ちょっとだけいい感じに
「はい、そこまで。リク、今日の業務はこれでおしまい」
深夜、執務室の机でペンを走らせていたリクの視界が、ふわりと遮られた。
見上げれば、薄紫色の夜着に身を包んだエルフの女王――リアが、悪戯っぽく微笑みながらリクのペンを奪い取っていた。
「リア、今はクロエたちの開発進捗の確認と、精霊の見張り網の修正指示を――」
「駄目。今日のあなたの顔、ひどく灰色で不健康よ。張り詰めすぎだわ。敵が攻めてくる前に、あなたが過労で死んでしまう。これは女王としての強制命令。今夜は私の介護付きで、無理矢理にでも休んでもらいます」
リアはそう言うと、手際よく机の上の書類を片付け、小さな木盆を置いた。
そこには、リクが国家予算で買い付けた最高級の果実酒と、透き通った硝子の杯が二つ並んでいる。
「……女王の命令なら、従うしかないな」
リクは諦めて背もたれに体を預けた。
確かに、ここ数ヶ月の記憶が曖昧になるほど頭を酷使していた。
無機物の敵を解析し、防衛線の穴を埋めるために毎日数百通の指示書を書き、他種族をシゴき上げるマニュアルを作る。
現代日本の過酷な環境で培った社畜の習性とはいえ、限界は近かったのかもしれない。
「さあ、まずは一杯。お疲れ様、リク」
リアが美しい手つきで酒を注ぎ、リクに杯を差し出す。
リクはそれを静かに受け取り、喉に流し込んだ。
果実の芳醇な甘みと強いアルコールが、乾ききった脳へ心地よく染み渡っていく。
二杯、三杯と杯を重ねるうちに、夜の静寂が二人の間を優しく満たしていった。
普段なら決して崩さないリクの冷徹な表情が、酒の熱によってわずかに緩んでいくのを、リアは静かな目で見つめていた。
「……なぁ、リア」
ぽつりと、リクの口から、いつもとは違う掠れた声が漏れた。
「なぁに?」
「俺は、ただのサバイバーだったんだ。前の世界でも、理不尽な環境から自分一人が生き残るために、システムの隙間を突いて淡々と業務をこなしていただけだった。この世界に召喚された時も、王宮をハッキングしてブラックカードを奪って、自分だけが安全に逃げ切れればそれでいいと思ってた」
リクは手元の杯を見つめ、自嘲気味に笑った。
「なのに、いつの間にか事態収拾の中心にいる。自分でみんなの常識を書き換えて、2年間死ぬ気でついてこいなんて大見得を切った。自業自得と言えばそれまでだが……」
そこまで言って、リクは深く息を吐き、頭を抱えた。
その指先が、わずかに震えている。
「怖くてたまらないんだ。俺の書く仕様書の一行に、お前たちの、何万という命が乗っかっている。もし俺の見落としでシステムに一箇所のバグでも出たら、その瞬間に全員が死ぬ。その重圧が、夜、目を閉じるたびに胸を潰しにくるんだ」
初めて吐き出された、偽らざる弱音だった。
リクは頭を抱えたまま、視線を少しだけリアへと向けた。
「……それに、それだけじゃない。この世界に来て、ここで過ごす日々が、いつの間にか俺にとって本当に楽しいものになってしまっているんだ。リアが嬉しそうにケーキを食べている姿を見るのも、精霊たちが騒がしくおねだりしてくるのも、ドワーフたちが馬鹿みたいにはっちゃけているのも……あの一緒に過ごす時間が、俺は堪らなく愛おしい」
リクは少し照れくさそうに、けれど真摯な目でリアを見つめた。
「だからこそ、余計に恐ろしいんだ。俺のミス一つで、この温かくて楽しい日々がすべて漆黒の泥の中に消えてしまうかもしれない。この場所を失うことが、今の俺にとって、何よりも一番怖いんだよ」
勇者としての高潔な責任感ではない。
自分の大好きな「みんなとの日常」を守り抜きたいという、泥臭くも純粋な人間としてのエゴ。
リアは息を呑み、リクの言葉を胸の奥で受け止めた。
いつも機械のように冷徹だった男が、自分たちとの時間にそこまでの価値を感じてくれていたという事実が、女王の胸を熱く焦がす。
リアは静かに杯を置き、椅子の横にそっと膝をついた。
