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入学式

新世暦410年 春


「……ねえ。まだ?」


玄関から、三度目の声がした。

宗一郎は鏡の前で手を止めた。

黒に近い髪が、額にひと房落ちている。

指で払っても、すぐに同じ場所へ戻った。

普段なら気に留めない。

視界を塞ぐほどでもなく、動くのに支障もない。

しかし、今日はそういう判断ではいけないらしい。


「もう出られる」


そう答えて上着を取ると、玄関にいたアリアがこちらを振り返った。

肩にかかる赤い髪が揺れる。

黒いヘッドバンドに添えた赤いリボンは、今朝、何度も結び直していたものだ。

赤みを帯びた瞳が宗一郎の肩から足元まで動き、腰の辺りで止まった。


「シャツ、出てる」


宗一郎は自分の腰を見た。

確かに、片側だけ裾がはみ出している。

直したはずだった。


「……そうだな」


裾を収めるあいだ、アリアは小さく息を吐いた。


「今日は入学式なんだから。いつもの仕事に行くんじゃないんだよ」


「分かっている」


「分かってる人は、そんな格好にならないと思うけど」


責めるというより、困っている声だった。

アリア自身も、慣れない制服の袖を先ほどから気にしている。紺色の上着に白いブラウス。襟元まできちんと整えた姿は、普段の動きやすさを優先した服装とは違って見えた。

それでも背筋は伸びている。

緊張しているときほど、彼女はじっとしていない。


「宗一郎さん」


今度は、もう少し柔らかな声がした。

アリアの隣にいた凛が、両手で小さな布を差し出している。


「ハンカチ、持ちましたか?」


「……いや」


「これ、使ってください」


受け取った白いハンカチには、折り目がきれいについていた。

凛は手を離すと、宗一郎の襟元を見上げた。

銀白の長い髪が肩から胸へ流れ、毛先に差した淡い水色が朝の光に透けている。

髪の脇には、小さな白い花の飾り。

澄んだ青い瞳には期待が浮かんでいたが、その奥に緊張も隠れていた。


「襟も、少しだけ……」


凛が自分の首元を指で示す。

宗一郎が直すと、彼女はようやく微笑んだ。


「はい。大丈夫です」


「本当に?」


アリアが横から覗き込む。

凛は宗一郎とアリアを交互に見て、困ったように笑った。


「たぶん」


「たぶんか」


宗一郎が言うと、二人は顔を見合わせた。

先にアリアが笑い、凛が口元に手を添える。

宗一郎には、何がおかしかったのか少し考える必要があった。

けれど、その笑いを止める理由はなかった。

鏡に映る男は、三十歳ほどに見える。

背が高く、仕立てのよい濃色の上着を着ても、肩と胸の厚みは隠れない。

切れ長の目と引き締まった輪郭は、無言で立っているだけで人を近づきにくくさせた。

袖口から覗く手首には、古い傷が一本残っている。

ハンターとして登録されている等級は、B。

刃物を持つ相手との距離や、崩れかけた床の踏み方なら、考えるより先に身体が判断した。

だが、入学式へ向かう保護者が、どんな顔で玄関に立てばよいのかは分からない。


十四歳の少女二人に身支度を確かめられながら、宗一郎は最後のボタンを留めた。




家を出ると、庭先の草に朝露が残っていた。

低い石塀の向こうでは、隣家の老人が鉢植えに水をやっている。三人に気づくと、手を止めて笑った。


「おや、今日は晴れの日だね」


凛が丁寧に頭を下げ、アリアも少し照れながら挨拶を返した。

宗一郎は会釈をする。

こんな朝のやり取りにも、まだ慣れきってはいなかった。


ダリア共和国の街、ミナスティリス。


三人がここへ越してきてから、まだ日が浅い。

以前の住まいは、宗一郎が仕事の合間に戻るための拠点だった。屋根があり、水が使え、眠れる場所があれば十分だった。

夜には通りで怒声が上がった。

酒場の前に割れた瓶が残り、知らない男が家の壁にもたれて眠っていることもあった。

自分一人なら、問題にはならない。

二人を暮らさせる場所として考えたとき、初めて、その家の欠点がいくつも目についた。

住む場所だけではなかった。

