紅く染まる紅葉
新世暦391年 秋
凛とアリアに出会う、十七年前。
森の道には、落ち葉が幾重にも積もっていた。
宗一郎が足を下ろすたび、乾いた葉が小さく砕ける。頭上では赤く染まった枝の間に黄色が混じり、傾き始めた陽の光が、その一枚一枚を透かしていた。
風が通ると、枝を離れた葉がゆっくりと回りながら降ってくる。
濃い灰色のコートの裾が、歩みに合わせて揺れる。襟元から入ってくる風は涼しく、長く歩いた身体に心地よかった。
秋は好きだった。
夏の熱が去り、冬の寒さにはまだ遠い。
森の匂いも、肌に触れる風も、歩くにはちょうどよかった。
何百年も同じ季節を繰り返しているが、この時期の森を退屈だと思ったことはない。
急ぐ理由はなかった。
次の街まで、日が暮れる前に着けばいい。
宗一郎は歩調を緩め、頭上から舞い落ちてくる葉をしばらく眺めた。
やがて、前方へ視線を戻した。
道の向こうから、女が一人、歩いてくる。
墨色の上衣に、足運びを妨げないゆったりした下衣。枝と幾何学模様を組み合わせた銀糸の紋章が、木漏れ日を受けて淡く浮かんだ。
低い位置で束ねられた銀白色の髪は腰まで届き、その間から、長く尖った耳が覗いている。
ダークエルフだった。
片手には、黒い鞘に収まった長い刀を携えている。
銀灰色の枝飾りが巻きつく鞘と、角度をずらした二つの六角形からなる鍔。
その意匠に、宗一郎の記憶がかすかに動いた。
女も、こちらを見ていた。
互いの顔がはっきりと見える距離になったところで、その足が止まる。
淡い琥珀色の瞳が、わずかに見開かれた。
「おまえは……」
宗一郎も立ち止まった。
深い褐色の肌。
整った鼻梁。
静かだが、相手のわずかな動きも逃さない目。
「私を覚えているか?」
声を聞いて、記憶がつながった。
百年以上前、一度だけ戦った女だ。
人間とは隔絶した身体能力と、それ以上に恐ろしい技量を持っていた。
踏み込みを読まれ、攻めれば先を取られ、それでも幾度かは打ち合いへ持ち込んだ。
決着がつかないまま、女が戦いをやめたため、形の上では引き分けだった。
だが、宗一郎はそう受け取っていなかった。
あの戦いで、女は最後まで刀を抜かなかった。
恐らく、自分は見逃されたのだ。
武器の形まで思い出したところで、宗一郎は女の顔を見た。
名も告げられたはずだった。
似た響きが、記憶の奥に残っている。
「……ザイオン・ロベルト」
女の眉が寄った。
「……貴様」
先ほどの驚きが、その一言で消えた。
「シオンだ。シオン・ノーブルハート。今度こそ頭に叩き込んでおけ」
「……そうか。すまん」
シオンはしばらく宗一郎を見つめていたが、やがて、ふう、と息を吐いた。
何かを言い足すのをやめ、気を取り直すように姿勢を戻す。
「貴様、人間ではなかったのか?」
「人間だと思っている」
「最後に会ったのは、確か百年以上前だ。なぜ生きている。老いてすらいないではないか」
「そういう体質だ」
シオンは納得した様子もなく、宗一郎の顔から首元、武器を支える手へと視線を移した。
その目が捉えているのは、外見だけではない。
宗一郎にも、身体を流れる魔力を探られている感覚があった。
やがて、シオンの口元がわずかに緩んだ。
「……嬉しいぞ。鍛錬を怠っていないな」
一歩、道の端へ寄る。
「以前より、遥かに強くなっている」
宗一郎は返事をしなかった。
その先に続く言葉を、もう予想していた。
「少し、手合わせをしろ」
「断る」
「理由は?」
