約束
新世暦410年 秋 入学から半年後
学院の鐘が鳴るころには、アリアはもう、次の授業の教室まで迷わずに歩けるようになっていた。
入学したばかりの頃は、石造りの廊下を曲がるたび、窓の外に見える尖塔の位置を確かめていた。凛と二人で階段を間違え、上級生に教室を教えてもらったこともある。
今では、教科書を胸に抱えて友達と話し、気づけば目的の扉の前にいる。
半年。
過ぎてしまえば短かったようにも思える。
けれど、その間に覚えたものを数え始めると、とても一度には思い出せなかった。
魔力を均等に流すと、術式の光が揺れなくなること。
食堂の窓際は、昼を少し過ぎると空くこと。
正門から二つ目の角を曲がった先の焼き菓子屋では、閉店前に小さな菓子を一つ添えてくれること。
知らなかったものが、毎日少しずつ、自分の暮らしに加わっていく。
帰り道に凛や友達と店先を覗き、銅貨を数えながら何を買うか相談する時間も好きだった。
一人で同じものを買うより、違うものを買って分けた方が、たくさんの味を楽しめる。
そんなことを真剣に相談して、結局、誰かがひと口を大きく取りすぎて笑い合う。
自分がまた、こんなことで笑うようになるとは思っていなかった。
廊下の先で、友達が手を振っている。
アリアは振り返して、歩調を速めた。
そのとき、友達の仕草が、記憶の中の家族と重なった。
何が似ていたのかは分からない。
手の上げ方か。こちらを待つときの、少し身体を傾ける癖か。
胸の奥が、不意に狭くなる。
両親も、兄弟も、思い出さない日はなかった。
朝、髪を整えているとき。
食事の匂いがしたとき。
面白い話を聞いて、誰かにも教えたいと思ったとき。
何でもない瞬間に、もう話せない相手の顔が浮かぶ。
今日はこんなことがあった、と言えたら。
そう思った後に訪れる静けさには、今も慣れなかった。
楽しい一日を過ごした夜ほど、思い出すこともある。
自分が知らなかったことを、家族にも話してみたかった。
きっと驚いたはずだとか、笑ったはずだとか、そういうことまで考えてしまう。
「アリア?」
隣を歩く凛が、顔を覗き込んだ。
アリアは瞬きをして、笑った。
「なんでもない。次、遅れるよ」
凛はすぐには歩き出さなかった。
こちらの顔を見てから、小さく頷く。
何も尋ねず、アリアの隣へ戻った。
そういうところに、何度も助けられてきた。
言いたくない日は、言わなくていい。
それでも、一人にはしない。
教室の扉を押しながら、アリアは今朝の食卓を思い出した。
宗一郎はいつものように茶を飲み、二人が持ち物を確かめるのを聞いていた。
出かける直前に凛が忘れ物へ気づくと、何も言わず階上まで取りに行ってくれた。
帰れば、あの人がいる。
仕事で留守の日もあるけれど、戻ってくる場所は同じだった。
失ったものを思い出しても、そのまま立ち止まらずにいられる理由を、アリアは知っていた。
凛が隣にいてくれること。
宗一郎が、明日も暮らしていける場所を用意してくれたこと。
二人へ何と伝えれば、この気持ちがきちんと届くのか、まだ分からなかった。
その日の授業で、教師は教卓に小さな灯具を置いた。
金属の枠に、乳白色の石が収まっている。
教師が底の印へ指を添えると、石の内側に柔らかな光が灯った。
「これは、現代の技術で製作されたアーティファクトです。分類は?」
何人かが手を上げる。
「デミアーティファクトです」
「そのとおり」
教師は灯具を持ち上げ、教室の後ろまで見えるようにした。
「アーティファクトというと、剣や杖を思い浮かべる人が多いでしょう。しかし、暮らしの中で使われるものも数多くあります」
アリアは頬杖を解いた。
灯具そのものは珍しくなかった。
店でも、学院でも見かける。
けれど、黒板に次の言葉が書かれると、自然に背筋が伸びた。
レアアーティファクト。
「製作者や製法が分からず、現在の技術では再現できないものです。遺跡から発見される例が多く、形状も能力もさまざまです」
教師は何枚かの図版を広げた。
装飾の施された腕輪。
