彼の贈り物
新世暦410年 晩秋
休日の朝、宗一郎が食卓の器を片づけていると、階段から足音がした。
アリアだった。
赤い髪はいつもより丁寧に整えられ、黒いヘッドバンドに添えたリボンも左右の長さが揃っている。
上着を着て、鞄まで持っていた。
宗一郎は窓へ目を向けた。
まだ、出かけるには少し早い。
「もう行くの?」
アリアが尋ねた。
「片づけてからだ」
「私もやる」
鞄を椅子へ置き、食卓に残っていた皿を重ねる。
その手つきが、普段より速かった。
宗一郎は何も言わず、受け取った皿を洗った。
武器の店へ連れていく。
数日前にした約束だった。
あの日、二人はゼルグレアを覗き込み、動けなくなっていた。
凛は泣き、アリアは自分がやったことだと繰り返した。
怪我がなかったことには、今も安堵している。
それでも、あのとき自分の声が、二人をさらに怯えさせたことは覚えていた。
もっと早く説明しておけばよかった。
触れてはいけない理由を、知っている危険の範囲だけでも伝えていれば、アリアは違う行動を選んだかもしれない。
ただ禁止すれば、関心まで消えるわけではない。
今、隣で皿を拭いている少女は、あの日のことを忘れた様子ではなかった。
それでも、武器を見たいという気持ちは残っている。
その気持ちを、また叱る必要はなかった。
「宗一郎」
「なんだ」
アリアは拭き終えた皿を置いた。
「今日は、ちゃんと聞いてから触るから」
こちらを見ずに言った。
宗一郎は横顔を見た。
言うまでに、少し考えたのだろう。
「ああ」
短く答えると、アリアの肩が僅かに下がった。
そこへ凛が降りてきた。
「お待たせしました」
銀白の髪が、階段の窓から入る光を受けている。
鞄の口を両手で確かめてから、二人のそばへ来た。
宗一郎が手を拭くと、凛はその袖を見た。
「袖、少し濡れています」
「そのうち乾く」
「外、風がありますよ」
アリアが隣から覗き込む。
「着替えてきたら? まだ早いんでしょ」
宗一郎は二人を見た。
今度は急かされるのかと思っていた。
「……そうするか」
階段へ向かう背後で、二人が小さく笑った。
街へ出ると、休日の通りには買い物客が多かった。
籠を抱えた人が店先で立ち止まり、荷車を引く男が道を空けてくれと声をかける。
石畳の継ぎ目には、朝の掃除で使われた水がまだ残っていた。
アリアは宗一郎の隣を歩きながら、武器屋の場所を尋ねた。
「学院から帰る道とは、反対側なんだね」
「ああ。職人の工房が集まっている」
「杖もあるの?」
「ある」
凛が顔を上げた。
「修理もしてくださるお店ですか?」
「作ることも、直すこともできる」
宗一郎は二人の歩調に合わせて歩いた。
いつも仕事で通る道だった。
一人なら、角を曲がった先の店を見て、荷車の間を抜け、そのまま進む。
今日は二人が露店の品へ目を向けるので、ときどき歩調が緩んだ。
アリアが細い革紐を手に取り、店の者へ材質を尋ねる。
凛は小さな鉢に植えられた草を眺めていた。
それぞれ、足を止めるものが違う。
宗一郎はそのあいだ、道の端で待った。
急ぐ用事はない。
次の角へ近づいたとき、甘い匂いがした。
熱した鉄板で生地を焼く匂いだった。
宗一郎は足を止めた。
屋台の前には少女たちが並んでいる。
店主が薄い生地を裏返し、その上へ白いクリームを広げていた。
何度か、前を通ったことがある。
そのたびに気にはなっていた。
アリアが数歩先から振り返った。
「どうしたの?」
宗一郎は屋台を見たまま答えた。
「あれを、食べてみたい」
「……クレープ?」
「ああ」
アリアの視線が、屋台と宗一郎の間を動いた。
凛も足を止める。
「食べたこと、ないんですか?」
「ない。通るたびに、いい匂いがしていた」
そう答えると、アリアが少し首を傾げた。
「買えばよかったのに」
「いつも女の子が並んでいてな。一人では、少し買いづらかった」
事実を伝えたつもりだった。
ところが、二人はしばらくこちらを見た後、顔を見合わせた。
先に凛が、ふふ、と笑った。
