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雨の降る箱

新世暦411年 年明け、雪の残る頃


窓の外で屋根から雪が落ち、鈍い音がした。

軒先からは、解けた雪の雫が一定の間隔で落ちている。

庭の中央には土が見え始めていたが、石塀の陰には、まだ厚い白が残っていた。


宗一郎は食卓で、ギルドから届いた書面を読み直していた。

銀製の小箱。

蓋を開くと内部に街並みが見え、継続的な降雨が認められる。


その記述へ指を置き、以前見た箱を思い出す。

記録には橋の本数も家の形もなく、同じものと断定するには足りなかったが、確かめる価値はあった。

続いて移送先の施設名へ目を移すと、宗一郎は椅子の背へ身体を預けた。

陸路なら、天候がよくても何週間かかかる場所だった。

転移魔法陣を使えば大幅に短縮できるものの、到着した先からも歩かなければならない。

順調なら二日、探索に手間取れば三日ほど家を空けることになるだろう。

書面の脇の杯を取った。

考えている間に、茶はすっかり冷めていた。


「また、寝ちゃう?」


顔を上げると、向かいにアリアが立っていた。

洗った器を拭き終えたらしく、手には畳みかけの布巾がある。


「……寝ていない」


「この前も、そう言ってた」


洗い場から凛の小さな笑い声が聞こえた。

宗一郎は杯を置き、二人を見た。

年越しの夜のことは、しばらく忘れてもらえそうになかった。


あの夜、宗一郎は久しぶりに酒を飲んだ。

翌日は仕事もなく、外へ出る用事もなかった。

夕食の後、店で勧められた瓶を開け、凛とアリアには蜂蜜を少し入れた温かい飲み物を用意した。

二人は新年の鐘を聞くのだと言って、いつもより遅くまで暖炉の前に座っていた。


話題は、ほとんど学院のことだった。

教室を間違えて別の学年の授業に座っていた友人の話から、焼き菓子を分けるとき、誰が一番大きなものを取ったかという話になる。

アリアが話し、凛が補い、どちらの記憶が正しいか分からなくなって、二人で笑った。

宗一郎はその声を聞きながら、話の切れ目に杯へ酒を注いだ。

味は悪くなく、身体が温まるにつれて、椅子の背が普段よりも深く感じられた。


「宗一郎さん、眠くありませんか」


凛に尋ねられ、眠くはないと答えた。

そこまでは覚えている。

次に目を開けたときには暖炉の火が小さくなり、膝には毛布が掛かっていた。

凛とアリアは隣の長椅子にいて、宗一郎が顔を上げると、すぐに目を見合わせた。


「……鳴ったか」


「とっくに。起こしたのに、うん、って言っただけだった」


アリアの返事を聞き、宗一郎は壁の時計を見た。

新年の鐘は、随分前に鳴り終わっていたらしい。


「ちゃんと、返事はしてくださいました」


凛は笑いをこらえるように杯を両手で持っていた。


「返事だけね」


アリアが言い添え、凛もとうとう笑った。

宗一郎は毛布へ目を落とした。

酒を飲んだことも、酔ったこともある。

だが、人のいる部屋で、毛布を掛けられたことにも気づかず眠った記憶は、ほとんどなかった。


眠る前には戸口を確認し、武器の位置を確かめ、近くにいる者の気配を意識から外さない。

それは長い年月の中で習慣になり、いちいち考えるまでもなく行っていたはずだった。

あの夜は、火の音と二人の声を聞いているうちに、そのまま目を閉じてしまった。


「お酒、弱いんだ」


「弱くはない」


「でも寝た」


返す言葉がなく、宗一郎は毛布を畳んだ。

凛が立ち上がり、温め直した茶を差し出す。


「今年も、よろしくお願いします」


杯を受け取り、二人へ頷いた。失敗だったとは思う。それでも、目の前で笑う二人を見ていると、思っていたほど嫌な気分にはならなかった。


二人と暮らすようになってから、以前ならしなかったことが増えている。

買い物へ出たのに言われた品を一つ忘れ、家まで戻ってから凛に教えられたこともあった。

頭の中でアリアの好きな菓子を思い浮かべていたせいだったが、それを言えば余計に笑われそうで、黙って買い直しに行った。

注意が散漫になったのだろうか。

そう考えても、仕事へ出れば以前と同じように周囲が見えた。

変わるのは、この家にいるときや、二人のことを考えているときだった。


「少し、遠くへ行く」


宗一郎が言うと、アリアの手が止まった。洗い場にいた凛も振り返る。


「仕事?」


「探索だ。ギルドから手掛かりが来た」


