3人の寄り道
新世暦411年 春、進級の頃
冬の名残を含んだ冷たい風が、朝の食卓へ開けた窓から入り込んできた。
けれど、その風の中には、もう雪の匂いはなかった。庭の木々には柔らかな若葉が芽吹き、石塀の隙間からは小さな草花が顔を出している。
遠くでは、春を告げる鳥の声が聞こえていた。
凛は読みかけの紙の端を押さえ、隣のアリアへ少し寄せた。
レガリア魔術学院から配られた、二年生の授業と実習の予定だった。
去年より細かな注意書きが増え、持参する物の欄には、野外で使う道具も並んでいる。
「これ、全部持っていくのかな?」
「実習によって違うみたい。ほら、ここに書いてある」
凛が示した行へアリアが顔を近づける。
宗一郎は焼いたパンを皿へ移しながら、そのやり取りを聞いていた。
二人が学院へ通い始めて、一年になる。
初めの頃は、帰ってくると鞄から書面を出し、自分が目を通すまで待っていた。
今は二人で先に読み、分からないことがあれば尋ねる。
「紐と、雨を防ぐ布。家にあるものでも使えそうだな」
宗一郎が言うと、アリアは紙から顔を上げた。
「でも、宗一郎のは大きすぎない?」
「切ればいい」
「それ、今も使ってるやつでしょ」
「使える部分は残る」
アリアは何か言いたそうに彼を見た後、凛と目を合わせた。
「一回、お店で見てからにしようよ。どれくらいの大きさか、私たちも見たいし」
「そうだな」
返事をして座ると、二人の皿にはまだパンがなかった。
宗一郎は卓上の皿を中央へ寄せた。
「まず食べろ。道具は逃げない」
「宗一郎さんの分も、取っておきますね」
凛が一つ残し、アリアが残りを分けた。
庭の石塀の陰にも、もう雪はなかった。
陽の当たる場所では、淡い緑の草が風に揺れている。
休日の街には、薄手の上着を着た人が増えていた。
通りの並木には小さな葉が開き始め、軒先には春の花を並べた籠が置かれている。
冬の間は閉じていた店もいくつか戸を開け、街全体が長い眠りから目を覚ましたようだった。
行き交う人々の声にも、どこか軽やかな響きがある。
道具屋で買った紐と小さな留め具は、凛の鞄に収まった。
雨を防ぐ布は店主に広げてもらい、二人で端を持って大きさを確かめたものを選んだ。
アリアは、自分の鞄へ入れてもそれほど重くならないことを、何度か持ち上げて確認していた。
「これなら、まだ色々入る」
「必要な物だけにしろ」
「分かってる。お菓子は少しだけ」
宗一郎が顔を向けると、アリアは当然という顔をした。
「休憩、あるんだから」
「食事も出るだろ?」
「それとは別」
凛は笑いながら鞄の留め金を閉じた。
その先で、アリアを呼ぶ声がした。
通りの向こうに学院の友人が二人いて、店の軒下から手を振っている。
「ちょっと行ってくる!ここにいてね!」
アリアは横断する荷車を待ってから、向こうへ渡っていった。
友人たちと話し始めた姿を見届け、宗一郎は隣の店へ目を移した。
窓辺には、色とりどりの布と細い組紐が並んでいた。凛はその一つを見ていたが、宗一郎が視線を向けると、すぐに顔を上げた。
「見たいのか?」
「……少しだけ」
「入るか」
凛は頷きかけて、向こうのアリアを見た。
「でも、ここにいてほしいと言っていましたから」
宗一郎が手を上げると、アリアはこちらを向いた。
店を指すだけで意図は伝わったらしく、分かった、と口を動かして手を振り返す。
「これでいい」
凛は小さく笑い、彼と一緒に扉をくぐった。
店の中には、織物を掛けた棚と、小物の入った浅い箱があった。
窓からの光に糸が艶めき、奥では店主が客のために帯を広げている。
その客の横顔を見たとき、凛は足を止めた。
銀白色の髪が低い位置で束ねられ、背へ長く流れていた。
深い褐色の肌との境目が鮮やかで、髪の間から、細く尖った耳が覗いている。
黒い衣服には銀糸の模様が織り込まれ、腕を動かすたび、枝のような線が光を拾った。
