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英雄の先にいる者

新世暦411年 初夏


青い空を、薄い雲が流れていた。

窓の上端から覗いていた白い筋が、庭の向こうの屋根へゆっくり渡っていく。

風が入るたび、開け放した窓の脇で布が膨らみ、床に落ちた朝の光が揺れた。

春にはまだ頼りなかった庭の葉も、いつの間にか濃い緑になっている。


宗一郎は洗った器を伏せ、濡れた手を拭いた。

凛とアリアは、もう学院へ行っていた。

今日は早く来るように言われているらしい。

朝食の間も、アリアは昨夜から続く話をしていた。


七大英雄、序列第五位

レオンハルト・ヴァルケス


《不退の槍》と呼ばれる男が、今日、レガリア魔術学院を訪れる。

城塞都市の北門を守り、包囲された住民と負傷兵の退路を維持した。

その後も交易路の奪還や大型魔獣の討伐を重ね、世界に名を知られるようになった。

凛が学院から持ち帰った案内には、そう記されていた。

七大英雄の姿は、何度か見たことがある。

街へ凱旋した者。

ギルドの奥で、支部の責任者と話していた者。

宗一郎は、いずれも遠くから眺めただけだった。

第五位を見るのは、今日が初めてになる。

立つ場所も、引き受けているものも違う。

自分には関わりのない連中だと、そう考えてきた。


今朝、アリアは玄関で振り返り、遅れないでよ、と言った。凛も、その隣でこちらを見ていた。

二人が何を楽しみにしているのか。今日は、それを見に行く。

戸を叩く音がした。

開けると、シオンが立っていた。

黒いノースリーブの上衣には、銀糸で細かな刺繍が施されていた。

短い下衣から褐色の脚が伸び、足元には厚底の黒い革靴。銀白の髪は結ばず、肩から背へ流している。


「支度はできているか」


「ああ。学院で会えばよかっただろう」


「一緒に行くと言った」


「入口からでも、一緒だ」


「ここからでも、一緒だな」


シオンは当然のように答え、宗一郎の肩越しに家の中を見た。

居間の壁際に、ゼルグレアが立て掛けてある。


「あれは持っていかないのか?」


「必要ない」


「盗まれたらどうする」


宗一郎は、壁際を振り返った。

考えたことがなかった。

凛とアリアと暮らすようになるまで、ゼルグレアを置いて出かけるという状況自体が、ほとんどなかった。眠るときも、食事をするときも、手を伸ばせば届くところにあった。

家を離れるなら、当然のように携えていた。

それが今は、買い物へ行くにも、二人を迎えに行くにも、壁に預けたまま出ていく。


「……重いから、大丈夫だろう」


「随分と大らかな防犯だ」


宗一郎は返事をせず、戸を閉めた。

鍵を掛ける手元を見て、シオンが少し笑った。


街へ近づくにつれ、道を歩く人が増えていった。

店の軒先に夏の薄布が並び、荷車には青い実をつけた枝が積まれている。

日向の石畳は明るく、建物の間を抜ける風には、まだ朝の冷たさが残っていた。

宗一郎は、隣を歩くシオンへ目を向けた。

厚底の革靴が、石を踏む。


音がしない。


靴底が触れる瞬間にも、体重が移る瞬間にも、足音らしいものがなかった。

人を避けて歩幅を変えても、上体はほとんど揺れない。

ただ歩いているだけで、その身に積み重なったものが分かる。


「どうだ」


シオンがこちらを見た。


「何が」


「今日の服だ。さっきから見ているだろう」


宗一郎は返事に詰まった。


「……いつもとは違うな」


「それは、私にも分かる」


彼女は上衣の裾へ軽く指を添えた。


「この刺繍は気に入っている。遠くから見ると銀の線だが、近くでは葉と枝が見える。黒地でも重くなりすぎん」


言われて、宗一郎は改めて模様を見た。