嘘ではなかったが、その言葉だけでは、伝えていないことの方が多かった。


「明日の朝に出る。二、三日は家を空けると思う」


アリアは拭いていた器を棚へ戻した。

さっきまで顔に浮かんでいた笑いが消えていた。

凛も手の水気を拭き、食卓のそばまで来ると、畳まれた書面へ目を落とした。


「三日くらいで、戻られますか」


「そのつもりだ。長引くと分かったら、連絡を入れる」


凛は頷いたものの、すぐには離れなかった。

アリアも黙っている。

数日留守にすることは、これまでにもあった。

二人も仕事だと理解しているはずだったが、その理解によって寂しさまで消えるわけではないらしい。


「雪道、危ないんでしょ。気をつけてね」


「ああ」


「危険なところですか?」


凛の問いに、宗一郎は少し考えた。

記録上はBランクに探索許可の出ている区域で、最近の調査でも大きな異常は報告されていない。

ただ、古い遺跡に危険がないとは言えなかった。


「許可の出ている場所だ。無理はしない」


二人はそれ以上尋ねなかった。

納得したというより、聞きたいことを残したまま引いたように見えた。


宗一郎は書面を畳み、鞄へ収めた。

箱のことは、持ち帰ってから話そうと思っていた。

まだ見つかると決まったわけではない。

期待させて何もなかったと伝えるより、実物を見せてやる方がよい。

その判断が、二人の顔を見た後も変わることはなかった。


翌朝、玄関には二人がいた。

まだ眠っているだろうと思っていたが、凛は小さな包みを用意し、アリアは宗一郎の上着の留め具を見ていた。


「パンです。途中で、召し上がってください」


「ありがとう」


受け取ると、布越しに少し温かかった。

鞄へ収めて戸口へ向き直ろうとしたところで、アリアが首元へ手を伸ばした。


「ここ、出てる」


深い青のマフラーの端を、上着の内側へ押し込む。

宗一郎は黙って、整え終わるのを待った。 贈られてから、出かけるときには欠かさず着けていた。

巻くことにも慣れたつもりだったが、二人から見れば、まだ直すところがあるらしい。

凛も隣から布の折り目を伸ばし、手を離した。


「……よかった。着けてくださって」


「使うと言っただろう」


「はい」


凛の笑顔を見ているうちに、箱を覗き込む二人の姿が浮かんだ。

アリアが先に質問し、凛が橋や家を一つずつ確かめる。

雨の音が聞こえると知れば、どちらも顔を近づけるはずだった。

夜まで待ち、窓に灯りがつくところも見せたい。


「何? 今、笑った?」


アリアに言われ、宗一郎は自分の口元が緩んでいたことに気づいた。


「そうか?」


曖昧に返すと、アリアは不思議そうに眉を寄せた。

以前なら、所在も分からない箱へ金を払って調査を依頼することも、それを探すために遠くへ行くこともなかった。

何に使えるか分からず、戦う役にも立たないものを手に入れても、やるべきことは進まない。

そう判断して、それ以上考えなかっただろう。

それなのに、箱の話をした夜の二人の顔は、いつまでも記憶に残っていた。

人は住んでいるのか、雨の音はするのか、灯りはどこにつくのか。

質問するたび、二人の中で景色が広がっていくのが分かった。

答えを聞くだけでは足りないのだろうと思い、それなら実際に見せてやりたくなった。

そのために動く自分を、以前の自分なら理解しなかったかもしれない。

だが、今は、見つかったときの二人の顔を想像するだけで、旅へ出る理由として十分だった。


「行ってくる」


「うん、行ってらっしゃい!」


二人の声を聞いて扉を開けると、冷えた空気が頬に触れた。

首元には、二人が整えてくれた布の温かさが残っていた。



転移魔法陣は、街から少し離れた管理施設の地下にあった。

建物より魔法陣の方が古く、遺跡で発見されたものの周囲に壁と屋根を設け、そのまま使用している。

床に刻まれた幾重もの円には、今の術式にも見られる文字と、読み方の分からない記号が混じっていた。

係員が許可証と目的地を照合し、布に包んだゼルグレアと鞄へ目を向けた。


「荷物は、これだけですか?」


「ああ」


確認が済むと、宗一郎は円の中央へ進んだ。

自分で転移魔法を使うわけではない。

転移を扱える魔法使いはごく少数で、習得に要する学習も、消費する魔力も大きい。

遠方へ移動する者の多くは、こうした既存の魔法陣に頼っていた。

便利ではあるが、人間がその仕組みをすべて理解しているとは言い難い。

行き先と違う場所へ送られた者の話を、宗一郎も聞いたことがある。