ダークエルフだった。
本で見たことはある。
学院で種族について学んだこともある。
けれど、目の前にいる人の姿は、挿絵を眺めたときとはまるで違った。
店主の説明を聞く静かな横顔も、布の端へ添えた指も、凛には美しく見えた。
宗一郎も動きを止めていた。
ただ、彼は衣服も髪も見ていなかった。
女の腰にある、長い黒の鞘へ一度目を向け、それから顔を見た。
「……シオン」
女が振り向いた。
淡い琥珀色の瞳が宗一郎を捉え、わずかに目が細くなる。
「お前か」
差し出されていた帯を店主へ返し、シオンは彼へ向き直った。
「今度は名前を間違えなかったな」
宗一郎は一拍置いた。
「覚えている」
「前にも聞いた」
それ以上言い返さない彼を見て、シオンは小さく息を吐いた。
その視線が、隣にいる凛へ移る。
凛はまだ彼女を見ていた。
目が合って初めて、自分が挨拶もせずに立っていると気づく。
「あ……すみません」
慌てて頭を下げると、シオンは不思議そうに尋ねた。
「謝るようなことをしたのか?」
「じっと見てしまって。ダークエルフの方にお会いするのは、初めてで……」
そこまで話し、凛は言葉を探した。
種族だけが理由ではなかった。
それを隠す方が失礼な気がして、顔を上げる。
「とても、綺麗でしたから」
シオンは一瞬黙り、それから口元をわずかに緩めた。
「そうか。ありがとう」
落ち着いた返事に、凛の頬が熱くなった。
「凛だ。一緒に暮らしている」
宗一郎の紹介を聞くと、シオンの視線が彼へ戻った。
「お前が?」
「もう一人いる。今、向こうで知人と話している」
シオンは凛の顔を確かめるように見てから、宗一郎へ問いかけた。
「今は、この街に住んでいるのか」
「ああ」
「……なるほど」
その声に何が含まれているのか、凛には分からなかった。
ただ、宗一郎と知り合いだということだけは分かった。
彼に話し掛けるとき、シオンは少しも遠慮をしない。宗一郎も、その率直さを以前から知っているようだった。
店主が奥へ引いたところで、シオンが彼の立ち姿へ目を走らせた。
「時間はあるか。少し、付き合ってほしい」
「今日は二人と出かけている」
「買い物が済んでからでもいい」
「済んでからもだ」
シオンは彼を見た。
宗一郎は視線を逸らさなかった。やがて彼女が頷く。
「分かった。今日は誘わない」
そこで扉が開き、アリアが入ってきた。
「お待たせ。……誰?」
宗一郎が紹介すると、アリアはシオンの顔を見上げ、凛と同じように少し目を丸くした。
それから名を告げ、凛の隣へ収まった。
「宗一郎の、知り合い?」
「そうだ。以前、手合わせをした」
シオンの返事に、アリアの視線が長い鞘へ向かう。
「どっちが勝ったの?」
「私だ」
迷いのない答えだった。
アリアは宗一郎を振り返り、凛も思わず彼を見た。
「そうなんですか?」
「ああ。強かった」
宗一郎は短く答えたが、悔しそうには見えなかった。シオンも勝ち誇る様子はなく、ただ二人の問いに答えた顔をしていた。
「今なら、結果は確かめてみなければ分からないがな」
「今日は確かめない」
「分かっている」
シオンは少しだけ笑った。
凛は、二人の間に何度も言葉にしなくても通じるものがあると感じた。
宗一郎の知らないところを知っている人。
その人が、自分よりずっと大人で、美しい女性であることが、急に気になった。
シオンは取り置きの帯を受け取るため、店の奥へ戻った。
宗一郎たちも用を済ませ、店を出ようとしたところで、彼女が宗一郎を呼び止めた。
「家に伝声水晶はあるか」
「ああ」
「伝言を入れておくから、魔力紋を教えろ」
宗一郎は片手を上げ、指先に小さな簡易魔力紋を浮かべた。
シオンはその紋章へ目を留め、頷いた。
「また会おう」
短く言葉を交わし、宗一郎たちは店を出た。
通りを歩きながら、アリアは何度か後ろを振り返った。
「綺麗な人だったね。あの服も」
「うん」