内部に水が浮いているように見える杯。
刀身に細かな文字が刻まれた剣。
アリアの視線は、最後の一枚に留まった。
ただの武器とは、何が違うのだろう。
持つと分かるのか。
魔力を流すと、何かが起きるのか。
見たことのない魔法が、その剣から生まれるのだろうか。
教師の声を逃したくなくて、教科書の頁をめくる手が止まった。
「ただし、レアだから強力な武器だとは限りません。生活の道具である場合も、用途そのものが判明していない場合もあります。出自の分類と、性能の評価は別です」
アリアは急いで書き留めた。
その下へ、小さく剣の形を描く。
授業がさらに進み、教師が《因果遺物》という言葉を口にしたときには、周囲の椅子の音さえ気にならなくなっていた。
「古代文献には、特定の一人と深い因果関係で結ばれた遺物について記述があります。その人物を、契約者と呼びます」
「誰でも使えるわけじゃないんですか?」
前の席から質問が出た。
「文献の記述では、そうなります。そして、必要なときには、偶然が重なって両者が出会うとも伝えられています」
必要なときに、出会う。
アリアはその言葉を、頭の中でもう一度繰り返した。
「触れた瞬間、使い方が分かるんですか?」
今度は、自分が尋ねていた。
教師がこちらを見る。
「それも文献に見られる特徴です。ただし、覚えておいてください。現代では、因果遺物も契約者も正式には確認されていません。展示されている候補があっても、それだけで伝承の正しさが証明されたわけではありません」
アリアは頷いた。
そうなのか、と思う一方で、まだ誰も確かめていないという話が、かえって胸を躍らせた。
世界には、自分の知らないものがいくつもある。
本の中にだけあるのではなく、どこかの遺跡や、遠い街の展示室に。
もしかしたら、すぐ近くにも。
学長が持っている杖を思い出した。
白い樹のような姿。先端に収まる、紫色の半透明の球体。
あの杖も、そうなのだろうか。
そこまで考えたとき、別のものが浮かんだ。
黒い、変な形の武器。
宗一郎の部屋にある、あれ。
剣、と呼んでいいのかさえ、よく分からないものだった。
昔、何度か見たことがある。
宗一郎が仕事の支度をしていたときや、帰宅した後。
長くて、黒くて、手元の辺りから左右へ突き出していた。
近頃は厚い布を巻かれ、部屋の奥に置かれている。
絶対に触るな。
そう言われていたから、近づかなかった。
――でも、見るだけなら。
アリアは筆先を止めた。
今なら、前には分からなかったことが分かるかもしれない。
どこに術式があるのか。
どんな材質なのか。
あれも、遺跡で見つかったものなのか。
想像し始めると、授業が終わるまでの時間が急に長くなった。
「凛、帰ろう」
終業の鐘が鳴ると、アリアはいつもより早く教科書を鞄へ収めた。
凛が少し驚いた顔をする。
「今日は、寄り道しないんですか?」
「うん。ちょっと、確かめたいことがあって」
友達にはまた明日と言い、正門を抜ける。
凛は隣を歩きながら、アリアの顔を見ていた。
「何か、いいことがあったんですか?」
「さっきの授業、面白かったでしょ」
「はい。あの杯、どうして水がこぼれないんでしょうね」
「私は剣の方。あと、因果遺物の話」
話し始めると、言いたいことが次々に出てきた。
必要なときに出会うという話。
触れれば使い方が分かるという記述。
学長の杖は、どんな力を持っているのだろうという疑問。
凛も楽しそうに聞いていた。
けれど、アリアが宗一郎の武器の話をすると、少し考える顔になった。
「あれも、アーティファクトなのかな」
「……どうでしょう。でも、普通の剣とは違いましたね」
「覚えてる?」
「はい。刃が、どこにあるのか分からなくて」
「そう、それ!」
アリアは凛へ顔を向けた。
同じことを覚えていたのが、妙に嬉しかった。
「今日、見てみない?」
凛の歩調が、僅かに落ちた。
「宗一郎さんに、聞いてから?」
「見るだけ。布を少しめくって」
「……アリア」
声の調子が変わった。
アリアにも、それは分かった。
