初めての客人
新世暦411年 春
窓辺の青い花に水をやっていると、棚の上の伝声水晶が淡く光った。
凛は小さな水差しを置き、宗一郎を振り返った。
彼は食卓で、外れかけた鞄の留め具を直していた。
「宗一郎さん、伝言です」
「ああ。聞いてくれるか」
凛が水晶に触れると、澄んだ声が部屋へ流れた。
『シオンだ。しばらくこの街にいる。お前の家が見たい。都合のよい日を知らせろ』
金具を押さえていた宗一郎の指が止まった。
台所では、アリアが洗った器を持ったまま、こちらを見ている。
「……家?」
凛が頷くより早く、アリアは器を棚へ戻し、食卓へやってきた。
「来るの? シオンさん」
「……まだ来るとは決まっていない」
「でも、来たいって」
「家を見たいと言っているだけだ」
「それ、同じじゃない?」
宗一郎は留め具へ目を戻した。
曲がった金具を押し込んだが、うまく噛み合わない。
先日の再会以来、水晶には何度かシオンの声が届いていた。
滞在先や、会う都合を知らせる短い伝言だった。
一度、二人が学院へ出ている間に、街で彼女と話したことがある。
人のいないところで、身体の変化や、過去に調べたことを尋ねられた。
あの遺跡で目覚めたのは、四百年ほど前だということも、そのとき初めて伝えた。
家の水晶には二人も触れる。
自分の過去に関わる話は、伝言に残さないようにしていた。
だが、家へ来たいという話は聞いていない。
「呼ぼうよ!」
アリアが卓へ手をついた。
「私、もっと話してみたい。凛もでしょ?」
凛はすぐには答えなかった。
家に誰かを迎えるのは、初めてだった。
店で会ったときは短い時間しか話せなかったし、聞いてみたいこともたくさんある。
あの銀糸の模様も、もう一度近くで見てみたかった。
ただ、彼女がここへ来るところを想像すると、別の気持ちも動いた。
宗一郎の向かいに、美しい人が座る。
自分の知らない昔の話を、二人で交わす。
初めて会ったあの日にも、言葉にしなくても通じるものがあるように見えた。
もっと親しくなれば、宗一郎はあの人を好きになるのだろうか。
――綺麗だとは思うが、好きかどうかは別だ。
帰り道の言葉を思い出した。
そう言ってくれたことは覚えている。
けれど、これからもずっと別のままなのかまでは、聞けなかった。
「凛?」
アリアに呼ばれ、顔を上げる。
自分が会ってみたいと思ったことまで、嘘にはしたくなかった。
「……うん。私も、お話ししたい」
それから宗一郎を見る。
「呼んでもいいですか? お茶も、お菓子も用意しますから」
宗一郎は二人の顔を順に見た。
美しいダークエルフで、自分より強かったと話した相手だ。
それだけでも、二人の関心を引くには十分だったのだろう。
アリアはもう、どこに座ってもらうかを考えている。
「あいつは、話しているうちに戦いたくなることがある」
「家ではしないでしょ」
「そう思っているのは、お前たちだ」
凛が少し笑った。
「じゃあ、宗一郎さんからお願いしておいてください。今日はお茶だけ、って」
以前なら、彼が難色を示したところで、凛は口を閉じていただろう。
今は困らせていると分かっていても、もう一度こちらを見てくる。
その目には、小さな期待があった。
宗一郎は鞄を置いた。
「……分かった。家に呼ぼう。ただし、先に釘を刺す」
アリアが凛の腕を軽く叩いた。
「ほら、椅子。もう一つ必要だね」
二人が部屋を見回す横で、宗一郎は水晶へ魔力を込めた。
「次の休日の午後なら空いている。家へ来るのは構わん。だが、絶対に暴れるな。庭もだ」
返事は、その日のうちに届いた。
『私は家を見たいと言った。壊したいとは言っていない』
アリアは声を上げて笑い、凛は笑いを堪えながら宗一郎を見た。
「ちゃんと伝わりましたね」
宗一郎は、届いた声をもう一度聞く気にはならなかった。
約束の日、凛は昼前から髪を後ろでひとつにまとめ、台所へ立っていた。