「戦う理由がない」
シオンの視線が、宗一郎の背にあるゼルグレアへ向いた。
「その得物を持っていて、随分と穏やかなことを言う」
「持っているからといって、誰とでも戦うわけではない」
「では、抜かずに受けるか」
シオンは鞘に収めた刀を持ち直した。
「ならば、ただ死ぬだけだな」
口調は変わらなかった。
だからこそ、宗一郎は目を細めた。
脅しを言っている女の顔ではない。
「……面倒な女だ」
ゼルグレアを背から下ろし、両手で柄を握る。
シオンはそれを見届けると、短く詠唱した。
自身の身体を包むように薄い結界が生まれ、銀白色の髪や墨色の袖の輪郭が、その膜越しにわずかに歪んで見えた。
「外へ余波を逃がすな。この森を壊す必要はない」
言い終えたシオンは、刀を鞘に収めたまま、切っ先側を斜め下へ向けた。
宗一郎は間合いを測った。
相手の腕の長さ。
武器の長さ。
足場を覆う落ち葉の厚さ。
シオンの重心は低くも高くもなく、どちらの足からでも動ける位置にある。
構えに明らかな隙はない。
風が吹いた。
二人の間を、一枚の赤い葉が横切る。
葉が地面に触れるより先に、シオンが間合いを詰めた。
黒い鞘が宗一郎の喉へ迫る。
ゼルグレアの長い鍔で外へ押し流すと、シオンは接触した箇所を支点に刀を返し、今度は脇腹を狙ってきた。
宗一郎は半歩退き、刀身を立てて受ける。
硬い音が鳴った瞬間には、女の足がすでにこちらの内側へ入っていた。
膝が腹へ来る。
肘で遮り、押し返した勢いを使ってゼルグレアを横へ払う。
シオンは身を沈め、頭上を通過する黒い刀身の下から、宗一郎の手首を鞘で打った。
指が痺れた。
握りを緩める前に、宗一郎は腕へ魔力を集め、武器を引き戻す。
その動きに合わせて、シオンも間合いの外へ抜けた。
一呼吸の間に、足元の落ち葉が吹き飛んでいた。
「いい反応だ」
シオンが言った。
「もう少し、本気でいくぞ」
その言葉とともに、シオンが再び踏み込んだ。
宗一郎はゼルグレアで迎え受けたが、衝突の瞬間、両腕に凄まじい重さがのしかかり、ズンッ、と足元の地面が沈み込んだ。
鞘に込められた魔力が、先ほどとは比べものにならない。
押し返すより早く、次の一撃が来る。
受け流し、打ち返す。
そのたびにシオンの動きは速さを増し、受ける衝撃も重くなっていった。
見た目は二十歳ほどの女だ。
腕は細く、身体つきもすらりとしている。
戦っていなければ、ただの女にしか見えない。
だが、その細腕から繰り出される一撃を受けるたび、宗一郎の骨が軋んだ。
魔力が、あの身体にどれほどの力を与えているのか。動きは残像を引くほどに速く、体内を駆ける魔力は、宗一郎の知覚に閃光となって走った。
どこまで速く、重くなる。
宗一郎の背中を、冷たいものが伝い落ちた。
ゼルグレアと黒い鞘がぶつかるたび、耳を劈く金属音が響き、火花が散る。
武器を戻す僅かな遅れさえ、次の一撃につけ込まれる。
それを許さぬよう、宗一郎の集中は極限まで研ぎ澄まされていった。
徐々に、徐々に、世界から色が消えていく。
頭上の紅葉も、舞い上がる落ち葉も、シオンの動きの向こうへ薄れていった。
激しい金属音さえ遠のき、間合いと軌道、魔力の流れだけが鮮明に残る。
音も、背景も、戦いに関わらない思考も。
その全てが、目の前の攻防に塗り潰されていく。
宗一郎は声には答えず、次の踏み込みを捉えた。
今度は自分から前へ出る。
重いゼルグレアを斜めに振り下ろし、避ける方向へ足を進めて退路を狭めた。