細い枝が裾から伸び、脇へ向かうにつれ、小さな葉を増やしていた。

動くたびに光を拾うが、きらびやかというほどではない。


「……よくできている」


「作った者は喜ぶだろうな。着ている私への感想はないのか?」


「似合っていると思う」


少し考えてから答えると、シオンは満足したように頷いた。


「最初から、それでよい」


宗一郎は前へ目を戻した。

着飾るのが好きだと、前にも言っていた。

彼女にとっては、旅の途中で衣服を選ぶことも、鍛錬とは別の楽しみなのだろう。


「年頃の女と暮らしているなら、もう少し興味を持て」


「二人には、必要なものを買っている」


「必要かどうかだけではない。あの子たちも、選んで着ているはずだ」


そう言われると、思い当たることはあった。

玄関へ来てから、一度部屋へ戻る。

髪の結び方を変える。

互いの服を見て、何か相談する。宗一郎はその間、戸口で待っていた。

待つことに、不満はなかった。

ただ、何を考えて選び直していたのかは、ほとんど聞いたことがない。


「分からぬなら、聞けばよい。お前が気づくのを、待っているかもしれんぞ」


シオンは言った。

自分の方が長く生きているはずだった。

それでも彼女には、自分が知らずに通り過ぎてきたことが、随分と見えている。

長い時間の中で、敵の動きを見分けることばかりが上手くなった。

毎朝、自分の前へ出てくる二人が何を選んだかさえ、見ているつもりで見ていなかった。

宗一郎は、風に動く銀白の髪を見た。


「今日は、髪も違うな」


シオンが、ふっと笑った。


「そうだ。少しは見えてきたか」


学院の尖塔が見えてきた頃、宗一郎は尋ねた。


「第五位とは、会ったことがあるのか?」


「ない」


「強いと思うか?」


「見てみなければ分からん」


シオンは少し歩調を緩め、門へ続く道を見た。


「私は強い者が好きだ。だが、七人全員を、同じ意味で強者だとは思っていない」


「序列はあるだろう」


「公に知られた戦績を並べたものだ。何を積み重ね、どう戦うかまでは、肩書き一つでは分からん。今回の男は、まだ知らない」


英雄やランクという言葉そのものには、あまり興味がないらしい。

ただ、近くへ来るなら、実際の姿を見ておきたいという。

門の前には人が集まっていた。

来場者を案内する生徒たちが腕章を着け、普段は静かな前庭にも、いくつもの声が重なっている。

窓から身を乗り出す者を教師が注意し、正門脇では、講演と午後の実演の時刻が大きな板に掲げられていた。

祭りの日のようだった。

宗一郎は、凛が渡してくれた来場票を見せた。

受付の生徒は二人を確認し、それからシオンをもう一度見た。

言いかけた案内が途切れ、隣の生徒に肘でつつかれる。


「……どうぞ。午前の講演は、講堂で行われます」


門をくぐっても、視線は続いた。

男子生徒が振り返る。

女子生徒が友人の袖を引く。

銀白の髪を見ていた者が顔へ目を移し、そのまま言葉を忘れる。


「お前といると目立つ」


宗一郎が言った。


「楽しめ」


「何をだ」


「いつもと違う一日を」


シオンは気にする様子もなく、校舎を見上げた。


「まだ時間があるな。案内してくれ」


「俺が?」


「凛とアリアが通う学院だ。全部、把握しているのだろう」


宗一郎は彼女を見た。


「……入ったことのない部屋はある」


「道は分かる、と」


返事を待たず、シオンは歩き始めた。

凛とアリアは、どこかで準備を手伝っているのだろう。

今朝、アリアは講演が始まるまで忙しいと言っていた。

宗一郎は、図書館へ向かう回廊へ彼女を案内した。

高い窓から光が落ち、壁際に置かれた長椅子を明るく照らしている。