焼き菓子の一枚を皿へ移し、少し考えてから端の位置を直す。
アリアは階段脇に積んであった本を抱え、置き場所を探していた。
「それ、いつもそこにあるだろう」
宗一郎が言うと、アリアは本の背へ目を落とした。
「いつもあるから、片づけるの」
「読んでいる途中のものまでしまうと、あとで探すことになる」
「……じゃあ、これは残す」
一冊だけを窓辺の棚へ戻し、アリアは残りを二階へ運んだ。
凛は焼き菓子を見つめていた。
「変じゃないですか?」
「何がだ」
「少し焼き色が濃くなっちゃって」
宗一郎は差し出された小さな欠片を受け取り、口へ入れた。
「うまい。いつものものより、香ばしいな」
凛は彼の顔を見てから、皿へ目を戻した。今度は、並べ直さなかった。
食卓には四つの器が置かれていた。
普段は壁へ寄せている椅子も、拭かれて卓の横に収まっている。
宗一郎は、自分の家が少し違う場所になったように感じた。
戸が叩かれたのは、茶の湯が沸き始めた頃だった。
アリアが階段を下りてくる。
凛も布で手を拭き、宗一郎より先に玄関へ向かった。
扉の向こうに、シオンが立っていた。
銀白色の長い髪を低く束ね、墨色の上衣には、先日と同じ銀の紋様が浮かんでいる。
腰には黒い長鞘があった。
陽の下では、褐色の肌と淡い琥珀色の瞳の色が、店で見たときより鮮やかだった。
「こんにちは。どうぞ、入ってください」
凛が一歩横へ退くと、シオンは小さな包みを差し出した。
「招いてくれてありがとう。茶に合うと聞いたので、買ってきた」
アリアが包みを覗き込み、凛の顔が明るくなる。
「ありがとうございます。私たちも焼いたんです。あとで、両方食べましょう」
「それは楽しみだな」
シオンは中へ入ってから、ようやく宗一郎を見た。
「武器はどこへ置く」
「そこへ。今日は抜くな」
「まだ言うか」
長い刀を外し、壁際へ慎重に立てかける。
その隣には、ゼルグレアがあった。
二つの武器へ一度目を向けてから、シオンは室内を見回した。
窓辺の青い花。
雨の音を閉じ込めた箱。
卓の端に残る学院の本と、椅子の背へ掛けられた深い青のマフラー。
窓の外には、まだ小さな花の苗が並んでいる。
「庭も使い始めたのか」
「この前、植えました」
凛が答えた。
「宗一郎さんに、大きな石をどかしてもらって」
「あれ、私たちだと動かなかったんだよね」
「根を傷めずに済んだか」
シオンが尋ねると、凛は嬉しそうに頷き、窓へ彼女を案内した。
宗一郎は湯を火から下ろしながら、その後ろ姿を見ていた。
シオンは棚や戸口にも視線を留めたが、勝手に触れたり、奥の部屋を覗いたりはしなかった。
自分の居場所を確かめているというより、ここに三人が暮らしていることを、ひとつずつ見ているようだった。
四人が席へつくと、最初に口を開いたのはアリアだった。
「シオンさんは、今どこに住んでるの?」
「この街では宿を取っている。普段は、一つの場所に長くはいない」
「ずっと旅をしてるんですか?」
凛が尋ねる。
「剣や魔術を学べる場所があれば、しばらく留まる。見るものがなくなれば、次へ行く」
「家はないの?」
「故郷にはある。ただ、今は離れている」
シオンはそこで茶を一口飲んだ。
アリアも、それ以上故郷のことは聞かなかった。
代わりに、壁際へ目を向ける。
「あの刀、宗一郎の剣とほとんど同じくらい長いね」
「長さはな。重さも扱い方も違う」
「名前はあるんですか?」
「ラミセクトという」
アリアが小さく繰り返した。
「ラミセクト。……綺麗な名前」
「鞘の模様も素敵ですね。お洋服の模様と、少し似ています」
凛の言葉に、シオンは上衣の袖へ目を落とした。
「どちらも枝の形が入っているからだろう。だが、この衣の紋章は私の家に由来する。刀とは別だ」
「自分で選んだの?」
「仕立ては注文した。布も、糸の色もな」
アリアが身を乗り出した。