凛は頷いた。黒い生地に浮かぶ銀の模様と、振り向いたときに流れた長い髪が、まだ目に残っていた。
「あんな長い刀、どうやって抜くんだろう」
アリアが今度は宗一郎へ尋ねる。
彼は鞘を引く動きと身体の向きを、歩きながら簡単に説明した。
アリアは自分の腰へ手を当て、真似をしかけてから、人にぶつかりそうになって手を下ろす。
「家でやれ」
「はーい。後で棒でやってみる。」
凛は二人の会話を聞いていたが、内容は半分ほどしか入ってこなかった。
聞いてみたいことがあった。
けれど、道具や学院の話と同じようには口にできない。
黙っていれば、宗一郎は何も気づかないまま家へ帰るだろう。
通りが少し空いたところで、凛は彼を見上げた。
「……宗一郎さんも、ああいう女性が好きなんですか?」
アリアの足が一瞬遅れた。
宗一郎は凛へ顔を向ける。
「ああいう?」
「シオンさんみたいな……綺麗な方です」
口にしてから、凛は鞄の紐を握り直した。
隣でアリアも黙っている。
「綺麗だとは思うが、好きかどうかは別だ」
宗一郎の返事を聞き、凛はゆっくり頷いた。
「……そうなんですね」
胸の辺りが少し軽くなった。
その後で、ではどんな人を好きになるのだろう、と別の疑問が浮かぶ。
けれど、続けて尋ねる勇気は出なかった。
宗一郎は前を向き、少し歩いてから凛へ目を戻した。
「気になったのか」
「……少し」
声が小さくなった。宗一郎は何か考えているようだったが、凛が視線を落とすと、それ以上は尋ねなかった。
代わりにアリアが、彼の袖を軽く引く。
「宗一郎、もっと冗談とか言った方がいいよ。いつも、ああ、とか、そうか、で終わっちゃうから」
「……そうか」
「ほら!、今も」
凛が小さく笑うと、宗一郎は少し考え込んだ。
何か言いかけたが、そのまま口を閉じる。
二人が歩き出すと、彼も隣へ戻った。
しばらく足音だけが続き、アリアが別の話を始めようとしたところで、宗一郎が口を開いた。
「……では、今日のお菓子は俺が全部食べる」
「それはダメ!。私たちの分も買うんだから!」
すぐに言い返したアリアを見て、宗一郎は笑った。
「冗談だ。三人分、買って帰ろう」
アリアは彼の腕を軽く叩いた。
「もう!。そういうのは、ちゃんと笑って言ってよ!」
「私は、今のは分かりました」
凛が笑いながら言うと、アリアもつられて笑った。
宗一郎は二人の顔を見てから、また並んで歩き出した。
橋の手前で、凛は足を緩めた。
川沿いには露店が並んでいた。
冬の間は閉じていた場所に布の屋根が張られ、焼き菓子や鉢植えが売られている。
小さな青い花を並べた店の前では、子どもが母親の手を引いていた。
橋を渡れば、家へ向かう道に出る。
宗一郎はそちらへ歩きかけたが、袖を引かれて振り返った。
凛の指が、上着の端をつまんでいた。
「待ってください」
彼が足を止めると、凛は川沿いへ目を向けた。
「……もう少し、一緒に見たいです」
宗一郎は露店を見た。
買うべき物は揃っている。
帰ってから急ぐ用事もなかった。
以前なら、それだけを確かめて頷いただろう。
「どこから見たい?」
凛は顔を上げた。
「あの、花のあるところから」
「じゃあ、向こうまで歩こう」
そう答えると、袖をつまんでいた指が離れた。
凛は鞄を持ち直し、彼の隣へ並ぶ。
「ありがとうございます」
アリアはもう焼き菓子の店を見つけていた。
「花の次、あっちにも行こう。実習の分、今日買わなくてもいいけど、どんなのがあるか見ておきたい」
「今日食べる分は、いるんだろう?」
「……いる」
「そうだと思った」
宗一郎が言うと、アリアは少し笑って、先に露店の方へ歩いた。
花の店では、凛が鉢の名前を尋ねた。
店主の説明を聞く間、宗一郎は隣で待っていた。
小さな青い花は、陽の当たる窓辺に置けば長く咲くのだという。
凛は一つ選び、宗一郎に見せた。
「家の窓に、置いてもいいですか?」
「ああ。箱のそばなら、日も当たる」