シオンは受け止めず、黒い鞘を刀身の側面へ滑らせる。
わずかに軌道を変えられた一撃が、地面を深く抉った。
土が跳ねる。
その向こうで、シオンの目が変わった。
宗一郎の首筋に、冷たいものが走る。
次は受け損ねれば死ぬ。
そう理解した瞬間、ゼルグレアの表面に細い亀裂が入った。
赤い光が滲み、鍔の中央で眼が開く。
鞘が迫る前に宗一郎が刀身を引き上げると、衝突した箇所から短い炎が噴いた。
シオンは接触を切り、横へ流れるように退く。
以前は、ここまで反応しなかった。
宗一郎は亀裂の増える黒い刀身を見ずに、女を追った。
あの時も相手は強かった。
だが、今こちらへ向けられている殺意は、記憶の中のものとは違う。
首を狙う武器も、逃げ道を塞ぐ足運びも、こちらが対応することを前提に、致命部へ届く軌道を選んでいる。
百年前の女は、手を抜いていた。
恐らく、殺すつもりすらなかったのだ。
ゼルグレアの亀裂が広がった。
赤い炎の芯に白が混じり、刀身を振るたび、空気が激しく揺らぐ。
熱は武器と攻撃の軌道の近くへ封じられていたが、シオンがそれを受ける瞬間、その周囲の結界が白く軋んだ。
一つ、受ける角度を誤れば喉が潰れる。
一つ、足の置き場を誤れば胴が砕ける。
判断を積み重ねるたびに、宗一郎の意識は細く鋭くなっていった。
女の顔を見る余裕などないはずなのに、声だけは、妙にはっきりと聞こえた。
「面白い武器だ」
シオンは、楽しそうだった。
宗一郎が突きを返すと、女は刀身を外へ逸らした。
その一瞬の接触で、鞘の周囲の空気が白く明滅する。シオンの笑みが消えた。
ゼルグレアは、なお熱を高めていた。
亀裂の奥の白い輝きが強まり、黒い輪郭が眩しさの中へ沈み始める。
宗一郎には覚えのある変化だった。臨界へ近づいている。
シオンは大きく後退し、自身を覆う結界へ視線を落とした。
「……これ以上は、結界がもたんな」
右手を柄へ移す。
長い鞘を後方へ引きながら身体を旋回させると、青白い刀身が現れた。
ほとんど直線のまま伸び、切っ先の近くでだけ僅かに反る、細身の長刀。
宗一郎がその全貌を見たのは、初めてだった。
同時に、シオンの身体を覆っていた薄い膜が消えた。
「――馬鹿な」
宗一郎は、思わず声を漏らした。
ゼルグレアの熱は、刀身と攻撃の軌道の近くへ封じられている。
だが、その間合いで刃を受けるシオンを守っていたのは、彼女自身に展開した結界だった。
それを解けば、生身の肉体で熱を受けることになる。その防御を、自分から捨てたのだ。
だが、シオンには何も起こらなかった。
ゼルグレアの刀身の周囲は激しく歪んでいる。
宗一郎が先ほど踏み込んだ場所には焦げた土が残り、熱そのものが消えたわけでもない。
それなのに、シオンの銀白色の髪は焦げず、墨色の袖にも変化がなかった。
熱が、届いていない。
宗一郎は女の足元と周囲を探った。
新たな障壁を張った気配はない。
あの刀だ。
百年前から、レアアーティファクトだろうとは思っていた。
しかし、どんな力を持つのかまでは知らない。
熱を遮断しているのか。
こちらとの間の距離を変えているのか。
あるいは、熱だけを別の場所へ流しているのか。
経験の中に似た現象を探すが、どれも確信には至らなかった。
シオンが、ふっと笑った。
「いくぞ。簡単に死んでくれるなよ」
胸に、痛みが走った。
服が裂け、その下から血が滲む。
宗一郎は反射的にゼルグレアを立て、身を引いた。
続いて上腕が裂ける。