「そういうの、好きなんだ」
「好きだ。着るものなら、自分の気に入る方がいい」
凛は銀の模様をもう一度見た。
強い人にも、布を選ぶ時間がある。
店で見かけた姿が、ようやく目の前のシオンとつながった気がした。
「宗一郎とは、どこで会ったの?」
アリアの問いに、シオンは器を置いた。
「旅の途中だ。腕の立つ者がいると分かれば、私は確かめたくなる」
「それで、手合わせを?」
「ああ」
「宗一郎は、最初から強かった?」
「強かった。身体の使い方も、魔力を移す速さもよかった。自分が持つ力を、どう使うかをよく知っていた」
凛もアリアも、宗一郎を振り返った。
彼は菓子を一枚取ろうとしていた手を止める。
「こちらを見るな。俺の話をしているんだろう」
「だから見てるの」
アリアが答えると、シオンの口元がわずかに緩んだ。
宗一郎は彼女の言葉の選び方に気づいていた。
初めて会った年も、再会までに過ぎた年月も口にしない。
刀の名前は教えても、その分類には触れなかった。
二人が宗一郎をどのような人物と思っているのかを、先日の短い会話と、今交わした問いの中から読み取っているのだろう。
凛が彼の幼い頃を尋ねないことも、アリアが強さを驚きながら確かめることも、シオンは静かに受け止めていた。
知らないことを無理に埋めず、既に知っている話には、ほんの少しだけ続きを足す。
その配慮を、宗一郎はありがたいと思った。
「宗一郎さんに勝ったときは、あの刀を使ったんですか?」
凛が尋ねた。
「使った。だが、刀を持てば誰でも同じように戦えるわけではない」
「じゃあ、やっぱりシオンさん自身が強いんだ」
「武器も含めて、私の戦い方だ。お前たちも、何を持つかだけで強さを決めない方がいい」
アリアは頷いたが、視線はまた黒い鞘へ戻っていた。
「でも、あんなに長かったら、近くまで入られたとき困らない? 抜く途中で止められたりしないの?」
「間合いを保つのも技術だ。抜くときは鞘を後ろへ引く。腕だけで刀を引き出そうとはしない」
「宗一郎も、そう言ってた。身体も回すんでしょ?」
「そうだ。よく覚えているな」
褒められて、アリアの目が明るくなった。
「鞘に入れたままでも戦えるの?あの枝みたいな飾り、ぶつけたら壊れそうだけど」
「鞘も使う。ただ、どこで受けるかは選ぶ。形をよく見ているな」
「好きなの。こういう、普通と少し違う武器」
アリアは椅子から腰を浮かせかけ、宗一郎へ目を向けた。それからシオンに尋ねる。
「近くで見てもいい?勝手に触らないから」
「構わん。鞘に収めたままでよければな」
シオンが刀を取り、卓を避けて横向きに支えると、アリアは椅子を少し引いて、その手元へ顔を近づけた。凛も隣から覗き込む。
「鍔、二つ重なってる。……これも、何かの仕掛け?」
欠けた六角形を目で追ったあと、アリアは顔を上げた。
「ラミセクトって、アーティファクトなの?魔力を入れると、刀が変わったりする?」
シオンはすぐには答えなかった。
アリアの目は、鍔から柄へ、その先の長い鞘へと動いている。
飾りを眺めるだけでは満足できず、何ができるものなのかを知りたいのだろう。
「普通の刀ではない。ただ、詳しい働きは話せない」
落ち着いた声だった。
アリアは彼女を見た。
「……秘密?」
「ああ。悪いが、そこは許してほしい」
少し残念そうに唇を結んでから、アリアは頷いた。
「分かった。じゃあ、抜き方はいつか見せてもらえる?」
「刀を抜いてよい場所でなら。お前も、自分の武器を持ってくるといい。長さが違えば、動かし方も変わる」
「本当? 見てもらえるの?」
「ああ」
アリアは宗一郎を振り返った。
「……約束は覚えておく。今日は茶だけだ」
宗一郎が言うと、シオンは小さく笑い、刀を元の場所へ戻した。
アリアは自分の短剣を思い出したように、腰へ手をやりかけた。
今日は身につけていないことに気づき、その手を膝へ戻す。