アリアも口元を緩める。
宗一郎には、その反応の理由がすぐには分からなかった。
「……そういうの、気にするんだ」
アリアが言った。
「多少はな」
「言ってくれたら、一緒に来たのに」
「今、言った」
「うん。そうだね」
アリアはまだ笑っていた。
からかっている声ではなかったので、宗一郎はそれ以上尋ねなかった。
凛が屋台へ目を向ける。
「私たち、学院の帰りに、友達と時々寄るんです」
「そうか」
「果物の入ったものも、おいしいですよ」
「私は焼いた林檎のが好き。でも、今は木苺もあるんだ」
アリアは品書きを覗き込み、凛と相談を始めた。
どこに並べばよいかも、何を頼めばよいかも、二人はよく知っていた。
宗一郎はその後ろについた。
品書きには、思っていたより種類があった。
クリームだけのもの。
果物を挟むもの。
蜜や、砕いた木の実を加えるもの。
どれがよいのか、判断する材料が少なかった。
「宗一郎さんは、どれにしますか?」
凛が尋ねる。
二人と同じもの、と答えかけて、止めた。
食べたいと言ったのは自分だ。
宗一郎はもう一度、品書きを見た。
「焼いた林檎にする」
アリアが顔を上げた。
「私と同じ?」
「ああ。さっきから、いい匂いがしている」
「じゃあ、それにしよう」
注文が決まると、アリアは少し嬉しそうだった。
三人は通りを少し外れ、広場の低い石壁へ腰を下ろした。
凛は、宗一郎が包みをどう持つか見ていた。
大きな手の中で、紙に包まれたクレープは少し小さく見える。
彼はまず全体を眺め、それから一口食べた。
凛は自分のクレープを口へ運ぶのを忘れた。
おいしいだろうか。
思っていた味と違ったら、どうしよう。
自分が作ったものでもないのに、返事を待つような気持ちになった。
宗一郎はゆっくり噛み、飲み込んだ。
「うまいな」
アリアが笑った。
「でしょ」
宗一郎はもう一口食べた。
今度は、少し迷いがなかった。
凛もようやく、自分のクレープを食べた。
木苺の酸味が、クリームの甘さに混ざる。
いつも友達と食べる味だった。
けれど今日は、隣に宗一郎がいる。
いつもは二人に何が欲しいか尋ねる人が、自分の食べたかったものを持っている。
それだけで、いつもの広場が違って見えた。
この人にも、買わずに通り過ぎていたものがある。
そう知ったのが、凛には嬉しかった。
もっと早く聞けばよかった、とは思わなかった。
今日、話してくれた。
二人と一緒なら買えると思ってくれたのだと考えると、口元が自然に緩んだ。
「また来ましょうね」
凛が言うと、宗一郎は頷いた。
「ああ」
アリアが横から言った。
「今度は一人でも買える?」
宗一郎は少し考えた。
「買えると思う」
「思う、なんだ」
アリアが笑う。
宗一郎は答えず、包みの端を少し下げた。
凛はその仕草を見ていた。
次も三人で来られたらいい。
そう思いながら、紙の内側に残ったクリームを、生地と一緒に食べた。
武器屋の扉を開けると、金属と油の匂いがした。
壁には剣や槍が掛けられ、棚には短剣、杖、革の鞘が並んでいる。
奥の作業台では、初老の男が金具を磨いていた。
宗一郎を見て、店主が手を止める。
「今日は、何を?」
「二人に、道具を見せたい」
店主の目が凛とアリアへ移った。
宗一郎は続けた。
「まだ学生だ。持ち方も含めて、確かめさせてほしい」
「なるほど」
店主は布で手を拭いた。
「見るだけでも構いませんよ。気になるものがあったら、先に声をかけてください」
アリアは頷いた。
視線は、もう壁の剣へ向かっていた。
その中の一本を、宗一郎も見た。
鍔に細かな装飾があり、柄には深い赤の革が巻かれている。よく整った長剣だった。
アリアが店主を見る。
「あれ、持たせてもらってもいいですか?」
「こちらへどうぞ」
店主は人のいない作業用の場所へ案内し、剣を鞘に収めたまま渡した。
アリアが両手で受け取る。
持ち上げられない重さではなかった。
彼女は柄を握り、店主の指示に従って、ゆっくり構えを変えた。
宗一郎はその手元を見た。