一緒に暮らすようになってから、宗一郎は何度か意外に思うことがあった。

店先に並ぶ品物の値段を比べるとき。

掲示板にある案内を読むとき。

魔法について、二人に尋ねられたとき。

知っていると思っていたことを、知らない。

凛は薬草の扱いや衣服の繕いに詳しかった。

アリアは初めて歩く道をよく覚え、人の顔と名前もすぐに結びつけた。

二人とも、教えれば理解した。

翌日には自分でやろうとしたし、分からなかったところを改めて聞いてくることもあった。

覚えられないのではない。

教わる機会が、なかったのだ。

気づいてからは、宗一郎もできる限り説明するようになった。

しかし、何をどの順番で教えるべきかと考えると、途端に分からなくなった。

彼自身、多くを必要に迫られて覚えてきた。

知っていることを言葉へ直しても、二人には前提となる知識がない。

その前提を説明しようとすると、さらに別の説明が必要になった。

長く生きていることと、人を育てられることは、同じではなかった。

危険の見分け方なら教えられる。身を守る方法も、食べ物を得る手段も知っている。

それだけで、二人はこれからの人生を選べるだろうか。


自分が用意した家で暮らし、自分の帰りを待つ。

その生活に安心してくれることは、嬉しかった。

玄関を開けたときに二人の声が聞こえることにも、いつの間にか慣れていた。

けれど、それ以外の暮らしを知らないまま、大人になってほしくはなかった。

いつか二人が何かを望んだとき、知らないから諦めるのではなく、どうすれば届くのかを考えられるようになってほしい。

自分で判断し、自分の力で生きていけるように。

そのためには、自分以外から学ぶ場所が必要だった。

学院へ通わせようと思ったのは、それからだ。


ミナスティリスは衛兵の巡回が行き届き、街の郊外には静かな住宅地が広がっていた。

そして、レガリア魔術学院がある。

二人が暮らし、学ぶ場所として、宗一郎はこの街を選んだ。



家から学院へ向かう道は、緩やかに街の中心へ近づいていく。

焼きたてのパンの匂いがして、アリアの目が店先へ動いた。凛も気づいたらしく、二人はほんの少し歩調を緩めた。


「帰りに寄るか」


宗一郎が言うと、アリアが顔を上げた。


「……いいの?」


「ああ」


凛の口元がほころんだ。

その顔を確かめてから、宗一郎は前方の曲がり角を指した。


「あそこは、内側を歩くな」


二人の表情が変わる。


「向こうから荷車が来ても、直前まで見えない。角へ出る前に一度止まれ」


アリアが角の向こうを覗き、凛は道の幅を確かめた。

少し先の橋では、宗一郎は石の継ぎ目を示した。


「雨の日は滑る。端の苔があるところは踏むな」


「ここ?」


「ああ。その辺りだ」


凛は頷いた。


「急いでいるときも、ですね」


「急いでいるときほどだ」 


大通りへ出ると、宗一郎は衛兵詰所の位置も教えた。

何かあれば、細い道へ逃げ込まず、ここへ来ること。

知らない相手について行かないこと。

二人が離れてしまったら、むやみに探し回らず、学院の門へ戻ること。

アリアは途中で宗一郎を見上げた。


「この道、前にも歩いたの?」


「何度か」


「私たちが家にいたとき?」


「ああ」


アリアは何か言いかけて、やめた。

代わりに、次の角を自分から見た。

凛も何も言わなかったが、ハンカチを渡したときより少し柔らかな目で、宗一郎の横顔を見ていた。



学院の尖塔は、通りの先から見えていた。

近づくほど、その大きさが分かる。

高い塀の向こうに、幾つもの塔が空へ伸びている。

正門の石柱には繊細な彫刻が刻まれ、奥に続く道の左右には、手入れされた樹木が並んでいた。

その先にある校舎は、凛が思い描いていた建物より、ずっと広く、ずっと高かった。

尖った窓。幾重にも重なる屋根。朝日を受けて明るく見える石壁と、奥まった回廊に残る涼しい影。

門をくぐる生徒たちは、皆、自分たちと同じ制服を着ていた。


「……すごい」


アリアが呟いた。

いつもなら、もっと言葉が続く。

今日はそれだけだった。

凛は胸元の布をそっとつまんだ。