この先を歩いたときのことが、ふと頭をよぎった。


アルベルド。


あの老人も、人の力量を探ることに、妙な熱心さを見せる。


「何用だ」


シオンが足を止めた。

声は、背後へ向けられていた。

柱の陰で、空気が薄く揺れた。

何もなかった場所から、長い白髭とローブの裾が現れる。

白い杖の先には、紫色の球体が静かに浮いていた。


「いや。見かけぬ方が、宗一郎殿と歩いておられたのでな」


アルベルドは、穏やかに笑った。


この男は、いつもこんなことをしているのか。

宗一郎が黙っていると、老人はシオンへ目を向けた。


「アルベルド・リヒターじゃ。この学院を預かっておる」


「シオン・ノーブルハート」


「ほう。……今日は、お二人で英雄を見に?」


「ついでに、学院も見ている」


シオンは短く答えた。

アルベルドの目には、すでに好奇心が浮かんでいた。立ち方を見ている。

靴の位置、腰の刀、こちらへ向けられた視線。

隠そうとしても、見たいものが多いらしい。


「よろしければ、あとで少しお話を――」


「先に講演だろう」


宗一郎が言うと、遠くで鐘が鳴った。


「おお。そうじゃった」


老人は頷いたが、興味まで引っ込めたわけではなさそうだった。


講堂にレオンハルトが現れた瞬間、生徒たちの歓声が上がった。

背が高く、肩幅の広い男だった。

青みを帯びた鋼色の胸甲と籠手。

左肩からは濃紺の短い外套が垂れ、胸には門と槍を組み合わせた小さな紋章がある。

暗い金色の髪を後ろへ流し、左眉には古い傷が走っていた。

顔を飾るより、戦場で傷を受けたことの方がよく分かる姿だった。

男は壇上で一礼した。

歓声が落ち着くのを待ち、低い声で話し始める。

北門の戦いの話になったとき、講堂はとりわけ静かになった。


「私が門を守ったと、よく言われる」


レオンハルトは生徒たちを見渡した。


「だが、私一人では一人の負傷兵も運べない。矢を補充した者、瓦礫を退けた者、担架を担いだ者がいた。私が最後まで立っていられたのは、その者たちが自分の持ち場を離れなかったからだ」


誇らしげに語る声ではなかった。

覚えていることを、忘れずに伝えようとする声だった。


「どう思う」


シオンが小さく尋ねた。

宗一郎は壇上を見たまま答えた。


「自分の力を理解している男だ」


「そうだな」


シオンは、わずかに頷いた。

生徒席の端に、凛とアリアが見えた。

アリアは身を乗り出して話を聞いている。

凛は膝に置いた手を重ね、男の言葉を静かに追っていた。

二人が見ているのは、今日初めて会った英雄だった。

宗一郎はその横顔を、少しの間、眺めていた。


午後の実演は、校舎の間にある広い演習中庭で行われた。

石畳の中央に実演区画が設けられ、その周囲を観覧席と回廊が囲んでいる。

教師が防護術式を確認し、生徒たちは決められた線より後ろへ並んだ。

宗一郎とシオンは、上階の回廊から見下ろしていた。

中央の台に、人形が立っている。

白灰色の外装。顔には目鼻がなく、滑らかな面に細い線が一本走っていた。

関節の隙間では、鈍い銀色のものがゆっくり流れている。右手には、外装と同じ色の長槍があった。


「レアアーティファクト、《ハンプティダンプティ》です」


担当の教師が説明した。


「外部から注がれた魔力を内部へ集め、魔力核を形成します。その核を動力として活動し、相手の動きや魔力に応じて、身体や武器の形状を変えます」


制御卓には、幾つもの水晶が並んでいた。

教師がその一つへ触れると、人形が腕を上げ、槍を水平に構えた。


「これまでにも、上級課程の実習や教師の訓練に使用してきました。注ぐ魔力量には制限を設け、停止命令もこちらから送れます。本日は、レオンハルト殿の槍術をご覧いただきます」