それでも、すぐに頷く気にはなれなかった。
聞けば、駄目だと言われるかもしれない。
危ないから、と一言で終わってしまうかもしれない。
学院で魔術を学ぶようになった。
教科書に書かれたことも、以前よりずっと理解できる。
少しくらい見ても、大丈夫なはずだ。
そんな気持ちが、好奇心の後ろで小さく膨らんでいた。
家に着くと、宗一郎は居間にいた。
食卓の上に広げた紙から顔を上げる。
「早いな」
「今日は寄り道しなかったの」
アリアは鞄を椅子に置きながら答えた。
いつもどおりに言えたつもりだった。
凛が、隣で上着の袖を整えている。
必要以上に丁寧な仕草だった。
宗一郎が家にいる。
普段なら嬉しいことなのに、今日は、考えていたことが進まなくなった。
アリアは鞄を開き、教科書の間に挟んだ授業の予定表へ目を落とした。
明日は実習がある。
そのための小さな方眼紙が、残り少なかった。
足りないのは本当だった。
ただ、自分で買いに行けない理由はなかった。
「宗一郎。お願いがあるんだけど」
「なんだ」
「明日の実習に使う方眼紙、買ってきてくれない?」
宗一郎は予定表を見た。
「何枚いる」
アリアは答えた。
どの店に置いてあるかも伝える。
「分かった」
あまりにすぐ頷いたので、胸の中に小さな引っかかりが生まれた。
宗一郎は紙をまとめ、立ち上がった。
「一緒に行かないのか」
「私、宿題を先にやりたいから」
言った後で、凛を見るのを我慢した。
「凛は?」
「私は……」
凛の声が途切れる。
アリアは鞄から教科書を取り出した。
「一緒に課題やるの。分からないところ、見てもらいたくて」
宗一郎の目が二人の間を動いた。
少し、間があった。
見透かされるようで、アリアは教科書の角を指で押さえた。
「……そうか」
宗一郎は上着を取った。
戸口で一度こちらを振り返り、それから外へ出ていった。
扉が閉まる。
アリアはしばらく、その音の余韻を聞いていた。
「やっぱり、やめましょう」
階段を上がると、凛が言った。
アリアは宗一郎の部屋の前で振り返る。
「一瞬だけだって」
「でも、今なら、戻ってきてから聞けます」
その言葉は正しかった。
正しいからこそ、少しだけ耳が痛かった。
「布をめくるだけ。持ったりしないから」
自分にも言い聞かせるように答えて、扉を開けた。
宗一郎の部屋は、いつも静かだった。
机の上には必要なものだけが置かれ、寝台の掛布も整っている。窓から差す午後の光が、床の上に細い四角を作っていた。
武器は、その光の届かない壁際にあった。
厚い布に包まれ、低い受け台に横たえられている。
近づくと、思っていたより大きい。
布越しでも、細長い主軸と、左右へ張り出す部分が分かった。
アリアは膝をついた。
「アリア……」
後ろで凛が呼ぶ。
「ここだけ」
布の端をつまみ、ゆっくり持ち上げた。
黒い表面が現れた。
最初に思ったのは、これを剣と呼んでよいのだろうか、ということだった。
幅広い刀身はない。
光を返す刃もない。
長い主軸は歪な円柱に近く、硬いものを幾重にも重ねたような節と起伏があった。
十字に伸びる部分は僅かに湾曲し、その縁から尖った突起が生えている。
鍛冶屋の店先に並ぶ武器とは、何もかも違った。
黒い金属にも見える。
けれど、場所によっては乾いた骨や、硬い殻を思わせた。
表面には細い筋が走っていた。
亀裂だろうか。
それとも、最初からこういう形なのだろうか。
「……すごい」
声が小さくなる。
凛も、扉の近くから数歩近づいていた。
「本当に、刃がないんですね」
「ここ、文字じゃないよね?」
アリアは指を近づけかけ、止めた。
触らない。
その約束だけは守っている。
そう考えながら、さらに布をずらした。
十字の中心が見えた。
周囲より滑らかな、閉じた裂け目のようなものがある。
何かを収めているのだろうか。
顔を寄せた、そのときだった。
裂け目が、開いた。
赤が見えた。
宝石だと思うには、奥行きがありすぎた。
暗い赤の中に、こちらを捉えるものがあった。
