グラディス砦の狂気
東へ馬を走らせること三日。 大気が徐々に肌を刺すような、妙な重苦しさを帯びていくのを感じていた。
たどり着いた人類圏の最果て――『グラディス砦』は、まさに地獄絵図の真っ最中だった。
「魔族は敵だ! 殲滅しろ! 殺せ、殺せぇぇぇ!」
砦の防壁の上では、何百人もの人間の兵士たちが目を血走らせ、狂ったように弓を引いていた。
恐怖と憎悪で顔を歪め、壊れたラジオのように同じ叫びを上げながら、矢を放ち、油を注ぎ、剣を振り回している。
その姿は、国を守る英雄というより、集団ヒステリーを起こした暴徒の群れに近かった。
私は身を隠しながら、彼らが必死に拒絶している『敵の軍勢』へと視線を向けた。
そして――我が目を疑った。
(……おい、冗談だろ。ツノが生えたトカゲや、牙を持つ狼のバケモノはどこにいる?)
そこにいたのは、整然と隊列を組み、白銀の鎧をまとった美しい『エルフの弓兵』。
そして、大盾を構えて一糸乱れぬ陣形を維持している、頑強な『ドワーフの重装歩兵』たちだった。
彼らは人間を蹂躙しに来たのではない。むしろ、防衛線を維持しながら、前線の指揮官とおぼしきエルフの青年が、拡声の魔法を使って必死に人間の砦へ向けて声を張り上げていた。
『人間たちよ、剣を収めよ! 我らは対話を求めている! なぜ話し合いにも応じず、急に我が領土へ攻め込んできたのだ!? 一度、代表者を出してくれ!』
それは完璧な、理性的で知的な言葉だった。
だが、その声が届いた瞬間、人間の兵士たちはさらに発狂したように叫んだ。
「ギシャァァァ! と化物が咆哮を上げているぞ! 命乞いなど聞くか! 殲滅だ、殲滅以外にない!」 ゾッ、と全身の毛穴が収縮するような恐怖が私を襲った。
(なるほど……そういうことか。こいつらの脳は、他種族の流暢な言葉をすべて『化物のノイズ』にしか変換できないようハッキングされてるんだ……!)
魔族が人間を滅ぼそうとしているのではない。
人間側が『話し合い不能の狂人』として一方的に他種族の領土へ襲いかかり、返り討ちに遭って勝手に自滅している。
その結果として人類圏が狭くなっているだけ。それが、この不条理な戦争の「本当の姿」だった。
「……あんな狂った連中に付き合って、安全装置のない生体核兵器(勇者)の引き金を引くなんて真っ平御免だ」
私はここで、人間側を完全に捨てる決意を固めた。 人間側の後方にいてもいつ狂うか分からない。だったら、今すぐあっちの『話が通じる側』へ亡命する。
私は深く息を吸い、王宮の儀式で手に入れた固有能力【身体強化】を発動した。
全身の細胞が活性化し、筋肉が爆発的な力を得る。 私は馬を捨て、乱戦のドサクサに紛れて砦の門から飛び出した。
武器は持たない。両手を大きく上げ、丸腰であることをアピールしながら、矢の雨が降り注ぐ戦場を他種族連合の陣営へと全速力で突進(亡命)した。
「な、なんだあの人間!? 武器も持たず、恐ろしい速度でこっちに走ってくるぞ!?」
「罠か!? 射かけるか!?」「待て、目が血走っていない! 衣服も綺麗だ、今までの狂った人間たちとは雰囲気が違う!」
エルフの精鋭たちが一斉に弓を構え、私は一瞬で取り押さえられた。地面に組み伏せられ、首筋に冷たい刃を突きつけられる。
だが、私は恐怖を抑え込み、もう一つの固有能力【あらゆる言語の完全翻訳】をフル稼働させて、彼らの言語でハッキリと言葉を発した。
「降伏する! 俺はあいつらの仲間じゃない! あいつらは頭の病気にかかってて、そっちの声が届かないんだ。
俺は――『正気』だ。そっちの指揮官と話がしたい!」 人間の口から、自分たちの言葉が完璧なロジックと共に飛び出した。
その瞬間、エルフの兵士たちは驚愕に目を見開き、信じられないものを見るように、突きつけていた剣をわずかに引いたのだった。




