第18話 誘い
「……そろそろ……戻ります」
長い眠りから覚めたばかりの人のように、少し不思議そうに辺りを見回してから、さくらさんは、ぎこちなく言った。
「お待たせしてしまって、すみません……」
彼女は立ち上がり、ストックを両手に握り直した。口調は遠慮がちだが、背筋が伸びている。
「わかりました」
俺はそれだけ言うと、彼女に前を歩くよう促した。
彼女が何も話さなかったので、俺もあえて何も話しかけなかった。
彼女は何か考え事をしていたのかもしれない。
俺は、肩で息をしながらゆっくり歩く彼女の後ろ姿を見ていた。
「ありがとうございました」
あさひ山荘の前まで戻ってきてやっと、彼女は俺を見て言った。
スノーシューを外す間もずっと、心ここに在らずといった様子だったので、不意に現実に戻ってきたかのような彼女に、むしろ俺の方が一瞬虚をつかれた。
「あ、ああ……お疲れ様でした。距離は大したことないけど、歩きにくかったし、疲れたでしょう。大丈夫ですか?」
「はい……と言いたいところだけど、足がもうパンパンです。お恥ずかしながら」
サングラスを外した彼女は恥ずかしそうに笑った。
この時、彼女の笑顔を可愛いと思ったかどうかは、よくわからない。
朝、山荘を出発した時とは、雰囲気が変わっていた。
そういえば……会う度に彼女は、いつもどこか違っているな、と思い出す。
何となく気を引かれて、つい、見てしまう。
今日は仕事が休みで、この時ちょうど昼時だった。
俺にとっては散歩程度の距離でも、雪道を半日歩けば腹は減る。
それに彼女は汽車で来た旅行者だ。この辺りを動く手段は、歩くかタクシーくらいしかない。
だから、ごくごく軽い気持ちで、それから、はるばる訪ねてきた一人旅の旅行者への親切心から、俺は言ったのだ。
「ラーメン食べに行きませんか?」
半日を山で一緒に過ごした仲間への、ただの挨拶みたいなものだ、とあえて自分に言い訳する必要は、あったのだろうか?
「ラーメン……ですか?」
さくらさんは一瞬きょとんとした顔をしたあと、少しだけ目を丸くした。
「この近くに、あるんですか?」
「車で十五分くらい。山を下りたところに一軒だけ。見た目は古い掘っ立て小屋ですけど、味は保証します」
「それ、褒めてます?」
「最大級に」
彼女は小さく笑った。
さっきまで別の世界を見ていた目が、ちゃんと“ここ”に戻ってきている。
それだけで、なぜかほっとした。
「……行きます」
少し間を置いてからの返事だった。
義理でも遠慮でもなく、自分で選んだ、という間。
「ちょうど、お腹も空きました」
「ですよね。雪道って体力使うから」
「ええ……自分が雪だるまの材料になった気分です」
「それは困るな。完成前に救出しないと」
また笑う。
さっきより自然に。
山荘の玄関の扉が開いて、暖かい空気と、味噌と薪の匂いが流れてきた。
中から綾子さんが顔を出す。
「おかえりなさい。どうだった?」
「最高でした」
さくらさんが先に答えた。
言い切る声だった。
その響きが少し誇らしくて、俺は黙ってうなずいた。
「このあと、ちょっと下まで昼食べに行ってきます」
俺が言うと、綾子さんは一瞬だけ意味ありげに目を細めて、それからいつもの笑顔に戻った。
「はいはい。気をつけてね」
たぶん、何か見抜かれている。
でもまあいい。
悪いことをするわけじゃない。
ただ、ラーメンを食べに行くだけだ……。