アリアは息を止めた。
今、動いた。
そう理解した途端、背中から首筋まで冷たいものが這い上がった。
指が、布をつまんだ形のまま動かない。
隣で凛が短く息を吸う。
部屋には、何の音も増えていなかった。
炎も出ていない。
武器が起き上がったわけでもない。
それなのに、見ていたはずの自分が、見られる側になった。
赤い眼から、視線を外せなかった。
「……アリア」
凛の声が震えていた。
返事をしようとしても、喉が動かない。
引き返したい。
布を戻して、部屋を出たい。
けれど、手を動かすことが、何かの合図になってしまう気がした。
頬の横で、凛の息が乱れていく。
その気配を聞きながら、アリアはようやく、自分が凛をここへ連れてきたのだと理解した。
階下で扉が開いた。
早い足音がした。
次の瞬間、宗一郎が部屋に入ってきた。
アリアは顔を上げられなかった。
「二人とも、離れろ」
低い声だった。
いつも聞く声と同じなのに、返事を待つ余地がなかった。
宗一郎が二人と武器の間へ入り、凛の肩を支えた。
「アリア。立てるか」
頷こうとして、首が僅かに動いただけだった。
宗一郎の手が腕へ添えられる。
その手に支えられ、ようやく立った。
凛は泣いていた。
声を上げず、息を吸うたびに涙がこぼれていた。
アリアはその顔を見て、腹の底が冷たくなるのを感じた。
宗一郎は二人を扉の外へ出し、黒い武器へ目を向けた。
その背中で、赤い眼は見えなくなった。
布を戻す音がした。
やがて宗一郎が振り返る。
「何をした」
アリアの唇が震えた。
「私が……布を」
「触るなと言ったはずだ」
言葉が、胸へ重く落ちた。
触っていない。
さっきまで自分を納得させていた言い訳が、頭の端に浮かんだ。
でも、口にはできなかった。
「……ごめんなさい」
「俺を外へ出したのも、このためか」
アリアは目を伏せた。
それだけで、答えになった。
宗一郎は黙った。
何か言われるより、その沈黙が怖かった。
自分のお願いを聞いて、出かけてくれた。
必要だから頼んだと思ってくれた。
それを利用した。
凛が止めてくれたことも、聞かなかった。
「私が、やろうって言ったの」
涙が落ちた。
「凛は止めた。見るだけだからって、私が……」
声が詰まる。
「ごめんなさい」
宗一郎の顔を見られなかった。
怒られるのは当然だった。
それでも、これほど静かに怒る人なのだと、初めて知った。
宗一郎が息を吸った。
長く吐き、それから、声の硬さが少し変わった。
「怪我はないな」
凛が頷く。
アリアも、どうにか頷いた。
「居間へ行こう」
食卓につくと、宗一郎は二人の前へ水を置いた。
アリアは両手で杯を包んだ。
指先がまだ冷たかった。
宗一郎は向かいの椅子に座る。
「どうして、見ようと思った」
今度は、答えを待ってくれる声だった。
アリアは鼻をすすった。
「今日、授業で……アーティファクトの話を聞いて」
少しずつ話した。
レアアーティファクトの図版を見たこと。
因果遺物の話が面白かったこと。
宗一郎の武器も、そういうものなのか知りたくなったこと。
話しているうちに、さっきまで胸をいっぱいにしていた興奮が、ひどく幼いものに思えてきた。
「聞いたら、駄目って言われると思って」
最後の言葉は、小さかった。
宗一郎はしばらく黙っていた。
「そうか」
それから、階段の方へ目を向けた。
「あれは、ゼルグレアという」
アリアは顔を上げた。
初めて聞く名前だった。
「高い熱を出す。触れたものを焼いたり、融かしたりする」
アリアの視線が、自分の指へ落ちた。
さっき、ほんの少し近づけた指だった。
「……さっきも?」
「熱が出ている様子はなかった。だが、見た目だけで安全だと決めるな」
宗一郎は続けた。
「重さも、百キロほどある」
「百……?」
思わず聞き返した。
宗一郎は頷く。
「倒れたり、受け台から落ちたりすれば、それだけで大怪我をする。お前たちが手で支えられるものじゃない」
布を引いたときのことを思い出した。
もし、どこかの突起へ引っかけていたら。