痛みを覚えてから傷を確認するまで、シオンはその場から動いていなかった。
刀は下へ向けたままだ。
踏み込みも、腕の動きも、斬撃も見えない。
速すぎて捉えられなかったのか。
そう疑い、女の肩と手首へ意識を集中した瞬間、今度は脇腹に熱い痛みが生じた。
シオンは微動だにしていない。
宗一郎の背中を、汗が伝った。
このままでは、能力を見破る前に殺される。
遠くから斬れるのであれば、距離を取るだけでは意味がない。
少なくとも、武器を振るう暇を与えずに攻める必要がある。
宗一郎は脚へ魔力を叩き込み、地面を蹴った。
一瞬で間合いを潰す。
シオンは動かなかった。
冷たい琥珀色の目が、迫る宗一郎を見据えている。
ゼルグレアを横へ薙いだ。
白い熱が、女のいた場所を通過する。
そこには、誰もいなかった。
背後に気配がある。
宗一郎は身体を捻りかけて、足元を見た。
自分が踏み込んだはずの位置に、さっきまでシオンの背後にあった木の根がある。
眼前には、自分が蹴り砕いた地面が見えていた。
女が背後へ移動したのではない。
自分の位置も変わっている。
――入れ替わったのか。
振り返ると、シオンは宗一郎が一瞬前までいた場所に立っていた。
転移。
見えない斬撃。
熱を受けない防御。
少なくとも、三つの異なる現象が起きている。
別々の能力なのか、同じ力の応用なのかさえ判断できなかった。
考える時間を得るためにも、今度は正面から押し切る。
宗一郎は、全身へ魔力を行き渡らせた。
脚だけではない。
背、腹、肩、腕。踏み込む身体を支える骨と筋肉へ、維持できる限界まで魔力を注ぎ込む。
内側から張り詰める力に、傷口が軋んだ。
周囲の空気が震え、足元の小石が跳ねた。
シオンの瞳に、喜びが灯る。
「……凄まじいな」
青白い刀を持ち上げた。
「よくぞ、人の身でこの領域まで達した。……素晴らしい」
宗一郎は応じず、全力で地面を蹴った。
足元が陥没し、落ち葉の下を亀裂が走る。
その勢いのまま、一瞬でシオンの背後へ回り込んだ。
ゼルグレアを頭上から振り下ろす。
シオンが身を返し、青白い刀を掲げた。
その刃がゼルグレアを受ける瞬間、宗一郎は両腕へ限界まで魔力を込め、黒い巨剣を叩きつけた。
轟音とともに、シオンの足元にも亀裂が広がった。
女の顔が、僅かに歪む。
だが、膝は折れなかった。
ゼルグレアから放たれる輻射熱が、打ち合う二人のすぐ傍の地表を融かしていく。
近くの岩肌まで赤く灼け、粘りを帯びて崩れた。
数千度に達しているだろう熱の中で、それでもシオンの髪も、肌も、衣服も焼けない。
熱による変化は、彼女にだけ全く生じていなかった。
シオンは受けた刀を傾け、ゼルグレアの軌道を外へ流した。
宗一郎は振り切らず、鍔を前へ突き出して女の顔を狙う。
シオンは首を僅かに傾け、そのまま刀を宗一郎の肩へ落とした。
柄を引いて受ける。
金属音が、続けざまに鳴った。
宗一郎は重さを活かして押し込み、シオンは接触を短く切って次の位置へ入る。
足を止めて打ち合えば押し潰されることを、女も理解していた。
受けるたびに身体を流し、ゼルグレアの熱が集中する箇所に、長く刀を留めない。
それでも一度、宗一郎は女の退路を塞いだ。
左へ逃げれば木の根に足を取られ、右へ逃げれば次の薙ぎ払いが届く。
刀を弾いた今、中央には防御がない。
当たる。
そう判断して放った突きを、シオンは半身になるだけでかわした。
青白い刀が、宗一郎の手元を叩く。