戻らなかった者もいた。

床の光を見下ろし、足の位置を確かめながら、使用前の確認を省いてはいけない理由を思った。

係員が下がり、円の外側から順に光が強くなった。

一瞬、周囲の音が遠のき、身体が落ちるような感覚がした。

足裏へ重さが戻る頃には、空気の匂いが変わっていた。

湿った石と古い埃の匂いがする。

目の前には低い天井があり、壁際の灯具が魔法陣を淡く照らしていた。

転移先の遺跡は、使用する部屋と通路の一部だけが整えられ、奥には、長く開けられていないような扉が残っていた。


宗一郎は地図を出した。

階段を上がれば地上へ出られる。

そこから東へ進み、谷を越えた先が、箱の移送先になっていた施設だった。


歩き出しかけて、足が止まった。

右手の通路が気になった。

音も、人の気配もなく、確かめる用事もない。

それでも、灯りの届かない奥へ目を向けると、通り過ぎてよいと思えなかった。

宗一郎は出口の階段を見てから、布に包んだ武器へ目を落とした。


こういうことが、ときどきある。


別の道を行くはずなのに、何もない暗がりを確かめたくなる。

その先で見つかるものも、経験から知っていた。


「……お前か」


小さく言ってみたが、返事はなかった。

ゼルグレアが何を知り、どのように自分へ伝えているのかは分からない。

そもそも、この感覚が武器の働きなのかも確かめたことはなかった。

だが、無視して通り過ぎるには、これまでの経験が多すぎた。


地図をしまい、右の通路へ入る。

管理された場所を離れてしばらく進むと、壁の継ぎ目で光が曲がって見えた。

空気が重く、周囲の魔素が落ち着かない。

この先で何かが現れれば、転移室まで続く道がある。さらに、その先には地上への出口があった。

放って目的地へ向かう気にはなれなかった。

宗一郎は鞄を下ろし、首からマフラーを外した。

丁寧に畳んで凛の包みの隣へ収め、その上から乾いた布をかぶせる。

鞄を通路の折れた先へ移してから、ゼルグレアを包む布を解いた。


薄暗い通路へ、漆黒の武器が現れた。

長さは宗一郎の身長ほどあり、重さは百キロほどある。

剣と呼んではいるが、普通の剣にあるような刃はなかった。

歪な円柱に近い主軸には、硬い殻を幾重にも重ねたような起伏が走り、手元に近い位置から伸びた長い鍔が、全体を十字架のように見せていた。


宗一郎は柄を握り直し、身体へ魔力を巡らせた。

重さを支える背と腰、足場を捉える脚、武器を振る腕へと、必要な力を配分していく。

一度に全身を同じ強さで覆う必要はない。

動作に合わせて送り込む場所と量を変えることが、身体への負担も、魔力の浪費も抑えた。

その操作を意識するより早く行えるようになるまで、長い時間がかかった。

ゼルグレアが強力であっても、それを相手へ届かせる動きまで代わってくれるわけではなかった。


通路の奥には、柱の並ぶ広い地下室があった。

沈んだ床の上に細い筋が走り、それが縦に広がるにつれて、向こうの壁が見えなくなった。

暗がりの奥に何があるのかは分からない。ただ、現世の空間が裂けていく、その縁だけが見えた。


混沌淵だった。


裂け目へ白い指が掛かり、長さの違う何本もの指が空間の縁を押し広げた。

続いて現れた頭部には、縦に割れた顔の両側に小さな眼が並んでいる。

灰色の胸部装甲の下では赤黒い組織が脈打ち、左右で高さの違う肩から、長い腕が垂れていた。

異形が床へ降りたとき、ゼルグレアの中心で閉じていた筋が開き、赤い眼が現れた。


宗一郎の内側に、よく知る衝動が生まれた。


倒さなければならない。


街へ出れば人が死ぬことは分かっていたが、その理由を考える前から、目の前の存在を残してはならないという判断があった。

なぜそこまで強く思うのかを、宗一郎自身にも説明できなかった。

邪神の腕が動き、柱が砕けた。

宗一郎は横へ避けながら距離を詰め、ゼルグレアを膝へ叩きつけた。

衝撃で床が割れ、相手の身体は傾いたものの、装甲は崩れなかった。

胸の裂け目から細い筋が広がり、床の石を引き剥がし始める。

宗一郎は一度間合いを外し、追ってくる腕を柱の向こうへ誘った。

そのとき、柄を握る手に僅かな振動が伝わった。

ゼルグレアの表面に亀裂が走り、奥から赤い光が漏れていた。


この武器は、強い敵に向き合うほど熱を増す。

宗一郎が魔力を流せば好きなだけ燃えるわけではなく、怒りや気合で温度を決めることもできなかった。何を測り、どこまで熱を上げるのかは、ゼルグレアが判断しているようだった。