「ゼルグレアも普通の武器じゃないの?」
シオンの視線が、黒い武器へ向いた。
「あれは、また少し話が違うな」
宗一郎も壁際を見た。
「私が手合わせしたとき、結界が崩壊しかけた。熱に押し切られたというより、術式を保つ魔素の結びつきが崩れていた」
シオンは言葉を切り、宗一郎へ目を戻した。
「あの熱量は異常だ。おそらく、基盤干渉魔法の類いだろうな」
「俺も疑ったことはある」
宗一郎は答えた。
「普通の火魔法と同じ扱いでは、説明がつかない。ただ、熱を作る仕組みと、術式が崩れる理由が同じなのかは分からん」
「そうだな。崩れた様子だけで、内部の反応までは断定できない」
二人の間に、短い沈黙があった。
アリアが先に口を開く。
「……基盤干渉魔法って、何?」
凛も、茶の器を持ったまま二人を見ていた。
「初めて聞きました。一般的な魔法とは違うんですか?」
シオンは頷き、少し考えてから、自分の袖へ指を添えた。
「魔素を糸にたとえてみよう。普通の魔法は、その糸を編んで、炎や障壁を作るようなものだ」
凛は袖に織り込まれた銀の模様を見た。
「編み方を変えると、違う魔法になるんですね」
「そうだ。基盤干渉魔法は、編み方だけでなく、糸そのものに手を加える。糸の性質が変わったり、形を保てなくなったりすれば、同じように編もうとしても、元の布は作れないだろう」
アリアが少し身を乗り出した。
「じゃあ、魔法を作る材料に何かするってこと?」
「ああ。だから、基盤――魔法の土台に干渉すると呼ぶ」
凛は壁際のゼルグレアへ目を向けた。
「それで、シオンさんの結界も壊れそうになったんですか?」
「その可能性はある。結界の表面だけでなく、それを作っている魔素のまとまりが崩れていた。ただ、あの武器がどうやってそんな熱を生むのかまでは、分からない」
「火の魔法だから強い、っていうだけじゃないんだね」
「そう思っている」
宗一郎が答えた。
「見えている炎だけでは、こいつが何をしているかは分からん。使っていても、説明できないことはある」
アリアは黒い刀身をしばらく見つめたあと、シオンへ視線を戻した。
凛は卓上の本へ手を伸ばしかけたが、学院の授業でこの言葉を聞いた記憶はなかった。
「先生に聞いたら、もっと分かるでしょうか」
「おそらく、学院の教師でも知らぬ者が多い。古い文献に断片が残る程度だ。私も、長く探してようやくその分類を知った」
「俺が読んだものも、説明は少なかった。同じ言葉でも、書き手によって指しているものが違う」
宗一郎の返事に、シオンは頷いた。
「分類を知ることと、実在するものの仕組みを知ることは別だな」
凛は二人を交互に見た。
シオンは言葉を選びながら説明し、宗一郎はその続きを、当たり前のように受け取っている。
どちらも、分からないところでは分からないと言った。
それでも、問いを置く場所が自分たちよりずっと先にある。
「二人とも、色々知っているんですね」
凛が言うと、宗一郎は少し視線を落とした。
「知らないことを、長く気にしていただけだ」
「気にしたまま調べ続ける者は、そう多くない」
シオンが言った。
アリアは壁際のゼルグレアを見たあと、宗一郎へ向き直った。
「こういう話、もっと聞きたい!」
「難しいだろう」
「難しいけど。分からなかったら、今みたいに聞くから」
宗一郎は二人を見て、しばらく考えた。
「……俺が読んだ本でよければ、あとで探しておく。ただし、書いてあることを全部正しいと思うな」
「一緒に読んでくれますか?」
凛が尋ねる。
「分からないところだけな」
「はい。そこ、たくさんあると思います」
アリアが笑い、シオンも、器を口元へ運びながら目を細めた。
話しているうちに、窓から差す光が卓の端へ移っていた。
凛が茶を淹れ直そうと立ち上がり、アリアは持ってきてもらった菓子を残りの皿へ分ける。
「シオンさん、夕ご飯も食べていきませんか?」