人形は一度、静止した。

レオンハルトが進み出る。

携えた長槍《グランヴェル》の銀色の穂先が、初夏の光を返した。

黒い柄を握り直し、教師と防護区画を確認してから、所定の注入口へ手を添える。

水晶の光が、定められた目盛りで止まった。

人形の胸の奥に、赤い光が灯る。

最初の打ち合いは、短かった。

人形が突き、英雄が穂先をずらす。

踏み込む足が相手の間合いを奪い、柄の一打が人形の肩を押し戻した。

生徒たちから声が上がる。

レオンハルトは攻めながら、足の位置と槍の扱いを説明していた。言葉が途切れることも、構えが崩れることもない。

人形の肩が、液体のように動いた。

打たれた部分が元へ戻り、肘の位置がわずかに変わる。

次の突きは、同じ構えから違う角度で出た。


「対応が早いな」


シオンが呟いた。

宗一郎も、胸の赤い光を見ていた。

光が、移動している。

次の瞬間、槍と槍がぶつかり、鋭い音が中庭へ響いた。

制御卓の水晶が、一斉に白く光った。

教師が手を伸ばす。


「停止します」


人形は止まらなかった。

外装の線が増え、首から胸へ赤い光が走る。

槍の穂先が細く伸び、左腕の形まで変わり始めた。


「停止命令を――」


教師は別の水晶へ触れた。

制御卓の上に広がった術式が、内側から歪んだ。

宗一郎の隣で、シオンの視線が鋭くなる。


「まだ使われていなかった機構がある」


人形が踏み込んだ。

それまでとは違う速さだった。

レオンハルトが槍で受けた瞬間、重い衝撃が地面へ抜ける。彼の足元から亀裂が走り、人形の槍が続けて放たれた。

英雄は槍を返して受け流したが、もう説明はしていなかった。


「実演を中止する!。後ろへ下がってくれ!」


声が低くなった。


「全員、避難させるんじゃ!!」


アルベルドの怒声が、中庭を貫いた。

普段の柔らかな声とは違う、腹の底からの号令だった。教師たちが一斉に動き、生徒たちを出口へ誘導し始める。

次の連突きで、彼の足が半歩退いた。


アルベルドが、中庭へ出ていた。

短い詠唱とともに杖の球体が光り、人形の横から雷が走る。

肩の外装が裂け、槍の向きが逸れた。その隙に、レオンハルトが踏み込み、胸へ一撃を放った。

外装が砕ける。

だが、中から流れ出た銀色のものが穴を塞ぎ、赤い光は腰の方へ移っていた。


「核が動く。外装を壊すだけでは止まらん」


アルベルドが言った。


「分かりました。私が引き受けます」


レオンハルトは人形の前へ立ち直った。

人形は彼の動きを追い、槍を構える。

教師たちが避難を始めた生徒を誘導し、アルベルドは出口へ続く通路に防壁を張った。

泣き声が聞こえた。

椅子が倒れ、誰かが友人の名を呼んでいる。

教師の声がその上を通り、走らずに進むよう、繰り返し指示していた。

宗一郎は、凛とアリアを探した。

下階の柱のそばにいた。

二人の友人の一人が、倒れた椅子に足を挟まれている。アリアが椅子を持ち上げ、凛がその子へ肩を貸していた。もう一人の生徒も、反対側から支えている。

教師が四人へ向かっていた。

その間に、人形の左腕が伸びた。

英雄の槍に絡みつく。

レオンハルトは柄をひねって振りほどいたが、人形はその反動を利用して横へ跳んだ。

彼との間に距離が開く。

人形の槍から、赤い光が迸った。

防護区画の端が裂け、石の破片が避難通路へ散った。アルベルドの防壁がそれを受け止める。

レオンハルトは追ったが、人形は身体の向きを変え、柱のそばの四人へ槍を向けていた。

宗一郎は、手すりへ手を掛けた。


「行け」


シオンが言った。

下階の四人の前に、薄い光の膜が生まれる。

宗一郎は手すりを越えた。


凛は、友人の身体を支えていた。

足に体重を掛けられないらしい。

大丈夫だと言う声が震え、肩へ回された腕には、力が入りすぎていた。


「もう少しです。あそこまで――」


目の前で、光が広がった。

人形がこちらを向いている。

赤い槍の先を見たとき、息が止まった。

アリアが前へ出かけた。その肩を引こうとした瞬間、二人の前へ黒い影が落ちた。

石畳に、低い音が響く。

片膝を曲げ、地面へ片手を添えた男が立ち上がった。

見慣れた黒い服。

武器を持たない背中。


「宗一郎……?」


アリアの声がした。

宗一郎は一度だけ振り返り、四人を見た。


「ここから動くな」


その目が、友人の足にも向けられる。


「すぐ終わる」


ハンプティダンプティが槍を構えた。

踏み込みと同時に、白灰色の身体が凄まじい速さで迫る。

宗一郎は構えを取ることもなく、まっすぐ立ったまま、その穂先を迎えた。

凛が声を上げるより早く、槍が胸元へ届いた。


バキィン!


