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春を数える

新世暦411年 春


 窓の留め金が、小さく鳴った。

 宗一郎が顔を上げると、凛が窓を開けていた。風が銀白の髪を揺らし、食卓の本の頁をめくった。


「春の風ですね」


 凛は髪を耳にかけ、庭へ目を向けた。窓辺には、先日の休日に買った青い花と、雨の日に持ち帰った箱が置かれている。


「まだ少し、肌寒いけど……」


 アリアが肩をすくめた。


「閉めようか?」


「ううん。そのままでいいよ。目、覚めたし」


 宗一郎は二人の声を聞きながら、茶の器を卓へ戻した。

 二人と暮らし始めて、三度目の春だった。

 学院へ通い始めた頃は、二人とも出かける前に何度も鞄を開いていた。今は自分たちで支度を済ませ、食卓では教師や友人の話をする。宗一郎の知らない名前も増えた。

 窓辺で笑う凛を見て、ふと思った。

 自分は、何度目の春を迎えたのだろう。

 数えるのをやめてから、もう長い。


 目覚めたばかりの頃は、過ぎた年を数えていた。1年、5年、10年。その間に何が分かったか、確かめるためでもあった。

 自分は何者なのか。なぜ遺跡で目覚め、傍らにあの黒い剣があったのか。

 古い記録を読み、人に尋ね、噂を聞けば遠くの土地まで出向いた。100年以上続けても、答えは見つからなかった。やがて手掛かりを追うことも少なくなり、分からないまま暮らすことに慣れてしまった。

 旅の途中には、親しくなった者もいた。

 一緒に酒を飲み、些細なことで言い争った男がいた。翌朝には同じ卓で粥を食べた。笑い声は大きかったはずなのに、今はその顔が思い浮かばない。

 好きになった女もいた。大きな窓のある部屋で、冷たい指に触れたことを覚えている。だが、名前も、声も、どんな言葉を返したのかも思い出せなかった。

 別れても、自分が覚えていればいい。そう思っていた時期がある。

 その記憶まで、少しずつ薄れていった。

 剣の振り方は忘れないのに、誰と何を話して笑ったのかは分からなくなる。思い出そうとしても、もう確かめる相手はいなかった。

 そうして何度も、一人の暮らしに戻った。



 風がまた頁をめくり、アリアが本を押さえた。凛が窓を少し閉める。


「これくらいなら、大丈夫?」


「うん。ありがと」


 その声を聞きながら、宗一郎は二人と出会った冬を思い出した。

 雪の森で、二人は死を願っていた。何と答えればいいのか分からなかったが、そこへ残していくことはできなかった。

 連れ帰った二人が、今はこの家で、庭に植える花の話をしている。

 帰れば凛が顔を上げ、アリアが明日の予定を尋ねる。そんな暮らしを楽しみにするようになってから、失ったあとのことまで考えるようになった。

 卓に二人の器がなくなり、帰っても誰にも呼ばれない。その部屋を想像して、眠れなくなる夜があった。

 二人のいなかった頃なら、こんな先のことまで怖がらずに済んだ。

 そう思いかけても、朝になれば二人の声を聞いてほっとした。差し出された茶を受け取り、今日は何時に戻るのかと聞かれれば、時間を答えた。

 二人は、会った頃からずいぶん変わった。服の袖が短くなり、前は届かなかった棚へ手が届く。宗一郎に尋ねず、二人で相談して決めることも増えた。

 その成長は嬉しかった。けれど、自分の身体は変わらない。

 昔、久しぶりに会った友人に、少しも老けないなと言われたことがある。相手の目元には皺が増え、立ち上がる時には腰へ手を添えていた。

 凛とアリアも、いつか歳を取る。その隣で、自分だけが今の姿のまま生きていくのだろうか。


「宗一郎さん?」


 顔を上げると、凛がこちらを見ていた。


「お茶、冷めちゃいましたか?」


 器に触れて、まだ一口も飲んでいなかったことに気づいた。


「……ああ。少し、考え事をしていた」


「温かいのを淹れ直しますね」


「私のも、まだある?」


 アリアも席を立った。


「一緒に温めようか。昨日のパンも焼く?」


 二人が台所へ向かうと、宗一郎は窓辺の花へ目を戻した。



 先日の休日、買い物を終えてから、三人で川沿いを歩いた。焼き菓子を分け合い、急いで帰る用もなく、花を眺めた。

 もう少しここにいたいと思った。二人のためだけでなく、自分がそうしたかった。

 明日も、こんな日ならいい。いつの間にか、そう願うようになっていた。

 凛とアリアの隣で、自分も歳を取りたかった。同じ食卓で昔の話をして、忘れたことがあれば、二人に聞けるような暮らしがしたかった。

 宗一郎は壁際のゼルグレアを見た。

 なぜ、自分は老いないのか。もう一度、調べてみてもいいのかもしれない。以前とは、答えを求める理由が違っていた。


「宗一郎、今日はもう出かけるの?」


 アリアが、焼いたパンの皿を持って戻ってきた。凛も茶のポットを卓へ置く。


「いや、急ぐ用はない」 


「じゃあ、ご飯のあと、庭を見てくれない? 花を植えられそうな場所を見つけたんだ」


「窓辺だけでは、足りなくなったか」


「庭にも咲いたら綺麗でしょ。端にある大きな石、宗一郎なら動かせる?」


「ああ。あとでどかしてやろう」


 アリアは嬉しそうに席へつき、どこへ植えるか凛と相談を始めた。宗一郎は淹れ直された茶を手に取る。


「宗一郎さんは、どんな花が好きですか?」


 凛に尋ねられ、窓辺の青い花を見た。好きな花など、考えたこともなかった。


「……これから、探す」


「じゃあ、一緒に見に行こうよ。街の外に、野花が咲いてる場所があるんだ」


 アリアの誘いに頷くと、二人は庭仕事のあとで出かけようと話し始めた。

 宗一郎は茶を飲んだ。今度は、まだ温かかった。

 数えるのをやめていた春に、二人と過ごす予定が一つ増えた。

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