宗一郎は凛を見た。
「これから作るので、少し待ってもらうんですけど」
「いいね。まだ聞きたいことあるし」
アリアが続けた。
「遅くなったら泊まっていってもいいよ。凛、寝具あったよね?」
「うん。予備の、使えると思う」
「待て」
宗一郎が口を挟むと、二人が揃ってこちらを向いた。
「宿を取っていると言っていただろう。本人の都合を先に聞け」
「今、聞いているところです」
凛の返事は穏やかだったが、引き下がる様子はなかった。
シオンは二人の誘いを聞いてから、宗一郎へ目を向けた。
彼は眉を寄せたまま、壁際の刀を見ていた。
茶を飲んで帰るはずの相手が、夕食を取り、そのまま夜まで居座る。
断る言葉を探しているのか、口を開きかけては閉じている。
「……夕食はともかく、泊まるとなると、寝る場所も要るだろう」
「長椅子を使わせてもらえれば十分だ。宿にも、今夜戻らないと伝言を送れる」
「だが――」
アリアが凛と顔を見合わせた。
その間も、シオンは宗一郎の表情を見ていた。
やがて、口元に小さな笑みが浮かぶ。
「そう露骨に困った顔をするな。私のような美女と食卓を囲めるのだぞ。少しは喜んでもよいだろう」
宗一郎は刀から彼女へ視線を戻した。
美しいことと、家に泊まることに、どんな関係があるのか。
そう尋ねるべきなのかを考えていると、シオンが彼の顔を覗くように、わずかに首を傾けた。
「……冗談だ。そこまで真剣に考えるな」
今のが、冗談というものか。
自分の渋い顔を見て、わざとそう言ったらしい。
彼女の口元に残る笑みを見て、宗一郎はようやく、その言葉をまともに受け取る必要がなかったのだと気づいた。
「否定すればいいのか」
「お前は冗談より、世辞を学べ」
台所でアリアが吹き出した。
凛も顔を伏せて笑っていたが、やがて器を置き、こちらを見る。
「今日はお客さんなんですから、もう少し優しくしてください」
「優しくないつもりはない」
「それは、分かっていますけど……」
笑いを含んだ声だった。
宗一郎は二人を見て、それからシオンへ視線を戻した。
「……分かった。泊まるなら、寝具はあとで出す」
「ありがとう。世話になる」
シオンが頷くと、アリアは嬉しそうに台所へ向かった。凛も器を集め始める。
宗一郎は一つ受け取って、立ち上がった。
「何を作る。俺も手伝う」
「煮込みです。人参、切ってもらえますか?」
「どれくらいの大きさだ」
凛が自分の切ったものを見せると、宗一郎は頷き、袖をまくった。
シオンは席に残り、三人を見ていた。
アリアが鍋を出し、凛が香草を選び、宗一郎が言われた大きさに人参を切る。
「もう少し小さくてもいいです」
「さっきは、これくらいだった」
「それ、一番大きいのです」
宗一郎が板の上を見直すと、アリアが笑った。
凛も笑いながら、彼の隣へまな板を寄せる。
シオンは茶の器を両手で包み、そのやり取りを最後まで聞いていた。
食事ができた頃には、外は薄暗くなっていた。
四つの皿へ煮込みが盛られ、パンの籠が中央へ置かれる。
シオンが香草の名を尋ねると、凛は庭で育て始めたものもあると答えた。
アリアは学院の実習について話し、宗一郎は持ち物の話に加わった。
凛は何度か、向かいの二人を見た。
シオンの美しさは、近くで見ても変わらなかった。
宗一郎に遠慮なく話す声を聞くたびに、胸のどこかはまだ落ち着かない。
それでも、彼女が自分の作った料理を食べ、もう少しもらってよいかと尋ねたとき、凛は嬉しかった。
「もちろんです。まだありますから」
鍋を取りに立つと、宗一郎がその分の皿を受け取った。
「俺が入れる。お前は、自分の分を食べろ。冷める」
凛は彼を見上げた。
「……じゃあ、お願いします」
席へ戻ると、シオンと目が合った。彼女は何も言わず、静かに笑った。
夕食のあと、凛とアリアは二階で寝具を出していた。
シオンは階下の長椅子で十分だと言った。