耳を打つ金属音が響き、火花が散った。

穂先が横へ逸れている。

その軌道の内側に、宗一郎の右手があった。

素手で弾いたのだ。


「下がれ! それは――」


レオンハルトの声が途切れた。

人形は槍を引き戻し、すぐに次の突きを放った。

胸へ、肩へ、腹へ。

宗一郎は右手と左手で次々に弾き、穂先を身体の外へ押し流していく。


ガキン、ガキンッ!


硬い音が立て続けに鳴り、やがて一つ一つを聞き分ける間さえなくなった。

関節が伸び縮みし、攻撃の角度が変わった。

突きの間隔がさらに縮まり、幾重にも残っていた槍の残像さえ、やがて見分けられなくなる。

宗一郎の腕も、もう目では追えなかった。

足は最初に立った場所から動かず、上体にもほとんど揺れがない。

その前で絶え間なく金属音が重なり、火花が弾けている。

何をどう受け、どう弾いているのか、凛には分からなかった。

槍を持たない人が、槍の攻撃をすべて防いでいる。

信じられずに見つめるうち、凛の目が、宗一郎の身体を流れる魔力を捉えた。

体幹から腕へ、細い光の筋が走った。

見えたと思ったときには、もう消えている。

次の閃光は反対の腕へ抜け、鋭い金属音とともに、掌の辺りで一瞬だけ強くなった。

流れは両手に留まらなかった。

音が鳴るたびに走り、接触する箇所へ集まっては、すぐにほどける。

手を、ずっと強化しているのではない。

槍に触れる、その一瞬にだけ魔力を送り込んでいる。


凛は息を詰めた。

身体強化の原理は学院で習った。

けれど、穂先も腕も見えないほどの攻防の中で、その配分まで一撃ごとに切り替えられるとは思わなかった。

閃光のような魔力の流れが、途切れずに走っていた。

アリアも、隣で黙っていた。

友人を支える手に力が入り、唇がわずかに開いている。

目の前にいるのが宗一郎だと分かっているのに、その背中と、音と火花しか残さない攻防が、どうしても結びつかなかった。

さっき、英雄はこの突きを受け、後ろへ下がっていた。

同じ槍を、宗一郎は素手で弾いている。

凛の目の前にいるのは、朝、自分たちの器を片づけていた人だった。


レオンハルトは、足を止めた。

防御へ割って入る必要がない。

その判断に、驚きが遅れてついてきた。

人形の連突きは、受けるたびに重さと角度を変えていた。

自分が退いたのは、次の攻撃を受けるための余地を作るためだった。

目の前の男には、その余地さえ要らない。

穂先が触れる直前、最小限の力で軌道を変えている。速さだけで成立する防御ではなかった。

力が向かう先も、次の一撃が始まる場所も、すでに見えている。

自分が槍と足運びを駆使してしのいだ攻撃を、男は素手で、そこに立ったまま捌いていた。

速い、というだけでは足りない。

攻撃を捉える精度も、応じる余裕も、自分とは隔たりがある。

その事実を、レオンハルトは目を逸らさずに受け止めた。


「……アルベルド殿」


「……うむ」


老人の目も、男から離れなかった。

杖を握る指に、わずかに力が入っている。

疑っていた力量が、想像していた範囲を越えていた。次々に光る魔力の筋を見ながら、アルベルドは、これが本当に人の身体で行われているのかと、一瞬、己の目を疑った。


「避難路を維持します」


レオンハルトは槍を構え直し、人形から離れて通路へ向かった。

アルベルドが教師へ指示を送り、崩れた囲いの向こうにも防壁を延ばす。


上階のシオンは、静かに戦いを見ていた。

宗一郎の右手へ流れる魔力が、ひときわ強くなった。

それまで軌道をずらすだけだった掌が、槍を大きく打ち払う。


バキィン!