先ほどとは違う怖さが、遅れて胸に広がった。
凛が杯から手を離した。
「あの……眼みたいなものは、何ですか?」
宗一郎は少し考えた。
「周りの状態を測って、熱をどこまで及ぼすか決めるための器官だ。俺が使ってきた限りでは、そういう働きをしている」
「飾りじゃ、ないの?」
「ああ」
赤い眼を思い出すと、まだ背中が冷えた。
けれど、分からないものに見つめられた恐怖の隣へ、今は別の気持ちが戻ってきていた。
周りを測る。
武器なのに。
「どうして、私たちを見たの?」
「なぜあのとき開いたのかは、俺にも分からない」
宗一郎は、はっきりそう答えた。
アリアは瞬きをした。
この人でも、分からないことがある。
それが少し意外だった。
「分からない部分があるから、近づくなと言っていた」
その言葉には、もう先ほどの怒りはなかった。
だからこそ、よく分かった。
宗一郎が全部知っていて、教えてくれなかったのだと思っていた。
本当は、知っている危険と、分からない危険の両方があったのだ。
「……アーティファクトなの?」
アリアが尋ねると、宗一郎は机の上へ視線を落とした。
「レアアーティファクトの類だとは思っている。だが、正確には分からん」
「因果遺物かもしれない?」
「かもしれないな」
その返事に、アリアも凛も顔を上げた。
宗一郎は二人を見た。
「だからといって、試しに触る理由にはならない」
アリアはすぐに俯いた。
「……うん」
僅かに残っていた涙が、頬を伝った。
「説明しなかった俺も悪かった」
アリアは、もう一度顔を上げた。
宗一郎は肘をつかず、まっすぐ座っていた。
「触るなとだけ言えば、分かると思っていた。何が危ないのか、話しておくべきだった」
「でも、私が勝手に……」
「それは、お前が悪い」
返事は即座だった。
アリアは唇を結んだ。
そのあとで、宗一郎が続けた。
「俺の説明が足りなかったこととは、別だ」
凛が小さく頷く。
アリアも頷いた。
宗一郎は、少し困ったように眉を寄せた。
「ギルドで、年頃の女の子と暮らすのは難しいと言われた」
突然の話に、アリアは瞬きをした。
「誰に?」
「受付の女だ。二人と暮らしていると話したときに」
宗一郎は二人の教科書へ目を向けた。
「……こういうことなのか」
本気で考えているらしかった。
アリアは笑いそうになって、慌てて口元を押さえた。
今、笑っていいのか分からない。
隣の凛も、涙の残った目で困ったように微笑んでいた。
宗一郎は気づいたが、何も言わなかった。
「教科書を見せてくれ」
アリアは鞄から本を取り出した。
該当する頁を開くと、宗一郎はしばらく読んだ。
アリアはその手を見ていた。
百キロの武器を持つ手。
さっき、自分を立たせてくれた手でもあった。
「今日は、どこまで習った」
そう尋ねられ、アリアは授業で聞いたことを話し始めた。
宗一郎の話は、教師の説明とは少し違っていた。
図版に載っている美しい姿より、泥に埋まっていたときの話。
手に入れた後より、見つけた直後に何をするかという話。
「遺跡で見つけても、まず触らない」
アリアは教科書の余白へ書いた。
「動いていなくても?」
「動いていないことと、働いていないことは同じじゃない」
呪いや、起動条件の分からない仕掛け。
道具そのものではなく、周囲に残された術式が危険な場合もある。
見つけた場所を覚えておくこと。
無理に動かさず、調べられる人間へ知らせること。
宗一郎の話を聞きながら、アリアは先ほどの自分の行動を一つずつ思い出していた。
どれも、していなかった。
知らなかったから、では済まない。
少なくとも、やめた方がいいという凛の声は聞いていた。
「使えれば、便利なんじゃないの?」
「使い方を間違えれば、持っている方が危ない。強力なものほど、間違えたときの被害も大きい」
「持っているだけで強くなるわけじゃないんですね」
凛が言う。
「ああ。何ができて、何ができないのか知る必要がある」
アリアは黒板の図版を思い出した。
あの剣で何ができるのか、ばかり考えていた。