指の長さに対して、柄が少し太い。
切っ先が動くと、肩へ余分な力が入る。
「そのまま、少し右へ」
宗一郎が言った。
アリアは動かした。
「止めてみろ」
剣の先が、一度小さく揺れた。
彼女が唇を結ぶ。
もう一度試したが、今度は肘が固くなった。
「……思ったより、難しい」
「重さが先へ寄っている」
宗一郎は剣を受け取り、店主へ返した。
アリアは赤い革の柄を、最後まで見ていた。
気に入ったものを、扱えなかった。
その残念さは、表情に出ていた。
宗一郎は棚の短剣へ目を向けた。
「そちらも試せるか」
店主が数本を選んだ。
アリアは最初の一本を握り、次の一本へ持ち替える。
三本目で、手の動きが変わった。
柄を探すように握り直さなくなった。
肩も上がらない。
宗一郎が先ほどと同じように動かすよう伝えると、今度は、指定したところで止まった。
アリアは自分の手を見た。
「……こっちは、動かしやすい」
「手に合っているんだろう」
宗一郎が答える。
アリアはもう一度、短剣を眺めた。
長剣ほど華やかな装飾はなかった。
それでも、先ほどより長く見ていた。
凛は少し離れたところで、アリアの話を聞いていた。
宗一郎はその視線が、ときどき杖の棚へ動くことに気づいた。
「凛」
呼ぶと、彼女が顔を上げる。
「杖も、持ってみるか」
「私も、ですか?」
「ああ」
凛は棚を見た。
「今日は、アリアの……」
「お前も見るために来たんだろう」
言うと、凛は少し迷ってから頷いた。
店主が長さの違う杖を出した。
凛は一本ずつ受け取り、手の中で確かめる。
長い杖では、先端へ意識を向けるたび、握った手が僅かに動いた。短いものへ替えると、その動きが小さくなる。
宗一郎は見ていた。
「魔力を流してもいいですか?」
凛が店主へ尋ねた。
「その杖は構いません。放出はせず、少し通すだけにしてください」
凛は頷き、息を整えた。
杖の先に淡い光が生まれた。
光そのものは小さかった。
流れる魔力にも、まだ揺れがある。
宗一郎はその中に、僅かな差を捉えた。
術式を構成する前の魔力にある、偏りだった。
流れが乱れるたび見失いそうになるほど薄い。
しかし、凛が息を吐き、もう一度整えたときにも、同じ性質が残った。
水。
宗一郎は凛の顔を見た。
本人は、杖を通した感覚を確かめている。
「さっきより、細く流しやすいです」
「そうか」
宗一郎はそれだけ答えた。
次にアリアが、試用の短剣へ魔力を通した。
彼女の流れは、凛より勢いがあった。
その分、指先から入る量が一定ではない。
店主が少し抑えるように言うと、アリアは眉を寄せながら調整した。
宗一郎は、落ち着き始めた流れを見た。
風だった。
二人とも、まだ自分の魔力の性質を十分には掴んでいない。
学院で正式に測れば、同じ結果になるだろう。
宗一郎は口にせず、アリアへ尋ねた。
「握ったとき、どこか当たるか」
アリアは掌を確かめた。
「ここが、少しだけ」
示した場所を、宗一郎は覚えた。
その日は、何も買わずに店を出た。
アリアは扉を閉めた後も、短剣の重心の話をしていた。
「長いの、見たときは絶対あれがいいって思ったんだけど」
「持つと違ったか」
「うん。短い方が、手が迷わなかった」
凛も頷く。
「杖も、長さだけでずいぶん変わるんですね」
二人の話を聞きながら、宗一郎は歩いた。
買ってほしいとは、どちらも言わなかった。
アリアは、見てみたい、教えてほしいと言った。
凛は、自分も持ってよいのかと尋ねた。
今まで、学院で使う道具を確かめることはあった。
だが、二人がこれから学んでいくことに、自分から何か用意しようとは、あまり考えてこなかった。
必要になったら、言うだろうと思っていた。
それで足りるとは限らない。
宗一郎は、凛が短い杖を握ったときの顔を思い出した。
驚いてから、もう一度同じように魔力を流していた。
アリアも、手に合う短剣を見つけると、装飾より柄の形を見るようになった。
二人とも、試すことで分かったものがあった。