ひときわ重い金属音が響き、人形の腕が外へ跳ねた。肩が引かれ、胴体が開く。

その一瞬に、宗一郎の膝が上がった。

腹部へ、前蹴りが突き刺さる。


ドゴンッ!


鈍い衝撃音とともに白灰色の外装が陥没し、人形の身体が後方へ吹き飛んだ。

石畳を擦って跳ね、破片を撒きながら実演区画の中央まで滑っていく。

宗一郎は足を下ろし、凛たちの前に立ち直った。

人形の腹部で、銀色のものが蠢いた。

潰れた外装が押し戻され、槍を握った腕を支えに身体が起きる。

滑った足が石畳を掴み、顔のない頭が宗一郎へ向いた。

槍を持つ腕が、大きく後ろへ引かれる。

ミシ、ミシミシ、と肩から胴へ軋みが走った。

足元の石畳に亀裂が広がる。

全身を引き絞るように力が集まり、胸の光が弱まるのと引き換えに、穂先が赤く燃え上がった。

腕が振り抜かれた。


ドォンッ!


空気を叩き裂く轟音とともに、槍が放たれた。

巻き起こった風が石の破片を弾き飛ばし、白い軌跡が中庭を貫く。

凛には、投げられた槍の形さえ見えなかった。


宗一郎は動かない。

槍が、宗一郎の胸へ突き刺さる――その直前。

右手の人差し指を、穂先の腹へ下から添えた。

指先へ、魔力が凝縮する。

宗一郎は突進する槍の勢いを受け流しながら、穂先を押し上げ、そのまま下へ返すように押し回した。

槍全体が大きく振られ、重い柄が頭上を回って跳ね上がる。

前へ進む力を残したまま、先端が足元を向いた。


ズドンッ!!


槍が石畳へ深く突き刺さり、砕けた石が噴き上がった。

地面を伝う衝撃が靴底を打ち、亀裂が放射状に走っていく。

凛は、反射的に肩を竦めた。

宗一郎は、その中心に立っていた。

右手を下ろし、足元の槍にはもう目も向けていない。


「……大したものだ」


上階で、シオンが呟いた。

僅かに目を見開いていた。

あの速度と重さを、指一本で捉え、後ろの四人へ逸らすことなく地面へ落とした。

力で止めるよりも難しい制御を、宗一郎は迷いなく選んだ。

彼女の視線が、槍から宗一郎の右手へ戻った。

舞い上がった砂埃の向こうで、人形が両腕を動かした。

次の攻撃へ移ろうとしていた。

槍を手放した身体の内側を、魔力が大きく流れる。

腰の奥にあった赤い光が胸へ寄り、右肩へ向かう流れと交わった。

宗一郎の目が、その一点を捉えた。

凛が瞬きをした。

男の姿が、前から消えていた。

人形の背後に、宗一郎が立っている。

右手には、赤く光る塊が握られていた。

人形の胸に穴が開き、銀色のものが縁を塞ごうとしていた。

持ち上がった左腕が、ぎこちなく宗一郎を追う。

彼は握った手へ、力を込めた。


パンッ!