宗一郎に分かるのは、これまでの戦いで同じ反応を何度も見てきたということだけだった。


亀裂から炎が噴き出すと、黒い主軸の輪郭が赤く縁取られた。

宗一郎は踏み込み、振り下ろされる腕を武器で受けた。

衝撃が肩まで届いたが、今度は、触れた白い指の表面が黒く崩れ、その内側まで焼け落ちた。

ゼルグレアには物理的な刃がない。

普段は重い塊として相手を砕く武器だが、熱を帯びた状態では、その熱が刃の代わりになった。

殴打では壊せなかった装甲も、触れた箇所から焼け、融け、断たれていく。

普通の炎とは違う。

武器に触れた柱の断面は赤く崩れ、足元には融けた石が残っていた。

それなのに、柄を握る手は焼けず、近くにある上着の袖も燃えなかった。

熱は一様に広がっているのではなかった。

ゼルグレアは、焼く場所と焼かない場所を選び、強烈な熱を必要な範囲へ留めている。

どのように封じているのかは知らないが、その働きがなければ、宗一郎自身もこの武器を振れなかっただろう。


さらに敵が動くと、亀裂から漏れる光は明るさを増した。

宗一郎は、その熱の上がり方に終わりを見たことがなかった。

ただ、それは望んだ瞬間にどんなものでも焼けるという意味ではない。

熱が高まるまでの間を持ちこたえ、その力が届く位置へ入るのは、宗一郎の仕事だった。


残った腕が迫る。

宗一郎はその動きを外へ流し、邪神の懐へ踏み込んだ。

脚から腰、腕へと魔力の配分を切り替え、燃える主軸を胸へ突き入れる。

装甲は一瞬だけ押し戻したが、熱に耐えられず、内側から崩れた。

宗一郎が武器を引き上げると、胸から肩まで裂け目が走り、邪神は床へ膝をついた。

なお動こうとする頭部へ最後の一撃を落とすと、並んだ眼から動きが消えた。

宗一郎はすぐには武器を下ろさなかった。

赤黒い組織の収縮が止まり、背後の混沌淵が細くなっていくのを見届ける。

裂け目が完全に閉じ、向こうの壁が再び見えるようになってから、ようやく息を整えた。

肩を動かすと痛みがあった。

指は開閉でき、骨を折った感触もない。

武器の炎が小さくなっても、床の残熱まではなくならず、融けた石の上で空気が揺れていた。

宗一郎はそこを避けながら通路へ戻った。


何度倒しても、また現れる。

これまでは、そのことを考えても、次を探せばよいと思っていた。

今は、三日くらいで戻るかと尋ねた凛の顔と、気をつけてと言ったアリアの声が浮かんだ。

鞄のそばで足を止め、焼けた石の匂いが薄れていくのを待った。


まだ箱を見つけていない。

だが、目的を果たすことだけでなく、約束した頃に家へ戻ることも、気になっていた。


転移室の管理員へ奥の部屋で起きたことを伝え、確認のために足を止めているうちに、時間が過ぎた。

地上へ出た頃には日が傾き始め、谷へ続く道の陰が長くなっていた。

今日中に目的地まで進むのはやめた。

地図に記された古い宿営所へ向かうと、屋根は半分しか残っていなかったが、風を避ける壁はあった。

宗一郎は火を起こして水を温め、鞄を開いた。

青い布が見える。煤を拭った手で取り出して確かめると、マフラーに傷みはなかった。

首へ巻き直してから、凛の包みを開いた。

パンには肉と野菜が挟まれ、食べやすいように一つずつ紙で分けられていた。

もう温かくはなかったが、朝、これを用意していた凛の姿を思い浮かべることはできた。

その隣で、アリアは自分の上着を見ていた。

一つを食べ終えると、残りを包み直した。

普段なら食べられれば十分だと思う。

それなのに、紙の折り目や挟まれた具の量まで目に留まり、凛がどれくらい早く起きたのだろうと考えた。

家では、今頃、夕食の支度をしているはずだった。

自分のいない食卓で、二人は何を話すのだろう。 学院の話か、雪の話か。

それとも、今日は静かなまま食べているのだろうか。

確かめようのないことを考えながら、宗一郎は火へ薪を足した。