女の視線は、突きが始まる前から宗一郎の腕を見ていた。
動きを見てから避けているだけではない。
魔力を腕へ移す、その準備を捉えている。
尋常ではない反応速度に、長い鍛錬で磨いた観察が重なっていた。
宗一郎が限界まで身体を強化しても、その間にある差は消えない。
肩を狙う刀を受け流し、宗一郎は後方へ跳んだ。
いったん、呼吸を整える。
足が地面に着いた瞬間、太腿が裂けた。
続いて肩と、腹の横に痛みが走る。
シオンは追ってきていなかった。
刀も、構えた位置から動いていない。
宗一郎は左脚を踏み直そうとして、膝をついた。
落ち葉へ、血が滴る。
傷は深くない。
筋肉を断たれたわけでも、内臓まで達したわけでもなかった。
だが、何本もの傷から流れる血が服を濡らし、全身の強化を維持する呼吸を乱している。
浅いのも、わざとか。
宗一郎は柄を握ったまま、女を見上げた。
見えない斬撃は、狙いを外していない。
深さだけを抑えて、確実にこちらを削っている。
首や心臓を同じように狙えば、どうなるか。
恐らく、その気になればいつでも自分を仕留められるだろう。
シオンは抜いた刀を肩に担ぎ、空いた手を腰へ当てた。先ほどまでの喜びは表情から消え、冷静に宗一郎の状態を見ている。
「まだ、続けるか」
勝てない。
宗一郎は、はっきりとそう思った。
力が足りないだけなら、戦い方を変えればいい。
だが、攻撃の始まりも、防御の仕組みも見えず、自分が立っている場所さえ変えられる。
このまま何度斬りかかっても、理解に届く前に身体が保たなくなる。
さらに戦えば、死の淵まで追い込まれるだろう。
そうなれば、また、あれが起こるかもしれない。
だが、それを当てにして戦う気はなかった。
自分の意思で起こせるものではない。
何より、あの状態になった自分が、この女と戦うだけで済むかどうかもわからなかった。
何より、この女を殺すために、そこまで踏み込む理由がない。
「俺は、最初から戦う気はないと言った」
血の混じる息を吐きながら、宗一郎は言った。
シオンはしばらく彼を見下ろしていた。
やがて、その表情が少し和らぐ。
「……ふっ。確かにな」
肩から刀を下ろし、長い鞘へ納めた。
殺意が消える。
ゼルグレアの白い輝きはすぐには収まらなかったが、亀裂から噴き出していた炎が細くなり始めた。
宗一郎は熱の残る刀身を自分から離して横たえ、柄から片手を放した。
シオンが、目の前へ膝をつく。
「動くな。手当てをする」
「手当てをするくらいなら、初めから斬るな」
「斬らねば、貴様はあそこまで力を出さなかっただろう」
宗一郎は女を見た。
シオンは視線を受け止め、短く息を吐いた。
「……私の都合だな。傷は治す」
血で貼りついた布を傷から離し、一つずつ損傷の深さを確かめる。
その指は、刀を扱っていた時と同じように正確だった。
詠唱が始まる。
掌の下で淡い光が生まれ、傷口の痛みがゆっくりと変わった。
開いていた皮膚が寄り、出血が止まる。
シオンは一か所を終えると次へ移り、胸、腕、脇腹、太腿の順に処置を進めた。
宗一郎は黙って、それを受けた。
傷が塞がっても、失った血と疲労は残っている。
立とうとした時、シオンが肩へ手を置いた。
「まだ座っていろ。歩けるかどうかは、傷口だけで決まらん」
二人は道を少し外れ、木の根元へ腰を下ろした。
ゼルグレアは宗一郎の傍らに置かれている。亀裂の光は赤へ戻り、周囲には薄い陽炎が残っていた。
しばらく、どちらも話さなかった。
枝の上で、小鳥が一度だけ鳴く。