昨日も、今朝も、自分がこの制服を着ていることが不思議だった。

母の手伝いをしながら薬草を分けていた頃、学院の話を聞いたことはある。けれど、遠い街にある、知らない誰かが通う場所だった。

自分がこの門をくぐる日など、考えたこともなかった。


嬉しかった。

そう思った途端、胸の奥が少し痛んだ。

この姿を見せたい人が、もういない。

制服を着た自分を見たら、母は何と言っただろう。

似合っていると笑ってくれただろうか。襟を直して、忘れ物はないかと尋ねただろうか。

今朝、自分が宗一郎にしたように。

凛は俯きかけて、もう一度、校舎を見上げた。


――お母さん。


声にはしなかった。


――今日から、ここで勉強するんだよ。


喉の奥が熱くなる。

泣いてしまえば、隣の二人が心配する。

それに、今日は嬉しい日だった。

その嬉しさまで隠したくはなかった。

凛はゆっくり息を吸った。

隣では、アリアも黙って校舎を見ていた。

門へ来るまで弾んでいた声が、しばらく聞こえない。

凛はその袖に、指先でそっと触れた。

アリアが振り向く。

二人は少しのあいだ見つめ合い、それから、小さく笑った。

何を考えていたのか、尋ねる必要はなかった。

少し後ろで、宗一郎は二人を見ていた。

声をかけようとして、そのまま待った。

やがてアリアが案内板を見つけ、凛の手を引いた。


「ねえ、研究会の紹介もあるって」


「薬草の研究会も、あるでしょうか」


「あるんじゃない? これだけ広いんだし」


「同じクラスだといいですね」


「うん。まず、それ」


二人は案内板の前へ並んだ。

その近くで、新入生らしい男子が友人の袖を引いた。

声を落として何か言い、二人の方を見る。

友人もつられるように顔を上げた。

淡い色の髪と、鮮やかな赤い髪。

並んで立つ二人は、それぞれに整った顔立ちをしていた。柔らかく微笑む凛と、表情がくるくる変わるアリア。門をくぐる生徒の中には、通り過ぎてから振り返る者もいた。

凛は視線に気づくと、誰かの邪魔をしているのかと思って半歩寄った。アリアは一度だけ相手を見たが、すぐに案内板へ向き直った。


宗一郎は周囲に目を配りながら、ほかの保護者たちも見ていた。

息子の肩を叩いている父親。

娘の髪を直している母親。

大丈夫だと繰り返し言う人もいれば、生徒より落ち着かない様子の人もいる。


自分も何か言うべきなのか。


そう考えているうちに、式場への案内が始まった。


「あの、宗一郎さん」


凛が振り返った。


「私たちは、こちらみたいです」


「ああ」


「保護者はあっちだって」


アリアが別の入口を指す。

宗一郎は頷いた。

そして、二人が歩き出す前に言った。


「帰りは正門で待っている」


凛の肩から、わずかに力が抜けた。


「はい」


アリアも頷く。


「……じゃあ、あとで」


二人が並んで生徒用の入口へ入っていく。

その姿が見えなくなってから、宗一郎は保護者席へ向かった。



式場は、大聖堂を思わせる広間だった。

高い天井を支える柱が奥まで並び、窓には色硝子が嵌め込まれている。

差し込んだ光が、床の上に淡い青と金の模様を落としていた。

凛とアリアは、隣り合う席に座れた。

それだけで、凛は少し落ち着いた。

それでも膝の上の手は固く重なっている。

正面を見る。周囲を見る。また正面を見る。

アリアも背筋を伸ばしていたが、その足先が一度だけ小さく動いた。


「緊張してる?」


凛が小声で尋ねる。

アリアは前を向いたまま答えた。


「……少し」


凛は安心したように微笑んだ。

自分だけではない。

やがて、教職員の一人が開式を告げた。

広間から話し声が引いていく。

学長の名が呼ばれると、一人の老魔術師が壇上へ進んだ。


アルベルド・リヒター。


長めの白髪と、胸元へ届く白い髭。

ゆったりとしたローブをまとい、片手には白い樹を思わせる杖を携えている。

杖の先端には、紫色の半透明の球が浮かんでいた。

支えるものは見えない。

凛は思わず、その不思議な光景を目で追った。

アルベルドは壇の中央で立ち止まった。

新入生の列を、ゆっくり見渡す。