部屋を譲ろうとした二人には、自分一人のために寝場所を変える必要はないと、丁寧に断った。
窓を開け、夜の風を入れたあと、彼女は宗一郎へ顔を向けた。
「少し、外へ出ないか?」
宗一郎は階段の方を見た。
「庭にいる。何かあれば呼べ」
「はい。あまり冷えないうちに戻ってくださいね」
凛の声が上から返ってきた。
庭では、植えたばかりの苗が石塀の陰に沈んでいた。家の明かりが窓から漏れ、その手前にある土だけを、細く照らしている。
シオンは塀のそばで足を止めた。
「よい家だな」
「広くはない」
「広さを言ったのではない」
宗一郎は彼女の隣へ立った。
窓の向こうには、片づけ終えた食卓が見える。
「二人とは、どれくらい暮らしている」
「二年を越えた。冬の森で会った」
「家族は」
「二人とも、失っていた」
シオンは頷き、それ以上、森で何があったのかは聞かなかった。
「学院へ通うようになって、変わったか」
「よく話すようになった。自分で決めることも増えた。俺の知らないことを、二人で知っている」
宗一郎は窓へ目を向けた。
「以前は、帰るたびに顔を見ていた。今日は誰と何をしたか、今は向こうから話してくれる」
「お前も、よく話すようになった」
言われて、宗一郎は口を閉じた。
シオンはその顔を見て、わずかに笑った。
「悪いこととは言っていない」
風が石塀を越えてきた。宗一郎は上衣の袖を下ろした。
「……また、自分のことを調べようと思っている」
「先日聞いたときも、昔の調査を詳しく覚えていたな」
「思い出せる範囲だけだ。残っていないことの方が多い」
「今の生活のままでも、よいのではないか。あの子たちは、お前と暮らすことを喜んでいる」
責める声ではなかった。
何を変えたいのかを、確かめる問いだった。
宗一郎はしばらく黙った。
二階の窓の奥で、人影が動く。
アリアの声がして、凛が何か答えた。
言葉までは聞き取れなかった。
「だからだ」
シオンがこちらを見る。
「二人と、一緒に生きて死にたい」
言葉にすると、夜の中へそのまま残った。
「あの子たちが老いていく隣で、俺も老いたい。いつか、昔の話をしたい。同じくらい遠くなった昔のことを」
宗一郎は、自分の手へ目を落とした。
「二人が生涯を終えたあと、俺だけがその先を生き続けることを、もう当たり前には思えない」
シオンは笑わなかった。
戦いの途中に向けられた目も、強さを褒めたときの目も覚えている。今こちらを見ているのは、そのどちらでもなかった。
彼女は宗一郎の言葉を、静かに、重さを変えずに受け止めていた。
長い間を置いて、口を開く。
「今夜、死にたいという話ではないな」
「ああ。長く一緒に生きたい。その先までだ」
「……分かった」
シオンは家へ目を向けた。
「お前の身体と、新世暦の初め頃の遺跡について、少し調べていた」
宗一郎は顔を上げた。
「何か、分かったのか」
「老いない理由は分からん。お前が目覚めた場所に結びつく記録も、まだない。ただ、古い遺跡や由来の不明な遺物に関する情報を、中央元老院十三機関が保管しているという話は掴んだ」
中央元老院。
その名を、宗一郎はもちろん知っていた。
十三の大陸から代表が集まり、各国の枠を越えた問題を扱う機関だ。
自分がギルドを通じて触れられる情報より、遥かに深いところへ手が届く。
同時に、こちらが何者なのかを調べる手も持っている。
――だが。
「遠いな」
宗一郎は、元老院のある大陸までの道のりを頭の中で辿った。
転移魔法陣を使っても、片道に一ヶ月はかかる。
往復でニヶ月。
そこで記録を調べる時間まで含めれば、留守はさらに長くなる。
途中で飛行船に乗れば、もっと早く着くだろう。
利用できる航路を思い浮かべたが、それでも、二人を残してどれほど家を空けることになるのか、すぐには見通せなかった。
「誰でも読めるものではないだろう」