宗一郎はその声を聞き、戦いの間、森の音を一つも聞いていなかったことに気づいた。
「名を聞いていなかったな」
シオンが言った。
「宗一郎だ」
「宗一郎」
女は、確かめるように繰り返した。
「覚えた。貴様も、私の名を忘れるな」
「シオン・ノーブルハート」
「よし」
宗一郎は、彼女の膝に置かれた刀を見た。
「それは、何だ?」
「刀だ」
「見ればわかる」
シオンの口元が、僅かに動いた。
「《終因ラミセクト》。因果遺物だ」
宗一郎は顔を上げた。
因果遺物。
名だけなら知っていた。
だが、実在するものを目にしたという確信は、今まで一度もなかった。
「本当に、あるのか」
「いま、身をもって確かめただろう」
シオンは柄へ指を置いた。
「話す前に、一つ約束しろ。この刀の正体と、これから説明することを、誰にも明かすな」
宗一郎は少し考え、頷いた。
「わかった。話さない」
女はその返事を聞いてから、説明を始めた。
「物事には原因と結果がある。刀を振るい、身体へ届けば、斬られる。ラミセクトは、その関係へ干渉する」
「……動かずに斬ったのは」
「私が接近して貴様を斬る。その行動から生じる結果を、行動より先に成立させた。《因果絶刀》だ」
宗一郎は、自分の胸へ目を落とした。
あの時、傷を受けてから防御へ動いた。
見落とした斬撃があったのではない。
捉えるべき動作より先に、傷が生じていたのか。
「刀を抜く必要もない。鞘に収めたままでも使える」
宗一郎の視線が、再び黒い鞘へ向いた。
「なら、最初から――」
「できた」
シオンは淡々と答えた。
「抜いたのは、通常の剣技も交えて戦うためだ。抜刀が力を与えるわけではない」
宗一郎は、ゆっくりと息を吐いた。
百年前、この女は刀を抜かなかった。
その記憶を、今度も判断の基準にしていた。
だが、本当に残していたものは、刀身ではなかったのだ。
「熱を受けなかったのも、その力か」
「あれは《因果転承》だ。本来、私へ生じる結果を、別の対象へ帰属させる。熱そのものを消したのではない」
シオンが顎で示した先に、黒ずんだ岩があった。
木々から離れた、道の脇の露岩だ。
その表面だけが溶け、赤い筋を残している。
「あれに、引き受けさせた」
宗一郎は岩を見つめた。
熱が女へ届かない理由を探っていた時も、熱は存在していた。
消えたのは、シオンがそれを受けるという結果だった。
「位置が入れ替わったのは」
「移動によって、ある地点を占める。その結果の帰属先を、貴様と私で交換した。同じ力の応用だ」
ばらばらに見えた現象が、女の言葉でつながっていく。
だが、仕組みを聞くことと、それに対処することは別だった。
どこへ斬られるかも、いつ位置を変えられるかもわからないまま、原因を見る前に結果を受ける。
宗一郎は、刀からシオンへ視線を戻した。
「どこまで届く」
「距離だけを知っても無駄だ。因果へどれほど深く干渉するかで、及ぶ範囲は変わる。広げるほど魔力を使い、変更が大きく複雑になるほど、負担も増す」
「回数に限りは」
「一日に何度と決まっているわけではない。浅い干渉なら重ねられる。だが、どれも魔力を使う。無限ではない」
そこでシオンは、宗一郎を見た。
「もっとも、それを使い切らせる前に生き残れるかは、別の問題だ」
宗一郎は否定しなかった。
そもそも、この女は刀の力を使わなくても強い。
先ほどの打ち合いだけで、こちらの動作も魔力配分も読まれていた。
その上に、今聞いた力が重なる。