遠くで雪解けの水が流れ、壁の向こうを冷たい風が通っている。

目を閉じても、今度は周囲の音も気配も意識から外れなかった。


施設には、翌日の午前中に着いた。

谷を越えた先に、斜面へ埋もれるような建物があった。

正面の階段には雪が残り、扉の片側は地面へ倒れている。

中へ入ると、机と棚の並ぶ部屋が続いていた。

人が働いていた跡はあるが、何を調べ、なぜ去ったのかまでは分からなかった。


宗一郎はギルドから受け取った見取り図を広げ、地階へ向かった。

階段の一部が崩れていたため足場を確かめ、下りた先で番号のついた扉を順に探す。

目当ての収蔵室は、奥から二つ目にあった。

錆びた掛け金を外して扉を押すと、倒れた棚と割れた木箱が見えた。

床には金属の輪や透明な筒、用途の分からない器が散らばっていた。


宗一郎は鞄を置き、一つずつ確かめ始めた。

似た大きさの箱は幾つかあったが、開けてみても空か、材質の分からない欠片が入っているだけだった。記録の部屋はここで間違いない。

だが、記録されたまま残っているとは限らなかった。

昼を過ぎた頃、倒れた棚を移して下へ手を差し入れると、冷たい金属が指に触れた。


引き出したものは掌に収まる小箱で、銀色の表面には埃が積もっていた。

布で拭くと、蓋の端に細い模様が現れた。

その模様を見た瞬間、宗一郎は以前開けたときの音まで思い出した。

留め具へ指を掛け、ゆっくり蓋を持ち上げる。


雨が降っていた。


小さな家々の屋根を水が滑り、細い路地が灰色に濡れていた。

石の橋の下には川が流れ、水面には無数の輪が生まれている。

耳を近づければ、小さな雨音まで聞こえた。

以前と同じだった。

道に人影はなく、橋を渡る者もいない。

それなのに、家の軒先には布が掛かり、風に揺れていた。


宗一郎はしばらく見入ってから、箱を傾けないよう持ち直した。

二人が夢中になって覗けば、手元がおろそかになるかもしれない。

家では机の上へ置き、落ち着いて見せた方がよさそうだった。

夜には灯りがつく。

それまで、三人で待っていればよい。

蓋を閉じると雨音が消えた。

宗一郎は持参した布へ箱を載せ、留め具や表面を確かめた。

以前と違う反応はないか、熱を発したり、外へ水が漏れたりしないかを見ておく。

分からないものを、見つかったというだけで二人へ渡すわけにはいかなかった。

最初は自分が開け、目の届くところで見せる。

そのつもりで布に包み、鞄へ収めた。


所在調査と回収の費用は宗一郎が負担し、所有権に問題がないと確認できた品は、手続きを経て引き渡される取り決めになっている。

持ち帰って最後の確認を受ける必要はあるが、二人へ見せられるところまで来ていた。

宗一郎は鞄の口を閉じた。

口元が緩んでいたことには、今度は自分で気づいた。部屋に人はいなかったので、すぐには戻さず、そのまま少し笑っていた。


施設を出る頃には、谷の向こうに夕暮れの色があった。

暗くなる前に宿営所まで戻り、翌朝、転移遺跡へ向かう。

帰り道を確かめてから歩き出すと、鞄の重さが、往路とは少し違って感じられた。


三日目、ミナスティリスへ戻ったときには午後になっていた。

転移前の場所で報告の確認を受け、帰還後にはギルドへ寄った。

箱を記録と照合してもらい、取り決めに沿った引き渡しを済ませると、宗一郎は家へ続く道を歩いた。

雪は出発した日よりも少なくなっていた。 橋の陰に残った氷を避け、住宅地へ入る。

庭の石塀が見えたところで、家の窓に人影があるのに気づいた。


凛だった。

硝子の向こうで顔が上がり、宗一郎が手を上げるより先に、その姿が窓から消えた。

玄関の扉が開き、アリアが飛び出してきた。

凛もすぐ後に続く。

どちらも上着を着ていなかった。


「宗一郎!」


いつもより高いアリアの声がした。

二人は石塀の入口を抜け、こちらへ駆けてくる。