使えない場面があることも、使う人が間違えることも、考えていなかった。
「学長先生の杖も、レアアーティファクト?」
「アルティアか。そう聞いている」
「やっぱり……」
つい声が弾んだ。
宗一郎の目がこちらへ向く。
アリアは背筋を正した。
「触りたいって意味じゃないよ」
「ならいい」
今度は、凛が小さく笑った。
アリアも、少しだけ笑えた。
話は、道具の扱いから武器の選び方へ移っていった。
大きければよいわけではないこと。
重い武器を持ち上げられても、振った後に止められなければ危険なこと。
自分の手に合うかどうかも、見た目では分からないこと。
アリアは何度も質問した。
凛も途中から椅子を寄せ、同じ頁を覗き込んでいた。
「宗一郎は、いろんなアーティファクトを見たことがあるの?」
話の切れ目に、アリアは尋ねた。
「それなりにはな」
「じゃあ、因果遺物は?」
宗一郎はすぐには答えなかった。教科書へ目を落としたまま、少し考えるように間を置いた。
「……見たことは無い」
そう答えながら、脳裏には、かつて因果遺物の契約者と刃を交えたときのことが浮かんでいた。
血に濡れた手と、地面についた片膝。その前に立つ相手を見上げたとき、自分がまだ生きていることと、戦いを続けられることは別なのだと分かった。
勝てない。
邪神以外を相手に、そう明確に思ったのは、あれが初めてだった。
宗一郎は記憶の続きを追わず、目の前の教科書へ意識を戻した。
アリアはその短い沈黙を、見たことのある品を思い返していたのだと受け取ったらしい。少し考えてから、次の質問を口にした。
「一番不思議だったのは?」
強いもの、と聞こうとして、言い換えていた。
図版に載っていないものを聞いてみたかった。
宗一郎は少し考えた。
視線が、教科書から窓の方へ移る。
「雨の降る箱だな」
「……箱?」
想像していた答えとは違った。
凛も顔を上げる。
「銀の箱だった。大きさは、このくらいだ」
宗一郎が片手を開いた。
その掌に収まる程度。
アリアは机の上の空いた場所へ目を落とし、そこに小さな箱を思い描いた。
「開けると雨が出るの?」
「いや。蓋を開けると、街が見える」
「街?」
「ああ。家も、橋も、川もある。その中で、ずっと雨が降っていた」
アリアは眉を寄せた。
「模型ってこと?」
「初めは、そう思った」
宗一郎は教科書の端へ指を置いた。
「だが、屋根に落ちた雨が流れて、石畳を伝って川へ入る。軒先に干してある布も揺れていた」
ただ水をかけられた模型を想像していたのに、その説明を聞くと、頭の中の景色が変わった。
細い路地。
濡れた屋根。
灰色の雨の向こうに並ぶ、小さな家々。
「夜には、窓に灯りがついた」
凛が僅かに身を乗り出した。
「誰か、住んでいたんですか?」
「人は見えなかった」
「一人も?」
アリアが尋ねる。
「俺が見ていた間はな」
家には灯りがつく。
洗濯物もある。
それなのに、人はいない。
アリアは黙って、想像の中の窓を見つめた。
食卓を囲んでいるのだろうか。
雨が止むのを待っているのだろうか。
けれど、宗一郎は一度も見ていない。
「……上から覗けば、家の中も見えるんじゃない?」
「角度を変えても、奥までは見えなかった」
「箱を傾けたら?」
「水はこぼれない。街が崩れることもなかった」
「じゃあ、手を入れたら……」
口にしてから、宗一郎を見る。
彼は咎めなかった。
「調べていた人間が試した。何もないように見えるところで、指が止まった」
「何かに当たったの?」
「透明な蓋があるような感触だったそうだ。だが、材質も仕組みも分からなかった」
凛が教科書を見た。
杯の図版が載っている頁だった。
「どこか、別の街を映していたんでしょうか」
「その可能性はある」
「昔の街、とか?」
アリアが続ける。
「それも考えられていた。箱の中に本当に街があるという者もいた」
「どれだったの?」
「分からん」
宗一郎は、あっさり答えた。
アリアはしばらく彼の顔を見ていた。
答えの分からないものを、こんなふうに話せるのだと思った。