「雨の箱ですか?」
「毎朝見ているだろう。水をやるのも忘れない」
凛は鉢と宗一郎の顔を交互に見て、笑った。
「箱を見なくても、ちゃんとお世話します」
「それなら任せる」
鉢を包んでもらい、次の店へ向かった。
アリアは焼き菓子を三つ選んで待っていた。
宗一郎にも選んだものを見せ、これでいいかと尋ねる。
「俺の分もあるのか」
「あるよ。三人で来たんだから」
包みを受け取ると、凛が宗一郎を見上げた。
「宗一郎さんは、どれがいいですか?」
「残ったものでいい」
二人が揃って彼を見たので、宗一郎は包みの中を覗き直した。
「……では、それにする。木の実が入っているもの」
「私も、それが気になっていました」
凛が言うと、宗一郎は少し考えた。
「半分ずつにするか」
「いいんですか?」
「お前の分も、半分もらう」
「はい。それなら、二つ食べられますね」
川沿いの空いた長椅子へ三人で座った。
鉢を倒さないよう凛の鞄のそばへ置き、菓子の包みを広げる。
宗一郎は木の実の入ったものを二つに割り、大きい方を凛へ渡した。
凛も自分の菓子を分け、彼の手へ置いた。
隣に座る彼の腕に、傷は見えなかった。
けれど、シオンが勝ったと言ったときのことを思い出す。
凛の知っている宗一郎は、重い荷物を苦もなく持ち、道具の使い方にも詳しく、困ればいつも助けてくれた。
その人にも、敵わない相手がいた。
「宗一郎さん」
「どうした」
「お仕事のときも、無理はしないでくださいね」
宗一郎の手が止まった。
少し離れて、アリアも彼を見た。
「シオンの話か」
凛は頷いた。
「強い方なのは分かっています。でも、怪我をしないわけではありませんから」
宗一郎は菓子へ目を落とした。
無理をしていないと言えば、二人は安心するだろうか。
仕事によっては、そう言い切れないこともあった。
「危ないと思ったときは、引き返すようにする」
アリアが少し身を乗り出す。
「本当に?」
「ああ。それに、遠くへ行くときは、先に話す。何をしに行くのかも」
冬に交わした約束を、彼は覚えていた。
「帰ってから話せることまで、黙っている必要はないからな」
凛は彼の顔を見た。
それから、小さく頷く。
「聞きたいです。宗一郎さんのお話」
「私も。学院の話ばっかりじゃなくて」
アリアが言い添えると、宗一郎は二人を見て、手に持っていた菓子を一口食べた。
「では、今日は俺から話すか」
「今?」
「昔、雨を防ぐ布の張り方を間違えたことがある」
アリアの眉が上がった。
「宗一郎でも?」
「寝ている間に水が溜まって、朝、顔へ落ちてきた」
凛は彼の顔を見つめたまま、一度瞬きをした。
アリアが先に笑い出し、それにつられて凛も笑った。
「ちゃんと、目は覚めましたか?」
「一瞬でな。お前たちも気をつけろ」
「それ、実習の前に聞けてよかった」
アリアが笑いながら言った。
宗一郎は、雨水の逃げ道を作るにはどこを高くすればいいのか、今度は少し詳しく話した。
二人は時々尋ね、彼はそのたびに答えた。
話し終えた頃には、凛の菓子は半分になっていた。川面へ目を向けると、光が細かく揺れている。
すぐに家へ帰っていたら、ここで聞けなかった話だった。
「……一緒に来てくれて、ありがとうございます」
凛が言うと、宗一郎は彼女を見た。
「俺も、来てよかった」
凛は少し驚き、それから笑った。
帰り道では、鉢を宗一郎が持った。
凛とアリアは両側を歩き、どの窓へ置けば青い花が一番よく見えるか、話していた。
アリアが「食卓から見えるところ」と言い、凛が「宗一郎さんの席からも」と付け加える。
「家で確かめよう。三人の席から見える場所がいいな」
宗一郎が言うと、二人は頷いた。
アリアが窓辺の棚を思い出し、凛が花を置けるように片づけようと答える。
宗一郎も、その棚なら鉢が倒れないようにできると話に加わった。
三人の影が、春の道に並んで伸びていた。