「走ると――」


滑るぞ、と言い終える前に、アリアが腕へ手を掛けた。

指に強い力が入っていた。

反対側へ来た凛も息を乱しながら、こちらを見上げた。


「お帰りなさい!」


「ただいま」


凛の目が顔から肩へ、手へと動いた。

アリアも上着の袖を見ている。


「怪我は?」


「大したものはない」


「もう!大したものは、って何!?」


「肩を少し痛めた。動く」


アリアの指が緩んだ。

離れるかと思ったが、袖を持ち直し、そのまま宗一郎のそばにいた。

凛も何か言いたそうに見上げている。

予定の範囲で戻り、箱も見つけた。

それを伝えればよいはずなのに、二人の顔を見ていると、先に言うことがあるような気がした。

しかし、うまく見つからず、宗一郎は家へ目を向けた。


「寒いだろう。中へ入ろう」


二人は頷いた。

家までの短い道を、宗一郎は両側から袖を持たれたまま歩いた。


風呂へ入ると、肩の張りが少し緩んだ。

着替えて階下へ戻れば、食卓には温かいスープがあり、凛が器を置いていた。

アリアはパンを切りながらこちらを確かめ、宗一郎が座ると、二人も近くの席へ腰を下ろした。

食事の間、遠かったか、雪は多かったか、ちゃんと食べたかと尋ねられた。

宗一郎は聞かれたことへ答え、凛のパンを食べたことも伝えた。


「助かった。食べやすかった」


凛の表情が少し明るくなった。

アリアは椅子の背へ掛けたマフラーを見て、指で端に触れた。


「汚れてないね」


「……外してしまっていた」


「……そう」


それ以上は聞かなかったが、布を確かめる手つきには、少し安堵した様子があった。

器を片づけ終える頃には、外が暗くなり始めていた。宗一郎は鞄を取りに行き、箱を包んだ布を食卓へ置いた。


「見せたいものがある」


二人が顔を上げた。

布を開くと銀の箱が現れ、アリアが僅かに身を乗り出した。凛は箱と宗一郎を交互に見ていた。


「……それ」


「以前、話しただろう。雨の降る箱だ」


宗一郎が蓋を開くと、小さな雨音が食卓へ広がった。

二人は黙った。

驚いているのだろうと思い、宗一郎もしばらく待った。

街が見えやすい角度へ箱を動かすと、アリアの目が屋根を追い、凛は橋の辺りを見つめた。

だが、すぐに二人とも、また宗一郎へ顔を向けた。


「これを……探しに行ったんですか?」


「ああ」


「仕事って、これ?」


アリアの声は小さかった。


「ギルドへ所在を調べてもらっていた。年明けに記録が見つかったから、確かめに行った」


アリアは口を開きかけ、何も言わず閉じた。

凛の手は膝の上で重なり、その指が一度、握り直された。


想像していた反応とは違った。


もっと箱へ顔を近づけ、聞きたいことを次々に尋ねると思っていた。

だが、二人は箱よりも宗一郎を見ていた。

その沈黙の理由が分からず、宗一郎は問いかけた。


「……もう、興味がなかったか…?」


「違うよ!。そうじゃない!」


アリアはすぐに答え、凛も首を振った。


「三日も、これを探してたの?」


「移動と、探索に時間がかかった」


「私たちが、見たいって言ったから?」


宗一郎は頷いた。


「見せたかった」


答えると、部屋が静かになった。

雨音だけが聞こえ、凛はゆっくり顔を伏せた。

アリアはまだこちらを見ていたが、その目から問い詰めるような強さが消えていた。


宗一郎は箱へ目を落とした。

あの話をしてから随分時間が経っている。

自分が覚えているからといって、二人が今も同じ気持ちでいるとは限らなかった。

そもそも二人は、持ち帰ってほしいと頼んだわけではない。

自分が喜ぶ顔を見たくなり、勝手に探しに行ったのだった。


「……すまない」


二人の顔が上がった。


「…何で、謝るの?」


アリアの声には、はっきりと驚きがあった。

宗一郎は少し考え、うまく説明できないまま答えた。