その続きを、手元で確かめられるようにしてやってもいい。
「宗一郎、聞いてる?」
アリアに呼ばれ、目を向ける。
「ああ」
「じゃあ、私が一番持ちやすかったの、どれ?」
「三本目だ。柄の下側が、少し掌へ当たっていた」
アリアが瞬きをした。
それから、嬉しそうに笑った。
「そう。それ」
宗一郎は店の場所を振り返らず、そのまま歩いた。
数日以内に、もう一度来ようと思っていた。
男が一人で戻ってきたのは、三日後だった。
店主は作業台から顔を上げた。
先日、二人の少女を連れてきた男だ。
口数は少なかったが、道具を扱う手つきには慣れがあった。
自分の武器を探すときより、少女たちが握ったものを見ている時間の方が長かった。
「決まりましたか」
「ああ。短杖と短剣を一本ずつ」
店主は注文書を出した。
男は、先日試した品を指定した。
短杖は、軽く、細かな魔力を通しやすいもの。
短剣は三本目を基に、掌へ当たる柄の下側を調整する。
「魔力の安定を補助するものなら、いくつかあります。刀身の補強も、学生が扱える出力にできますよ」
「それで頼む」
男は頷いた。
強いものを、と言わない客は珍しくなかった。
使い手の技量や、用途を考えて選ぶ者もいる。
店主は材質と手入れの方法を説明し、注文書へ書き込んだ。
そこで男が言った。
「属性も付けたい。杖は水、短剣は風だ」
店主の筆が止まった。
「先天属性は、もう調べてあるんですか」
「学院での測定は、まだだ」
店主は顔を上げた。
「では、水と風というのは?」
「この前、ここで魔力を流したときに分かった」
しばらく、男の顔を見た。
冗談を言っている様子はない。
――何を言っているんだ、この男は。
あの年頃の、まだ魔力操作も定まらない子どもだ。
道具へ一度流したところを見ただけで、先天属性が分かるわけがない。
未熟なうちは、属性ごとの適性差より、流し方の乱れの方が大きく出る。
専門の器具を使い、条件を揃え、何度か測って初めて判別できるものだった。
熟練者なら、得意な属性を使うときの効率や安定性が、明瞭に表れることもある。
しかし、あの二人は違う。
慎重な方の少女にも揺れはあった。
赤い髪の少女は、量を抑えることに苦労していた。
何かを見間違えたのだろう。
「……測定を済ませてからでも、遅くはありませんよ」
店主は言葉を選んだ。
「属性が合わなければ、扱う際の負担が増えることもあります。付与そのものが危険というわけではありませんが、贈り物なら、確かめてからの方が」
男は気を悪くしなかった。
「ああ。測定は受けさせる」
「では、付与は後から――」
「注文は、それで頼む」
声に苛立ちはなかった。
考えを変えるつもりも、ないらしい。
店主はもう一度、注文書へ目を落とした。
水と、風。
指定どおりに作ることはできる。
二人に合うかどうかは、別の話だった。
「杖の方は、水属性の術式を通すときに流れを整える構造にしましょう。短剣は、刃に沿わせる程度の風です。離れた場所へ飛ばす機能は付けません」
「ああ」
「どちらも、本人が魔力を流して使うものです。技術を代わりに与えるわけではありません」
「それでいい」
店主は頷いた。
不思議な客だった。
子どもの扱う道具の重さや形には、あれほど慎重なのに、肝心の属性では妙な確信を持っている。
注文書を渡すと、男は内容を一つずつ確かめた。
握りの寸法と、必要な魔力量の欄を、特に長く見ていた。
宗一郎が二つの包みを食卓へ置いたのは、それから数日後の夕食が終わったときだった。
アリアは皿を重ねる手を止めた。
細長い包みと、それより短く、少し幅のある包み。
仕事に使うものだろうか。
そう思っていると、宗一郎が短い方をこちらへ寄せた。
「アリア」
自分の名前を呼ばれて、顔を上げる。
「お前のだ」
意味が分かるまで、少し時間がかかった。
凛の前にも、もう一つの包みが置かれる。
「凛は、こっちだ」
「私にも、ですか?」
凛が宗一郎を見た。
アリアも、同じように見ていた。
店へ行ったことを思い出す。