分からないからつまらない、とは少しも感じなかった。
むしろ、聞くほどに見てみたくなる。
「何に使うものなの?」
「それも分かっていなかった」
「何もできないの?」
宗一郎は少し首を傾げた。
「見ていることはできた」
それだけの答えだった。
アリアは口を閉じた。
授業で図版を見たときには、どんな力があるのか、何ができるのかばかり考えていた。
けれど、その箱は、ただ見てみたいと思った。
雨の音もするのだろうか。
灯りは、毎晩同じ窓につくのだろうか。
橋の下を流れる水は、どこへ行くのだろう。
誰も歩かない道に、どうして洗濯物が干されているのだろう。
「雨の音は?」
気づけば、尋ねていた。
「小さく聞こえた。蓋を閉じると、聞こえなくなる」
アリアは瞬きをした。
音まである。
自分の掌より小さな場所で、街ひとつ分の雨が降っている。
「……宗一郎も、ずっと見てた?」
「ああ」
「面白かった?」
少し間があった。
「気にはなったな」
その返事が、何だか宗一郎らしかった。
アリアは、銀の箱を覗き込む彼を想像した。
いつものように無口なまま、窓に灯りがつくのを待っていたのだろうか。
それとも、誰も渡らない橋を見ていたのだろうか。
彼にも、そうして時間を忘れることがある。
それを知ったのが、少し嬉しかった。
「今も、あるの?」
「俺は持っていない。その後、どこへ移されたのかも知らん」
アリアは残念に思った。
今度見せて、と頼めるものではなかった。
凛も小さく息をついたが、すぐに教科書へ目を戻した。
「まだ、誰も分からないままかもしれませんね」
「そうだな」
アリアは余白へ、小さな箱を描いた。
開いた蓋の下に、屋根を二つ。
その隣に、橋を一つ。
雨を描こうとして、筆を止める。
こんなものでは、さっき頭の中に浮かんだ街にならなかった。
「先生に聞いたら、知ってるかな」
「似た記録があるかもしれない」
「図書室にも?」
「探してみればいい」
アリアは凛を見た。
凛が、もう頷いている。
「明日、一緒に探しましょう」
「うん」
箱が見つからなくても、記録があるかもしれない。
似たものを見た人が、ほかにもいるかもしれない。
宗一郎の部屋へ黙って入る以外にも、知るためにできることはあった。
話が途切れたところで、宗一郎は本を閉じた。
窓の光は、いつの間にか食卓の端から消えていた。
「約束してくれ」
アリアは筆を置いた。
「俺がいないときに、ゼルグレアへ近づかない。布も外さない。触るのは勿論だ」
「はい」
凛が答える。
「……うん。もうしない」
アリアも答えた。
宗一郎の視線が、こちらに留まる。
「アリア」
「分かってる」
そう言いかけて、止めた。
今日、自分は分かっていなかった。
「……見るだけならいいって、勝手に決めない」
言い直すと、宗一郎は頷いた。
「それと、俺を遠ざけるために嘘をつくな」
アリアは膝の上で指を握った。
「うん」
「知りたいなら、先に聞け」
少し間を置いて、アリアは顔を上げた。
「聞いても、駄目って言うことはあるでしょ?」
「ある」
やはり、そうなのだと思った。
胸の奥が少し沈む。
けれど、宗一郎は続けた。
「そのときは、理由も話す。答えられることは答える」
アリアは、その顔を見ていた。
先ほどまで怖くて見られなかった目が、今はこちらの返事を待っている。
「……分かった」
宗一郎が夕食の支度を始めてから、アリアは凛の隣へ椅子を寄せた。
「ごめんね」
凛は教科書から顔を上げた。
「怖かったでしょ」
「……はい」
凛は否定しなかった。
その返事を聞けたことに、アリアは少しだけ救われた。
平気だったと言わせずに済んだ。
「止めてくれたのに、聞かなくて」
「私も、気になって近づきましたから」
凛は指先で教科書の角をなぞった。
「でも、次は先に聞きましょう」
アリアは頷いた。
「うん」
少ししてから、凛が小さな声で付け足した。
「宗一郎さんが戻ってきてくださって、よかったです」
アリアは台所を見た。