「そうだ。私も中身を見たわけではない。お前に役立つものがあるとも、今は言えん」
シオンは宗一郎へ向き直った。
「ただ、私はある程度、顔が利く。話を持ち込む相手ならいる。一緒に行ってみるか」
宗一郎はすぐには答えなかった。
Bランクに留まってきたのは、必要な権限を得ながら、余分な招集や監視を避けるためでもあった。
その自分が、不老の身体と未知の武器を携えて、元老院を訪ねる。
相談だけで終わるとは限らない。
「俺のことは、話したのか」
「名前も、居場所も伝えていない。長く生きた人間や、古い遺物の記録を扱うところがあるかと尋ねた。お前を調べさせたのではない」
宗一郎は息をついた。
シオンはその変化を見て、言葉を続ける。
「行くなら、何を明かすかは先に決める。閲覧できる資料と、許可の要る資料も分けて確かめる。顔が利くからといって、すべてを見られるわけではない」
「……大事になりそうだな」
「なる可能性はある。だから、今ここで返事をしろとは言わん」
宗一郎は二階の窓へ目を向けた。
先ほどまで聞こえていた二人の声は、今は静まっている。寝具を広げ終えたのだろうか。
「……凛とアリアがいる。何ヶ月も、二人だけで残すわけにはいかない。今は答えられない」
自分のことを知りたい。
その思いは変わらなかった。
けれど、そのために離れる日々を数えると、今度は、帰りを待つ二人の顔が浮かんだ。
「ああ。二人のことも含めて、考えればいい」
シオンの言葉に、宗一郎は頷いた。
「それと、調べるならゼルグレアもだ」
シオンが言った。
「お前が目覚めたとき、傍らにあった。その身体と無関係だと、切り分ける根拠はない」
「疑ってはいる。ただ、手放して確かめる気にはなれなかった」
「その判断も含めて、もう一度考えるべきだろう。分からないまま使い続けることに、これまでは不都合がなかったのかもしれん。だが、今は知りたい理由がある」
宗一郎は窓の向こうの壁際を見た。
ゼルグレアの隣に、長い黒鞘が立っている。
「ラミセクトは、なぜ因果に干渉できる」
シオンは彼を見た。
「前に、作用は説明したな」
「それは分かっている。聞いているのは、あの刀にどうしてそんな力があるのかだ」
「……そこまでは、私にも分からん」
思いがけず、返事は静かだった。
「触れたとき、能力の使い方も、条件も、限界も理解した。だが、理解したことをどうすれば刀として作れるのかは知らない。なぜ可能なのかを説明する言葉も、与えられなかった」
「魔力は使うんだろう」
「使う。だが、魔力そのものが因果を書き換えているのか、刀の働きを支えているだけなのかは、確かめられていない」
「動かすための力と、動く仕組みは別か」
「私はそう考えている。ただし、仮説だ」
宗一郎は少し考えた。
「お前にも、知らないことはあるんだな」
「当然だ。知っていることだけで旅が済むなら、とうに帰っている」
宗一郎は彼女の横顔を見た。
それほど長く、自分の知らないものを探してきた女が、今は自分のためにも手掛かりを探していた。
「なぜ、そこまでする」
シオンの視線が戻る。
「俺のことだ。お前が調べる理由はない」
「ある。私は、お前が次にどう生きるかに興味がある」
淡々とした声だった。
「自分の始まりも分からぬまま戦っていた男が、今は人参を切っている。少しは確かめたくなるだろう」
「人参は、以前も切った」
「あの子たちの言う大きさでか?」
宗一郎は黙った。
シオンはわずかに笑い、それから声を落とした。
「それに、頼る先を一つ増やすくらいで、私が困るわけではない。自分にできることをしただけだ」
宗一郎は、何か言おうとして少し待った。
「……助かる」
「礼にはまだ早い。何も見つかっていない」
「見つかったことだけに言っているわけではない」
シオンは彼を見た。
宗一郎は目を逸らさなかった。
やがて彼女が、小さく頷いた。