「喜ぶと思っていた」


「嬉しいよ!。嬉しいに、決まってるでしょ!」


アリアはそう言ったが、終わりに近づくほど声が揺れた。

凛も両手を食卓へ置き、箱のすぐそばまで指を伸ばした。


「覚えていてくださったんですね。あのときの話を」


「ああ」


凛は唇を結んだ。

笑おうとしているように見えたが、すぐには笑顔にならなかった。


「私、そんなふうに探しに行ってくださるとは、思っていませんでした」


宗一郎は返事を探した。

見せたいと思ったから探した。

それ以上の理由はなかったし、その理由を隠すつもりもなかった。

だが、今は、同じ説明を繰り返せばよいわけではないと感じていた。


「三日って、長いんだから……」


アリアが言った。


「予定よりは――」


言いかけて、止めた。

予定より長くはなかったと言っても、アリアの言葉への答えにはならない。

こちらの顔を見上げる目には、仕事の日数を確かめたいという様子はなかった。


「毎日、外、見てた」


凛が隣へ顔を向けた。

アリアは目を伏せたが、言い直さなかった。


「今日だけじゃない。昨日も、一昨日も」


宗一郎は窓を見た。

帰ってきたとき、凛が立っていた場所からは、石塀の入口と家へ続く道が見える。

昨日も一昨日も、二人はそこから外を見ていた。

三日ほど留守にすると伝えてあっても、早く帰ってくるかもしれないと思い、その道を確かめていたのだろう。


自分は移動して、戦い、箱を探していた。

時間は、やることに埋まっていた。

二人には、その間の自分が見えない。

どこまで進んだかも、何をしているかも分からないまま、家に戻る姿だけを待っていた。

箱が見つかれば喜ぶと思い、見つけてから話せばよいと考えていた。

その前に、自分がいない家で過ごす二人のことを、十分には考えていなかった。


「先に、話すべきだったな」


宗一郎は二人へ目を戻した。


「見つかるか分からなかったから、持って帰ってからと思った。心配をかけた」


アリアは黙り、凛の目は少し潤んで見えた。

宗一郎はまた何か間違えたかと思ったが、凛は首を振り、静かに息を整えた。


「……帰ってきてくださって、よかったです」


箱を手に入れたことより先に、自分が帰ってきたことを喜ばれている。

その言葉を聞いて、宗一郎はようやく、二人が玄関から駆けてきた理由を受け止めた。


「ああ」


短く答えると、凛は小さく息を吐き、ようやく笑った。

いつものように穏やかな笑顔だったが、こちらを見る目はどこか違っていた。

宗一郎が目を合わせても、すぐには逸らさない。

嬉しさに加えて、何かを決めたような静けさがあった。


その意味を考える前に、アリアが袖を引いた。


「次は、言って。私たちのことなら、私たちにも」


「分かった」


宗一郎が頷くと、アリアの指が袖を離れた。

ただ、その手はすぐには膝へ戻らず、宗一郎の手首のそばに残っていた。

顔を向けると、アリアは視線を逸らした。


耳の辺りが赤い。

何か言い残したように唇が動いたが、言葉にはならなかった。

宗一郎は急かさずに待った。

やがてアリアは箱へ顔を向け、その縁を眺め始めた。


「……橋。本当に、石でできているんですね」


凛が箱へ顔を近づけると、アリアも隣から覗き込んだ。


「水、ちゃんと流れてる。どこへ行くんだろう」


川を追っていくと、流れは箱の縁に近い建物の陰へ消えていた。

凛は軒先の布へ目を移し、不思議そうに首を傾けた。


「ずっと雨が降っているなら、乾きませんね」


「それ、前にも考えた。誰が干したんだろうって」


宗一郎は二人の横顔を見た。

忘れていなかった。

あの夜、自分に尋ねたことを、二人も覚えていた。

興味がなくなったのかと考えた自分が、少しおかしく思えた。


「宗一郎、これ、触ってもいいの?」