宗一郎が鍋の蓋を持ち上げている。
湯気が、肩の辺りまで立ち上った。
どうして戻ってきたのか尋ねたら、妙な気配がした、とだけ答えていた。
あの眼が開いたときのことなのだろうか。
詳しくは分からなかった。
ただ、来てくれた。
声を出せなくなった自分たちのところへ。
腕を支えられたとき、ようやく動けた。
彼の姿が眼と自分の間へ入ったとき、息ができた。
怒ったのは、その後だった。
アリアは膝の上に置いていた手を、ゆっくり開いた。
夕食の席で、宗一郎は紙包みを差し出した。
「これで合っているか」
方眼紙だった。
頼んだ枚数より、少し多い。
アリアは包みを受け取って、しばらく言葉を失った。
夕食の支度を始める前、宗一郎はもう一度買いに出てくれていた。
自分が嘘のために口にしたお願いを、まだ覚えていたのだ。
「……ありがとう」
「明日、使うんだろう」
アリアは頷いた。
紙の端を、傷めないように撫でる。
欲しいものを頼めることも。
失敗して叱られた後に、同じ食卓へ座れることも。
今の自分には、当たり前になりかけていた。
けれど、当たり前ではなかった頃を覚えている。
何かを欲しいと言うより先に、なくても平気だと考えていた。
明日の準備より、今夜をどう過ごすかの方が大事だった。
食卓の向こうで、宗一郎が凛の皿へ煮込みをよそっている。
その光景を見ていると、家族を思い出した。
胸は痛んだ。
それでも、目の前の温かな皿へ手を伸ばせた。
「宗一郎」
呼ぶと、彼がこちらを見た。
今度は、先に伝えようと思った。
断られるかもしれない。
それでも、黙ってやるよりよかった。
「今度、武器の店に連れていってくれない?」
凛も顔を上げた。
アリアは急いで続ける。
「買ってほしいんじゃなくて。今日の話を聞いて、普通の剣とかも、ちゃんと見てみたくなったの」
宗一郎は匙を置いた。
「どう扱うか、もう少し教えてほしい」
言い終えて、返事を待った。
宗一郎は少し考えた。
「休みの日なら、行ける」
アリアの顔が上がる。
「本当?」
「ああ。ただし、店でも勝手に触るな」
「触らない。ちゃんと聞く」
「持ちたいときも、店の人か俺に言え」
「うん」
隣で凛が微笑んだ。
「私も、行っていいですか?」
「勿論だ」
アリアは凛と顔を見合わせた。
今度は、後ろめたさがなかった。
寝る前、アリアは授業のノートを開いた。
余白に描いた剣は、少し曲がっていた。
今日の帰り道では、これを見るたびに黒い武器のことを考えていた。
今は、その下へ新しく書き足した言葉に目が留まる。
使い方だけでなく、危険も知ること。
自分の字なのに、書いたときより重く感じられた。
頁をめくると、宗一郎の話を急いで書き留めたため、後半ほど文字が小さくなっている。
その端に、銀の箱の絵があった。
屋根が二つと、橋が一つ。
アリアは筆を取り、箱の下へ書き添えた。
雨の降る箱。
人は見えない。
夜には灯りがつく。
何のために作られたのか、分からない。
書き終えて、しばらく眺めた。
あの街には、朝も来るのだろうか。
雨の中で、窓の灯りはどんな色に見えるのだろう。
知りたいことは、今日だけでずいぶん増えていた。
階下から、食器を片づける音が聞こえた。
今夜もあの人は家にいる。
凛は隣で明日の教科書を揃えている。
「ねえ、凛」
「はい?」
「明日は、帰りにあのお店、寄ろう」
凛がこちらを見た。
「焼き菓子のお店ですか?」
「うん。図書室のあとに」
「そうですね。今度は、宗一郎さんの分も買いましょう」
アリアは頷いた。
何が好きか、まだよく分からない。
いつも二人の食べたいものを選ぶので、本人の好きなものは聞きそびれていた。
それなら、明日の朝に聞けばいい。
アリアは灯りを落とす前に、鞄の中の方眼紙を確かめた。
まっすぐ収め直し、留め具を閉じる。
隣へ置いたノートの端から、銀の箱の絵が少し覗いていた。
明日は、凛とその記録を探す。
次の休みには、宗一郎と武器の店へ行く。
アリアは二つの予定を思い浮かべてから、ノートを鞄へ収めた。