「なぜ、俺に話した」
「何も知らない相手を、同じ方法で倒しても、次に確かめるものがない」
シオンは答え、僅かに目を細めた。
「それに、貴様も興味深い。その武器も、百年経ってなお変わらぬ身体もな」
宗一郎はゼルグレアへ目を向けた。
「俺にも、よくわからん」
「体質、という説明の続きはないのか」
「気づいた時には、これが傍にあった。それより前のことは覚えていない。老いない理由も、正体も知らない」
シオンはすぐには質問を重ねなかった。
宗一郎の顔を確かめたあと、ゼルグレアへ視線を移す。
「……そうか」
それだけ言った。
やがて宗一郎が、今度は女へ尋ねた。
「おまえは、何をしている?」
「各地を巡っている。剣術、魔術、強い者の戦い。学べるものは、まだ多い」
「人を襲うのも、そのためか」
「そこは否定できんな」
シオンは真顔で答えた。
「だが、誰でもいいわけではない。貴様が百年以上前より強くなっていたのが、嬉しかった」
宗一郎は、血のついた袖を見た。
「嬉しがり方を変えろ」
女は一瞬だけ黙り、口元を緩めた。
「考えておこう」
風が吹き、二人の前へ落ち葉が降ってきた。
宗一郎は、その一枚を目で追った。
森を歩き始めた時より、陽が低くなっている。
シオンはその視線に気づいた。
「急ぐ用事でもあるのか?」
「日が暮れる前に、次の街へ着きたかった」
「旅を続けているのか」
「ああ」
「百年以上、か」
「それより長い」
シオンは少し黙った。
「何を探している?」
宗一郎は、傍らのゼルグレアを見た。
「邪神だ」
「なぜ」
すぐに答えられるはずの問いだった。
だが、理由を言葉にしようとすると、いつも同じところで思考が止まる。
「……倒さなければならないと思っている。それだけだ」
シオンは、その返事を笑わなかった。
「自分の過去も、その武器の正体もわからぬまま、戦い続けてきたのか」
「戦い方はわかる」
「生き方を聞いている」
宗一郎は女を見たが、答えは出てこなかった。
シオンはそれ以上問いを重ねず、腰を上げた。
「立てるか」
宗一郎は木の根へ手をついて立ち上がった。
一度、足元が揺らぐ。
シオンは手を出しかけたが、宗一郎が姿勢を戻すのを見て、その手を下ろした。
「無理に急ぐな。倒れては、余計に遅くなる」
「誰のせいだ」
「私だな」
今度は、返事が早かった。
宗一郎はゼルグレアを持ち上げた。
白かった光はすっかり引き、亀裂の奥に細い赤が残るだけになっている。
シオンも立ち、刀を携え直した。
「約束は忘れるな」
「話さない」
「名もだ」
「……覚えた」
シオンは満足したように頷き、元の道へ戻った。
数歩進んだところで、肩越しに宗一郎を見る。
「次は私に勝ってみせろ」
宗一郎は、答える前に女を見た。
次も戦うのか、と言おうとした時には、シオンはもう前を向いていた。
墨色の衣服が木立の間へ遠ざかり、低く束ねた銀白色の髪が、紅葉の光を受けて揺れる。
やがて、その姿は曲がり道の向こうへ消えた。
宗一郎はしばらく立っていたが、血で汚れた上衣へ視線を落とし、眉を寄せた。
この服では、宿の主人に何か聞かれるかもしれない。
少なくとも、道で会った女に斬られたと、そのまま説明する気にはなれなかった。
小さく息を吐き、宗一郎は次の街へ続く道を歩き始めた。
靴の下で、落ち葉が乾いた音を立てる。
木々の赤も、頬に触れる風も、少し前と変わらない。
こんなことがあっても、やはり秋は好きだった。