乾いた音がした。

赤い光が指の間で砕け、消えた。

同時に、人形の腕が止まる。

白灰色の身体が傾き、膝から石畳へ落ちた。

関節の隙間で動いていた銀色のものも、もう流れていなかった。

中庭に、しばらく音がなかった。


最初に動いたのは、教師たちだった。

負傷した生徒へ駆け寄り、避難した者の人数を確かめる。

アルベルドは人形の残骸へ封鎖の術式を重ね、担当教師と制御卓を調べ始めた。

宗一郎は凛たちのところへ戻った。


「怪我は」


凛は首を横に振った。

アリアも頷いたが、目は宗一郎の手を見ていた。

槍を弾いた手。

その指に、血はついていない。


「その子を、頼む」


宗一郎は近づいてきた教師へ言った。

友人が引き受けられるのを見届け、凛とアリアを安全な回廊へ連れていく。

レオンハルトが来た。


「四人とも、無事か」


二人が頷くと、男は深く息を吐いた。

それから宗一郎へ向き直る。


「助かった。見事な手際だった」


「間に合ってよかった」


「名を、聞いてもいいか」


「宗一郎だ。この二人の保護者をしている」


答えてから、以前も似たような説明をしたことを思い出した。

あのときも、二人が無事かどうかだけを、まず確かめた。


「ハンターか」


「そうだ」


「登録は」


「Bだ」


レオンハルトの視線が、宗一郎の顔に留まった。

聞き違いを確かめるような間があった。


「……そうか」


男はそれ以上尋ねなかった。


「礼は改めてさせてほしい。今は、生徒たちを確認する」


宗一郎が頷くと、英雄は負傷者のいる方へ戻っていった。

シオンが階段を下りてきた。

彼女が近づくと、四人を守っていた薄い光は、すっかり消えた。


「久しぶりに見たな」


「何をだ?」


「お前が、あの速さで動くところを」


シオンは石畳に倒れた人形を見た。


「次は、私ともやるか」


「馬鹿を言うな」


彼女は、ふっと笑った。

宗一郎は二人を見た。

帰ろう、と声を掛けるまで、凛もアリアも、何も言わなかった。


学院は、午後の催しを中止した。

生徒たちは無事の確認を受けてから、順に帰宅を許された。

凛とアリアも、友人が医務室で手当てを受け、重い怪我ではないと聞いて、ようやく少し顔を緩めた。

門を出ると、昼の光がまだ街を照らしていた。

シオンが、ふいに遠くの屋根へ目を向けた。

宗一郎はその横顔を見て、何も言わなかった。

離れた校舎の屋根で、アルベルドが小さく息をついた。


「この距離でも、分かるか。……自信をなくすのう」


杖を膝に置き、門の向こうの四人を見送る。

Bランクには釣り合わないと、初めて会った日から思っていた。

だが、釣り合わないという言葉では、もう足りなかった。


「あれほどとはな」


老人は立ち上がった。

確かめたいことは増えた。

けれど今日は、保護者へ返した生徒を、これ以上呼び止める日ではなかった。


帰り道、アリアは珍しく静かだった。

凛も、隣で前を向いて歩いていた。

何度か宗一郎へ目を向け、目が合う前に戻す。

二人の靴が、石畳に音を立てる。

シオンの足音は、やはり聞こえなかった。

宗一郎は何か話そうとして、やめた。

怖かったか、と聞けば、二人は頷くだろう。

だが、何を怖いと思ったかまで、自分が決めてはいけない気がした。

家の戸を開けると、居間には朝と同じ光景があった。

伏せた器。

卓の上の布。壁に立て掛けたゼルグレア。

シオンが自然に中へ入る。


「なぜ、お前もいる」


宗一郎が尋ねた。


「私も、あの場にいたからな」


彼女の目が、二人へ向いた。

宗一郎はしばらく黙り、戸を閉めた。

アリアが卓のそばで振り返った。


「……第五位なんだよね」


「ああ」


「今日の英雄」


「そうだ」


アリアは両手を握った。


「あの人でも、下がってた。槍で受けてた。宗一郎は、何も持ってなかったのに」


凛が、宗一郎の右手を見た。


「怪我、本当にしていませんか?」


「していない」


彼は手を開いて見せた。

凛はその掌を確かめてから、顔を上げた。


「……宗一郎さんの方が、強いんですか」


宗一郎は、すぐには答えられなかった。

今日のことを、なかったことにはできない。

それでも、どこまで話せばよいのかは、分からなかった。


「少なくとも、今日の相手への対処は、こいつの方が遥かに上だった」


シオンが答えた。