あの日は見るだけだった。
そういう約束だったし、持たせてもらえただけで嬉しかった。帰ってからも、教わったことをノートへ書いた。
買ってもらえるとは、考えていなかった。
「……開けてもいい?」
「ああ」
アリアは包みの紐を解いた。
急いで引き抜きたい気持ちを抑え、布を傷めないように広げる。
革の鞘が現れた。
その上から、短い柄が覗いている。
宗一郎を見た。
あの部屋で、布をめくったときの指の感触が、一瞬だけ戻った。
けれど今日は、彼が向かいにいる。
自分のために、置いてくれたものだった。
「持っていい?」
宗一郎の目元が、僅かに緩んだ。
「ああ」
鞘に収めたまま手に取る。
握った瞬間、店で持った三本目を思い出した。
似ている。
けれど、あのとき掌へ当たった場所が、今は気にならなかった。
アリアは指を少し緩め、もう一度握った。
自然に収まった。
「……ここ、変わってる」
「店で、当たると言っていただろう」
宗一郎が答える。
アリアは柄を見つめた。
あのとき、宗一郎は聞いてくれていた。
それは知っていた。
でも、後から思い出して、直してもらうところまで考えていたとは知らなかった。
胸の辺りが、急に温かくなる。
言いたいことが増えたのに、口から出るのは短い言葉だけだった。
「ありがとう」
宗一郎が頷く。
アリアは短剣を膝へ下ろさず、食卓の上で両手に持ったまま、凛の方を見た。
凛の包みには、短杖が入っていた。
淡い色の木で作られ、余分な装飾は少ない。
細い金属の輪が、先端に近いところへ二つ嵌められている。
凛はそっと持ち上げた。
軽かった。
店で魔力を流した杖と、似た感触がある。
指を回すと、握る場所がすぐに決まった。
「治癒の実習にも使える」
宗一郎が言った。
「魔力の流れを整える補助が入っている。ただし、治せる怪我が急に増えるわけじゃない」
凛は頷いた。
そこは、分かる。
治癒には、身体の仕組みを理解することも、術式を組むことも必要だった。
杖があれば、教科書の知らない頁まで使えるようになるわけではない。
それでも、今、自分が練習していることを助けてくれる。
宗一郎は、それを選んでくれた。
凛は短杖へ目を落とした。
店では、自分の買い物になるとは思っていなかった。
アリアが楽しめればいい。
一緒に見られれば、それで嬉しい。
そう思っていたのは本当だった。
けれど、宗一郎に杖を持ってみるかと聞かれたとき、胸が弾んだことも覚えている。
持ちやすい、と感じた。
もう少し使ってみたい、とも思った。
言わなかった願いが、手の中にあった。
宗一郎は、こちらが遠慮したままでも、自分の分を考えてくれた。
凛は顔を上げた。
「大切にします」
声が、思っていたより小さくなった。
宗一郎は短杖を見てから、凛へ目を戻した。
「使ってくれればいい。傷んだら、直せる」
凛は瞬きをした。
傷をつけないよう、綺麗なまま保ちたいと考えていた。
でも、この杖は使うためにある。
授業へ持っていき、練習して、ときには失敗もする。
そうしてよい贈り物なのだと思うと、握る手から少し力が抜けた。
「はい」
今度は、先ほどよりはっきり答えられた。
「二つとも、デミアーティファクトだ」
宗一郎が説明を始めた。
凛の短杖には、細かな魔力の流れを整える補助。
アリアの短剣には、魔力を通したとき、刀身を一時的に補強する機能。
どちらも起動には本人の魔力が必要で、使い続ければ疲れる。
「それと、属性を付与してある」
アリアが顔を上げた。
「属性?」
「杖は水。短剣は風だ」
凛は先端の金属の輪を見た。
「どうして、その属性なんですか?」
「二人の先天属性に合わせた」
沈黙が落ちた。
アリアが先に口を開く。
「……待って。私たち、まだ測ってないよ?」
「この前、店で魔力を流しただろう」
「うん」
「あれで分かった」
凛は宗一郎を見た。
店でしていたのは、わずかな魔力を通すだけの試用だった。
特別な測定器はなかった。
属性を判別するための術式も、使っていない。