アリアの指は箱の外側で止まっていた。


「外側だけだ。中へ物を入れるな。分からないところは、触る前に聞け」


「うん」


許可を待って、アリアは銀の縁へそっと指を置いた。宗一郎は、二人がゼルグレアの布をめくった日のことを思い出した。

今も好奇心は強い。

だが、今は尋ねてから手を伸ばす。

その違いが、宗一郎には嬉しかった。


「雨、こっちには出てこないんですね」


「見ていた限りではな」


「蓋の裏も、濡れてない」


アリアが上を覗いた。

凛は川と屋根を交互に見て、降った水がどこへ戻るのかを考えているようだった。


模型なのか、どこかの景色を映しているのか、本当に別の街へつながっているのか。

宗一郎に答えられるのは、以前見たことと、今回確かめたことだけだった。

分からないと答えても、二人は話をやめず、そこから自分たちで考え始めた。


やがて、家の窓の一つに灯りがついた。


「アリア、あそこ」


「見えた」


細い路地の奥で、二階の窓が淡い黄色になっていた。少し待つと橋の近くにも灯りがつき、雨に濡れた道へ小さな光が落ちた。

アリアは両肘を食卓へつきかけて身体を起こし、凛は椅子を少し寄せた。

宗一郎も箱の近くへ座り直す。


「……きれい」


凛が言い、アリアが頷いた。

その表情を見て、宗一郎はようやく、探しに行ってよかったと思えた。

ただ、玄関で二人が袖を持ったことも、毎日窓から見ていたと聞いたことも、もう忘れられなかった。

次に遠くへ行くときは、何をしに行くのか、もう少し話そうと思った。

答えられないことはある。

それでも、話さずに済ませることを、当たり前にはしない方がよかった。


「宗一郎さん、ありがとうございます」


凛がこちらを見た。


「見つかって、よかった」


そう答えても、凛はすぐに箱へ視線を戻さなかった。何かを言いかけるように唇が動き、それから静かに閉じる。

代わりに、椅子の距離が少し近くなった。

反対側でアリアも椅子を引き、箱を覗き込んだ。


「私も、見たいんだから」


誰に言うでもない声だった。

宗一郎は箱を三人の中央へ置き直した。


「ここなら、見えるか?」


「うん」


凛も頷き、その後はしばらく誰も話さなかった。

雨音がしていた。

誰も歩かない街に灯りが増え、そのたびに、どちらかが先に気づいてもう一人へ教える。

宗一郎にも見えたかと尋ね、彼が頷くと、満足そうにまた箱の中を見た。


以前、一人で眺めたときも不思議だとは思った。

夜になるまで待ち、窓に灯りがつくところも見た。

だが、見終えればそれで終わり、箱を置いて先へ進んだ。

今は、一つ窓が明るくなるだけで、隣にいる二人の表情が変わる。

その変化に気づくたび、宗一郎も次の灯りを待ちたくなった。

椅子の背には青いマフラーが掛かっていた。

出発した朝と同じ場所だったが、今は手に取って首へ巻く必要がない。

明日は家にいる。そう考えたところで、アリアが顔を上げた。


「明日は?」


「出かけない」


「一日、ですか?」


凛にも尋ねられ、宗一郎は頷いた。

二人の肩から、少し力が抜けた。


「じゃあ、朝も見よう。どこから明るくなるのか」


「雨も、同じでしょうか?」


宗一郎には分からなかった。

朝まで見たことはない。

かつては確かめようとも思わなかったが、今は、二人と同じことが気になった。


「明日、確かめよう」


そう答えると、二人は笑った。

宗一郎は箱の蓋へ手を伸ばしかけ、止めた。

暖炉にはまだ火があり、外へ出る用事もない。もう少し、このまま見ていてよかった。

凛が新しい灯りを見つけ、アリアが顔を近づけた。

宗一郎も同じ窓を見た。


三人のいる食卓で、雨は静かに降り続いていた。


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