「では、受け取っておく。行きたくなったら、連絡をくれ」
話が途切れると、遠くで荷車の音がした。
夜になっても、街には帰る人がいる。
宗一郎は石塀の向こうへ耳を向け、それから窓へ目を戻した。
「そういえば」
シオンが口を開いた。
「お前の娘たちは、レガリア魔術学院の生徒だったな」
「ああ」
「近く、七大英雄の一人が来るらしい」
「学院へか?」
「そう聞いている」
七大英雄。
名を聞いても、宗一郎の中には、あまり強い関心が動かなかった。
公に知られる戦力の頂点として、街でも名が挙がる。その誰かが新たな討伐を成し遂げたという話を、ギルドで耳にすることもあった。
ただ、自分が何をしに来たのかを変えるほどの話ではなかった。
以前、大型の魔獣を討伐した英雄が街へ戻るところに、居合わせたことがある。
道の両側には人が溢れていた。
窓から布が垂らされ、花が投げられ、名前を呼ぶ声が幾重にも重なった。
子どもは大人の肩に乗り、店の主人まで仕事の手を止めて外へ出ていた。
自分は人の少ない道を選び、通り過ぎた。
あのとき、凛とアリアが隣にいたら、どうしただろう。
アリアはきっと、見えるところまで行こうと言う。
凛も、普段より少し高い声で名を呼ぶのかもしれない。
二人が肩を寄せ、通りの向こうへ手を振っている姿が、不意にはっきり浮かんだ。
胸の奥に、薄いものが引っかかった。
「……二人も、興味があるだろうか」
「本人に聞けばよい」
「そうだな」
シオンが、ふっと笑った。
宗一郎は彼女を見る。
「何だ」
「今度は、返事の前に顔に出た」
「何が」
「お前が、あの子たちを見に行きたいという顔だ」
宗一郎は否定しかけて、やめた。
英雄を見たいとは思わない。
だが、二人が何を見て、どんな顔をするのかは、少し気になった。
「私も行こうと思っていた。一緒に学院へ行くか」
「入れるかどうかも、まだ分からん」
「それは確認すればよい。入れる催しなら、一緒に行く。約束しておけ」
宗一郎が黙っていると、シオンは窓へ目を向けた。
「先に二人と約束したから、と断られては困る」
店で交わした言葉を、覚えているらしい。
「……分かった。二人にも聞いてみる」
「よし」
その返事のあと、家の戸が開いた。
凛が肩に薄い布を掛け、戸口から顔を出していた。
「二人とも、まだ話しますか?」
「もう戻る」
宗一郎が答えると、凛はほっとしたように頷いた。
「温かいお茶、淹れました。シオンさんの分もあります」
「ありがとう。ちょうど、飲みたくなっていた」
シオンが歩き始めた。
宗一郎もその後へ続き、戸口で足を止める。
「凛。学院へ、七大英雄が来ると聞いた。何か話はあるか」
凛は少し目を丸くした。
「まだ聞いていません。……来るんですか?」
「詳しいことは、これからだ」
「明日、聞いてみますね」
アリアが奥から顔を出した。
「何? 誰が来るの?」
凛が振り返り、シオンが話を引き取った。
アリアはすぐに卓へ寄り、誰なのか、何をするのかと尋ね始める。
宗一郎は戸口に立ったまま、その声を聞いた。
凛が一度こちらを振り返る。
「宗一郎さんも、入ってください。お茶、冷めちゃいます」
彼は頷き、扉を閉めた。
卓の上には四つの器があった。
自分の椅子へ戻ると、シオンが少し脇へ寄って場所を空けた。
凛が茶を注ぎ、アリアは学院で確かめたいことを指折り数えている。
宗一郎は器を手に取った。
長い間、誰かと会うことは、いつか別れる相手を増やすことでもあった。
それでも今夜、自分は庭から戻り、この卓についた。
凛が明日の話をしている。
シオンが、その先の約束を覚えている。
「俺たちも入れる催しか、聞いておいてくれるか」
凛が顔を上げた。
「宗一郎さんも、来るんですか?」
「入れるならな。シオンも一緒だ」
「じゃあ、明日聞いてきますね」
宗一郎は頷き、茶を一口飲んだ。
四つ目の器からも、まだ湯気が上がっていた。