宗一郎は、手元を見ていた。
ただ、それだけだったはずだ。
「学院では、専用の器具で調べると聞きましたけど……」
「まだ操作が安定していないからな。普通は、そうした方が確かだ」
アリアが短剣を置いた。
「だったら、どうして分かるの?」
宗一郎は少し考えた。
「流れの揺れとは別に、残る性質がある」
凛はその説明を、教わった魔法理論と結びつけようとした。
魔力操作の乱れ。
属性ごとの適性差。
未熟なうちは両者を分けにくいため、測定を繰り返すのだと聞いている。
宗一郎は、それを見分けたと言っている。
けれど、一度流したところを見ただけで。
「……それって、ほんと?」
アリアが尋ねた。
宗一郎は気を悪くしなかった。
「学院で測ったら、確かめればいい」
あまりに落ち着いた返事だった。
アリアは凛を見る。
凛も、こちらを見ていた。
二人とも、どう受け止めればよいか分からない顔だった。
宗一郎が嘘をついているとは思わない。
ただ、間違えることはあるはずだ。
帰り道を忘れたことはないが、シャツの裾は出ていた。
図書室の本について尋ねたときには、多かった、としか答えなかった。
あの宗一郎が、学院の専門調査でしか分からないことを、一目で見抜いた。
アリアはもう一度、彼の顔を見た。
自慢する様子はなかった。
凛へ水属性の補助について説明しようと、杖を指している。
本人にとっては、もう終わった話らしい。
「……じゃあ、測ったら教えるね」
アリアが言うと、宗一郎は頷いた。
「ああ」
その返事を聞きながら、凛は手の中の短杖を確かめた。
本当に、水なのだろうか。
今まで練習してきた魔法を思い返しても、自分では決められなかった。
答えが分かる日を、少し楽しみに思った。
翌日の午後、宗一郎は二人を庭へ連れ出した。
凛は短杖を持ち、アリアは鞘に収めた短剣を両手で抱えている。
道具を渡しただけでは、使い方までは伝わらない。
宗一郎は二人の前に立った。
「今日は、少しだけだ。疲れる前に止める」
まず凛に、学院で習った小さな術式を組んでもらう。
杖の先に光が生まれた。
流れが、店で見たときより安定している。
ただ、凛がその光を見て喜んだ瞬間、輪郭が少し揺れた。
彼女が慌てて息を整える。
宗一郎は声をかけた。
「杖が整える分もあるが、流すのはお前だ」
「はい」
凛はもう一度試した。
今度は、光を見るより、自分の指先へ意識を向けている。
宗一郎はその姿を見た。
失敗するとすぐに申し訳なさそうな顔をすることがある。
今日は、そうではなかった。
自分で確かめ直している。
その違いが、彼には好ましかった。
水属性の補助については、学院で習った術式の範囲で試すよう伝えた。
知らない術式を、道具のために急いで覚える必要はない。
次にアリアへ、短剣の補強を教えた。
抜き方。
握り方。
魔力を通す量。
アリアは手元と宗一郎の顔を、交互に見ていた。
「今、できてる?」
「ああ。少し入れすぎだ」
彼女が量を抑える。
刀身に、淡い光が細く残った。
「風の付与は、それとは別に調整する」
宗一郎が教えると、刃に沿って薄い空気の流れが生まれた。
アリアの前髪が、僅かに動く。
彼女の目が明るくなった。
「これが、風?」
「ああ。刃に沿わせて、切るときの補助にする。遠くへ飛ばすものじゃない」
アリアは頷いた。
宗一郎は木片を固定し、立つ位置を示した。
力を込めるより、刃を当てる角度を確かめさせる。
一度目は浅い傷がついただけだった。
二度目で、細い木片の端が落ちた。
アリアが息を吸う。
嬉しさが、顔に出ていた。
宗一郎はそのまま続けさせず、短剣を下ろすよう伝えた。
「補強しても、重い攻撃を受けていいわけじゃない。刃が折れなくても、手首や腕は傷む」
アリアの目が、短剣から自分の手へ移った。
「うん」
「危ないと思ったら離れろ。持っているから戦わなければならない、とは考えるな」
今度の頷きは、少しゆっくりだった。
宗一郎は二人を見た。
自分と同じ道へ進ませるつもりはない。