「七大英雄は、公に知られる強者の頂点だ。だが、世界にいる強者のすべてが、名を公にしているわけではない」


二人が彼女を見た。


「英雄より強い者は、ほかにもいる。宗一郎は、その一人だ」


アリアの唇が、少し開いた。

凛も、言葉を探すように目を伏せた。


「ちなみに、私はもっと強い」


シオンが付け足した。

宗一郎は彼女を見た。


「今、それを言う必要があるか」


「私がこいつの力量を語れる理由にはなる」


返す言葉がなかった。

アリアは二人を交互に見てから、宗一郎へ向き直った。


「じゃあ、何でBランクなの?」


宗一郎は椅子を引いた。

二人にも座るように言い、自分は卓の向こうへ腰を下ろす。


「Bで、必要な仕事はできる。調べたい遺跡へ入る権限もある」


「上には、行けるんでしょ?」


「行けば、引き受けるものが増える。招集も、責任も。俺には、今の登録で都合がよかった」


アリアは眉を寄せた。

考えながら、宗一郎の顔を見ている。


「でも、実力もBくらいだって……」


宗一郎は、その目を受け止めた。


「そう話したな」


「何で」


長く黙ってから、答えた。


「余計なことに、巻き込みたくなかった」


言ってみると、それだけでは足りないことも分かった。

心配をさせないためだった。

自分の過去へ近づけないためでもあった。

二人との暮らしの中に、戦ってきた時間を、どこまで持ち込めばいいのか分からなかった。


「……どう話せばいいか、分からなかったのもある」


アリアは卓へ目を落とした。


「言ってくれたって、よかったのに」


その声には、怒りよりも、小さな寂しさがあった。

宗一郎は頷いた。


「そうだな」


凛が静かに尋ねた。


「どうしたら、あんなふうに動けるんですか」


「鍛えた。何度も戦って、できないことを直した」


「魔力を、手へ集めていたんですよね」


「ああ。触れる瞬間に、必要なところへ集める。あとは、相手の力を正面から受けないようにする」


凛は、自分の手を見た。

知っている言葉だった。

それでも、その言葉と中庭で見たものの間には、気が遠くなるほどの距離がある。


「……ずっと、練習してきたんですね」


宗一郎は答える前に、少し待った。


「そうだ」


シオンが椅子へ背を預けた。

「武器が勝手に与えた技ではない。相手を見て、魔力を配り、身体を動かす。そのために積み重ねてきたものを、私は知っている」


彼女は年数を言わなかった。

宗一郎が答えられないところへ踏み込まず、答えたことを、軽くも扱わなかった。

その配慮が、ありがたかった。

凛は宗一郎の顔を見つめていた。

強いと分かった。

自分たちが想像していたより、ずっと強い。

それなのに、胸の奥がすべて軽くなったわけではなかった。その手が今のように動くまで、どこで、何と向き合っていたのだろう。

聞いてもよいのか、まだ分からなかった。

アリアが顔を上げた。


「じゃあ、もう怪我しない?」


宗一郎は首を横に振った。


「することはある」


「……そこは、しないって言ってよ」


「嘘になる」


アリアは少し黙り、やがて息を吐いた。


「なら、ちゃんと気をつけて」


「分かった」


「強いからって、何でも平気なわけじゃないんでしょ」


宗一郎は頷いた。

凛も、小さく頷いていた。

二人の目は、まだ何か尋ねたそうだった。

今日の話だけで、知りたいことが尽きたわけではない。

それでも、凛は椅子から立った。


「お茶、淹れますね」


いつものように器を出そうとして、宗一郎の手へもう一度目を向ける。


「宗一郎さん。棚の上のを、取ってもらえますか?」


宗一郎は立ち上がり、高い棚から器を下ろした。

凛はそれを受け取り、卓へ置いた。

離れかけた彼の手に、そっと指を添える。

宗一郎が、彼女を見た。

凛は何も言わず、その手を両手で包んだ。

指は硬く、掌には幾つもの古い傷が残っていた。

今日、槍を弾いていた手。

自分には見えないほどの速さで動いていた手だった。

触れてみると、温かかった。

宗一郎は少し戸惑ったように指を動かし、それから、凛の手を包むように掌を緩めた。

窓から入る初夏の風が、卓の上の布を揺らした。


凛はもう少しだけ、その手を包んでいた。

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