認知の牢獄と最前線への切符
王宮を脱出した私は、フードを深く被り、王都で最も賑わう市場の雑踏に身を潜めていた。
懐には、合法的に毟り取ったずっしりと重い金貨の袋。
これだけあれば、当面の路銀や移動手段の確保に困ることはない。
(さて、まずは情報収集だ。敵を知り、世界を知る。それが生存戦略の基本だ) 私は市場の片隅にある、うだつの上がらない居酒屋の暖簾をくぐった。昼間だというのに、店内には前線から戻ってきたとおぼしき兵士や、大陸を股に掛ける行商人たちがくだを巻いている。
私はカウンターの端に座り、気さくそうなベテランの行商人に声をかけた。
「おい、そこの旦那。ちょっといいかい? 小耳に挟んだんだが、最近『魔族』の侵攻がかなりヤバいって本当か? 実際のところ、魔族ってどんな見た目をしてるんだ? やっぱりツノが生えてたり、肌が青かったりするのかね」
行商人の男は、エールを一口あおって深く溜息をついた。
「ああ、お前さん何も知らないのか。魔族は本当に恐ろしい化物だよ。人類の敵だ。見つけ次第、殲滅するしかないのさ」
私は小さく目を細めた。「(……ん? またそのフレーズか?)」 王宮で嫌というほど聞いたフレーズが、一般人の口から自然に飛び出してきた。
嫌な予感が胸を過る。私はさらに踏み込んで質問を重ねた。
「いや、だから具体的な形を聞いてるんだよ。大きさは人間と同じくらいなのか? それともトカゲや獣みたいな形をしてるのか?」
すると、さっきまで普通に話していた行商人の目が、急にガラス玉のように光を失った。
「魔族は敵だ……殺さなければ、俺たちが殺される……」 隣の席にいた若い兵士も、ピタリと動きを止めてこちらを振り向く。その目は濁りきっていた。
「魔族は敵だ……殲滅する以外にない……」
「(――ッ、ダメだ。こいつらもだ)」 私は戦慄した。王宮の連中だけでなく、現場の兵士も、街の一般市民も、全員の頭が同じハッキングシステムに侵されている。
戦ったことがあるはずの兵士ですら、敵の具体的な姿を1ミリも記憶していない。
ただ『黒いモヤ』のような恐怖の概念だけを植え付けられ、狂ったように剣を振り回しているのだ。
私はここで、実験的に話を切り替えてみることにした。
魔族がこれだけ大陸を占めているなら、他の種族と同盟を結んで戦うのが軍事の基本だからだ。
「……じゃあ、魔族以外のことなら普通に答えられるかい? 例えば、この大陸には他の種族――エルフとか、ドワーフとか、獣人とかはいないのか? 彼らと手を組んで魔族と戦ったりはしないのか?」
その瞬間、居酒屋の中が一瞬で凍りついた。 さっきまで騒がしかった店内の全員が、ギギギ、と操り人形のような不自然な動きで私の方を向いた。
全員の瞳からハイライトが消えている。
「「「……人ならざるものはすべて、魔族だ……殲滅以外にない……」」」 声を揃えて唱えられる不気味な呪詛。
私は背筋に冷たいものが走るのを堪えながら、エール代の銅貨をカウンターに叩きつけ、静かに店を出た。 外の市場は、一見すれば平和で活気に満ちている。だが、その実、ここにいる全員の脳が同じシステムで管理されている。この国は、巨大な認知の牢獄だ。
人間以外の知的生命体すべてを【魔族=会話不能の悪】として憎み、殺すように、脳の認識そのものをハッキングされているのだ。
「誰も本当の敵の姿を知らない。誰も、相手の目的を知らない。……こんな狂った連中に囲まれて、安全装置のない生体核兵器の引き金を引かされてたまるか」
私は人間側の社会での情報収集を完全に諦めた。 世界の真実を知るためには、人間が「魔族の領域」と呼んで恐れる国境を越え、本物の他種族に直接会うしかない。
だが、その前に一つ、確かめなければならない「仕様」があった。 私は市場の往来で、通りすがりの別の行商人にわざと世間話のトーンで問いかけた。
「なるほどねぇ。そんなに魔族がヤバいなら、商売あがったりだ。……ちなみに、今一番魔族に侵略されてて危ない場所(前線)ってどこなの? 近づきたくないから避けるルートを教えてよ」
すると、男の瞳にすっと生気が戻り、普通のトーンで答え始めた。
「ああ、それならここから東に三日馬車を走らせたところにある『グラディス砦』だよ。あそこはもう、いつ防衛線が突破されてもおかしくない最前線だ。商人なら誰も近づかねえよ」
「(――ビンゴだ。普通に答えた)」 確信した。この脳内ハッキングシステムには、明確な仕様がある。 概念や定義、対話の可能性といった「哲学的な問い」はバグる。だが、より即物的な、ただの「データ(数字や地理)」なら、システムは正常に処理して脳内に共有しているのだ。
なぜなら、人間たちに「魔族と物理的に戦わせるため」には、戦況データだけは正しく共有しなければならないからだ。
必要な情報は手に入った。「ありがとう、おっさん。助かったよ(近づかないためじゃなく、そこに行くためにね)」 人間側の後方にいても、いつこの狂った電波に自分の脳までハッキングされるか分からない。
だったら、システムが一番激しくぶつかり合ってエラーを起こしている場所――すなわち、本物の魔族と物理的に接触できる最前線へ行くのが一番早い。
私はその日のうちに王都の厩舎へ向かい、国費(金貨)を使って頑強な馬を買い求めた。
誰もが逃げ出す地獄の最前線、東の『グラディス砦』へ。 世界で唯一、正気を保った「勇者」として、真実を引っ張り出すための旅が始まった。