お互いの体温がはっきりと伝わる距離で、リアはそっと手を伸ばし、頭を抱えるリクの背中に優しく掌を当てた。
「知っているわよ」
リアの声は、どこまでも慈愛に満ちたものだった。
「あなたがただ生き残るために必死なだけの、臆病な人間だなんてこと。でも、その臆病さの中に、私たちの日常を愛してくれる優しさがあることも、ちゃんと伝いあっているわよ。だから、私はあなたを信頼しているの」
背中に触れるリアの温もりが、リクの震えを少しずつ止めていく。
「失うことを恐れて、もっと臆病なりなさい。明日も私と一緒に美味しいケーキを食べるために、泥臭く生き残りなさい。そのための知恵なら、いくらでも貸してあげるわ」
「……随分と、都合の良い女王様だな」
リクはふっと息を吐き、背筋を伸ばした。
リアの温もりに救われ、胸のつかえが取れた。
取れたのは良かったのだが――アルコールが、一気に脳の理性を消し飛ばした。
目の前には、薄紫色の夜着に身を包んだ、国宝級の美少女であるエルフの女王。
弱音を吐ききったリクの脳内で、「美人の前でいつまでも情けない姿を見せていられるか」という、男の最大の見栄が暴走を始めた。
リクはぐっと残りの酒を煽ると、杯を机に叩きつけ、勢いよく立ち上がった。
その目は、さっきまでの弱気とは打って変わって、爛々と輝いている。
「――いや、決めた!!」
「えっ? 急にどうしたの?」
突然立ち上がったリクに、リアは目を丸くして驚く。
リクは自分の胸をドンと叩地、泥酔した勢いのまま、盛大に理想を語り始めた。
「男は見栄を張ってなんぼだ! 弱音だけ吐き散らかして終わるなんて、男が廃るってもんだろ! いいかリア、俺がこの世界に勇者として呼ばれたなら、ただ逃げ回る臆病者じゃ終わらない! 勇気ある者として、背中で皆を導き、共に戦ってやる!」
「リク、あなた完全に酔っ払って――」
「それだけじゃない! 今は檻に閉じ込めているあの狂った人間どもだって、俺がシステムを叩き直して、いつか絶対に正気へ戻してやる! そして、この新しく作った最高の環境で、他種族も人間も全員が共生できる平和な世界を作ってやるんだ!」
両手を広げて熱弁を振るうリクの顔は、真っ赤に染まっている。
しかし、その声には不思議なほどの力強さがあった。
「あの不条理な侵略者どもには、1ミリだって負けない! 徹底的にハメ殺してやるが、もし言葉が通じるなら【完全翻訳】で交渉の席に引きずり出して、なんならそっちとも和解してやる! 理想を語ってなんぼだろ! それが俺の、俺だけの勇者像だ!!」
ハハハ、と豪快に笑いながら、リクはそのまま力が抜けたように、ドサリと椅子に座り直した。
そして、大きな寝息を立てて一瞬で眠りに落ちてしまう。
静まり返った執務室で、リアは呆然とリクの寝顔を見つめていた。
さっきまで涙を流さんばかりに怯えていた臆病者が、お酒が入った途端に、世界をひっくり返すような大ボラを、最高に格好つけて語ってみせたのだ。
「……なによ、それ」
リアは一瞬だけ呆れたように呟き、それから、ふっと悪戯っぽく、愛らしさ全開の笑みをこぼした。
「美人の前で格好つけたいからって、そんな世界救うような大言壮語を吐くなんて……。本当に、最高に馬鹿で、最高に格好良い男ね」
リアは膝をついたまま、眠るリクの顔のすぐ近くへと身を寄せた。
机に突っ伏して無防備な寝息を立てるリクの髪に、細い指先でそっと触れる。
その前髪を愛おしそうに幾度もなでながら、リアはそっと囁きかけた。
「でもね、リク。あなたのその覚悟は、もうあなただけのものじゃないわ」
指先から伝わる彼の熱を感じながら、女王としての、そして一人の少女としての慈愛がその瞳に満ちていく。
「あなたが背負い込んだ重圧も、見栄を張って語った壮大な理想も、これからはすべて私が半分持ってあげる。だから安心して、私の隣で臆病に、そして誰よりも格好良く戦いなさい」
こうして、これまでにない激しい休息と決断の夜は、リアの絶対的な包容力に包まれて、静かに更けていくのだ