凛は治癒を学びたがっている。
アリアは護身術を面白がっている。
その先に何を選ぶかは、まだ分からない。
今の関心を、道具の力で急に別の場所へ連れていく必要はなかった。
「持ち出す場所は、学院の決まりを確認してからだ。短剣を使う練習では、教師の指示にも従え」
二人が頷く。
最後に手入れの方法を教えた。
アリアは刃を拭く向きを慎重に確かめた。
凛は杖の金属部分へ触れ、濡らしてよい範囲を尋ねた。
宗一郎は一つずつ答えた。
気づけば、予定していた時間を少し過ぎていた。
それでも、急いで切り上げたいとは思わなかった。
夜、アリアは寝台の上へ短剣を置いた。
鞘に収めたまま、柄の革を指で撫でる。
凛は隣で、短杖を柔らかな布で包んでいた。
「綺麗に包むね」
アリアが言うと、凛は少し笑った。
「鞄に入れると、ほかのものに当たりそうなので」
「私も、袋を作ろうかな」
「一緒に作りますか?」
「うん。今度」
アリアは短剣を持ち上げた。
今日、木片を切った感触が、まだ手に残っている。
上手に扱えたわけではない。
宗一郎に姿勢を直され、魔力の量も注意された。
けれど、次に確かめたいことがある。
自分の道具で、練習できる。
それが、思っていた以上に嬉しかった。
「宗一郎って、聞いてないような顔して、ちゃんと覚えてるんだね」
凛が顔を上げる。
「はい」
「あの店で、手に当たるって言ったところ。直してもらってた」
「私の杖も、持ちやすいと言ったものに似ています」
アリアは頷いた。
あの人は、どこまで見ているのだろう。
先天属性の話は、まだ少し信じられない。
けれど、手に合う柄のことは、疑う必要がなかった。
自分が握れば分かる。
宗一郎が、自分のために選んでくれたことも。
アリアは短剣を布の上へ戻した。
「……もう一回、ありがとうって言ってこようかな」
言ってから、少し照れた。
昨日も言った。
今日も、庭で言った。
何度も言えば、宗一郎は不思議に思うかもしれない。
凛は布の端を整えてから、立ち上がった。
「私も行きます」
アリアはほっとして、短剣を置いたまま寝台を降りた。
宗一郎は食卓で、翌日の仕事の書類を読んでいた。
二人の足音がすると、顔を上げる。
凛は階段の最後の一段で、少し足を止めた。
改まって礼を言うことが、急に恥ずかしくなった。
それでも、アリアが隣にいた。
一緒に来たのだから、自分も伝えたい。
「宗一郎さん」
「なんだ」
凛は両手を身体の前で重ねた。
「杖、ありがとうございました。私が勉強していることを、覚えていてくださって……嬉しかったです」
宗一郎は黙って聞いていた。
凛は、その沈黙を待てた。
隣でアリアが、視線を一度落としてから言った。
「私も。手に合うようにしてくれて、ありがとう」
宗一郎は二人を見た。
「ああ」
いつもの返事だった。
けれど、そのあとで、もう少し言葉が続いた。
「二人とも、使いやすそうでよかった」
凛は微笑んだ。
贈ってくれた人も、そう思ってくれている。
自分たちが嬉しいだけではないことが、少し分かった気がした。
アリアが食卓へ近づく。
「次の休みも、練習できる?」
宗一郎は書類へ目を落とした。
仕事の予定を確かめているらしい。
凛はその手元を見ながら待った。
「午後なら、時間がある」
アリアの顔が明るくなる。
「じゃあ、午後ね」
「ああ」
「その前に、クレープ食べに行く?」
宗一郎が顔を上げた。
アリアは、いたずらを隠しきれない顔で笑っていた。
凛も口元へ手を添える。
宗一郎は二人を見てから、頷いた。
「行くか」
その返事に、アリアが凛を見る。
凛も頷いた。
新しい杖と短剣は、階上に置いてある。
次の休みには、また庭で使い方を教わる。
その前には、三人で街へ出る。
凛は宗一郎へ、おやすみなさいと言った。
階段を上がる途中、アリアが隣へ顔を寄せた。
「今度は、違う味を選ぶかな」
凛は考えてから、小さく笑った。
「また林檎かもしれませんね」
階下では、宗一郎が書類を閉じる音がした。




