耕平さんを見つめることしかできなかった。




