表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
18/24

第18話 誘い

「……そろそろ……戻ります」

長い眠りから覚めたばかりの人のように、少し不思議そうに辺りを見回してから、さくらさんは、ぎこちなく言った。

「お待たせしてしまって、すみません……」

彼女は立ち上がり、ストックを両手に握り直した。口調は遠慮がちだが、背筋が伸びている。

「わかりました」

俺はそれだけ言うと、彼女に前を歩くよう促した。

彼女が何も話さなかったので、俺もあえて何も話しかけなかった。

彼女は何か考え事をしていたのかもしれない。

俺は、肩で息をしながらゆっくり歩く彼女の後ろ姿を見ていた。


「ありがとうございました」

あさひ山荘の前まで戻ってきてやっと、彼女は俺を見て言った。

スノーシューを外す間もずっと、心ここに在らずといった様子だったので、不意に現実に戻ってきたかのような彼女に、むしろ俺の方が一瞬虚をつかれた。

「あ、ああ……お疲れ様でした。距離は大したことないけど、歩きにくかったし、疲れたでしょう。大丈夫ですか?」

「はい……と言いたいところだけど、足がもうパンパンです。お恥ずかしながら」

サングラスを外した彼女は恥ずかしそうに笑った。

この時、彼女の笑顔を可愛いと思ったかどうかは、よくわからない。

朝、山荘を出発した時とは、雰囲気が変わっていた。

そういえば……会う度に彼女は、いつもどこか違っているな、と思い出す。

何となく気を引かれて、つい、見てしまう。

今日は仕事が休みで、この時ちょうど昼時だった。

俺にとっては散歩程度の距離でも、雪道を半日歩けば腹は減る。

それに彼女は汽車で来た旅行者だ。この辺りを動く手段は、歩くかタクシーくらいしかない。

だから、ごくごく軽い気持ちで、それから、はるばる訪ねてきた一人旅の旅行者への親切心から、俺は言ったのだ。

「ラーメン食べに行きませんか?」

半日を山で一緒に過ごした仲間への、ただの挨拶みたいなものだ、とあえて自分に言い訳する必要は、あったのだろうか?


「ラーメン……ですか?」

さくらさんは一瞬きょとんとした顔をしたあと、少しだけ目を丸くした。

「この近くに、あるんですか?」

「車で十五分くらい。山を下りたところに一軒だけ。見た目は古い掘っ立て小屋ですけど、味は保証します」

「それ、褒めてます?」

「最大級に」

彼女は小さく笑った。

さっきまで別の世界を見ていた目が、ちゃんと“ここ”に戻ってきている。

それだけで、なぜかほっとした。

「……行きます」

少し間を置いてからの返事だった。

義理でも遠慮でもなく、自分で選んだ、という間。

「ちょうど、お腹も空きました」

「ですよね。雪道って体力使うから」

「ええ……自分が雪だるまの材料になった気分です」

「それは困るな。完成前に救出しないと」

また笑う。

さっきより自然に。

山荘の玄関の扉が開いて、暖かい空気と、味噌と薪の匂いが流れてきた。

中から綾子さんが顔を出す。

「おかえりなさい。どうだった?」

「最高でした」

さくらさんが先に答えた。

言い切る声だった。

その響きが少し誇らしくて、俺は黙ってうなずいた。

「このあと、ちょっと下まで昼食べに行ってきます」

俺が言うと、綾子さんは一瞬だけ意味ありげに目を細めて、それからいつもの笑顔に戻った。

「はいはい。気をつけてね」

たぶん、何か見抜かれている。

でもまあいい。

悪いことをするわけじゃない。

ただ、ラーメンを食べに行くだけだ……。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