次いで、その後ろに座る保護者たちへ目を向けた。

ほんの少し、間があった。

白い髭の上で、口元が緩む。



「……ふむ、面白い」


その呟きは、広間の奥までは届かなかった。

近くにいた教師が顔を上げたが、アルベルドはすでに生徒たちへ視線を戻していた。


「新入生の諸君。ようこそ、レガリア魔術学院へ」


穏やかな声だった。

力を込めて張り上げているようには聞こえない。

それでも、後ろの席まで言葉が明瞭に届いた。


「今朝は、楽しみで早く目が覚めた者もおろう。心配で、あまり眠れなかった者もおるかもしれん」


新入生の列に、小さな笑いが起きた。


「ここへ来るまでに、何を学んだか。どんな暮らしをしてきたか。それは、一人一人違う。隣の者が知っていることを、自分だけ知らぬ日もあるじゃろう」


凛の指が、膝の上でわずかに動いた。


「じゃが、知らぬことを恥じる必要はない。知るために、諸君はここへ来たのじゃからな」


アルベルドは、杖を持たない方の手を静かに開いた。



「魔法の才は、人の価値を決めない」



広間が静まる。


「大きな炎を生む者がおる。その炎を消す方法を考える者もおる。火傷をした人の手を取り、治そうとする者もおる。どれが欠けても、救えぬものがある」


凛は顔を上げた。


「自分の得意を知りなさい。そして、他人の得意にも目を向けなさい。一人では分からぬことが、誰かと話すことで分かる日がある」


隣のアリアが、こちらをちらりと見た。

凛も目を向ける。

今度は、二人ともすぐには逸らさなかった。


「失敗をしたなら、なぜ失敗したかを考える。困っている者がおれば、声をかける。自分が困ったときには、助けを求める。それも、ここで学んでほしいことじゃ」


後方の席で、宗一郎は黙って聞いていた。

生徒へ向けられた言葉だった。

だが、助けを求める、という一節は、妙に耳に残った。


「諸君が、この学院でよい友と出会い、まだ知らぬ自分の可能性を見つけることを、わしは楽しみにしておる」


アルベルドが頭を下げる。

拍手が広間を満たした。

凛は手を叩きながら、さっきまでより少し深く息ができることに気づいた。



二人の名前は、同じ教室の名簿にあった。

アリアは確かめると、すぐ凛を振り向いた。

凛も見ていた。

大きな声を出す場所ではないと分かっていたので、二人は笑うだけにした。それでも嬉しさは、十分に伝わった。

教室へ向かう途中、アリアは隣を歩いていた少女に声をかけた。


「その案内、研究会のことも書いてある?」


「あ、うん。まだ見学の日は先みたいだけど」


「見せてもらってもいい?」


そんなやり取りをしているうちに、もう一人が加わった。

教室へ着く頃には、アリアは二人の名前と、片方の家に猫がいることまで知っていた。

凛は、その少し後ろを歩いていた。

話にはついていける。

けれど、どこで口を開けばよいのか分からない。

答えを考えているあいだに話題が変わり、笑うところで少し遅れてしまう。

うまく入れない自分が気になって、ますます声が出にくくなった。


教室の入口で、アリアが振り返った。


「凛」


呼ばれて、凛は顔を上げる。

アリアは急かさなかった。

少し戻ってきて、凛の隣に立つ。


「研究会の話、してたんだ。凛、薬草のこと好きでしょう?」


「あ……はい」


「私、全然分からないから。今度、教えて」


一緒にいた少女が言った。

凛は戸惑った。


「私も、少ししか……」


「少しでも知ってるなら、私より詳しいよ」


少女が笑う。

その笑顔に、凛の肩が少し下がった。


「母が、薬草を使っていたので。手伝っていたんです」


今度は、言葉が続いた。

アリアは凛を見て、それから何も言わずに隣へ並んだ。

教室には、机が整然と置かれている。

窓際の席では、淡い茶色の髪の少女が椅子を引いていた。

こちらに気づくと、勢いよく手を振る。


「ねえ、同じクラスだよね? 私、ここ座っていいのかな。まだ席って決まってない?」


アリアが笑った。


「私たちも、今来たところ」


「そっか。じゃあ一緒に迷おう」


凛も、今度は遅れずに笑えた。



教室での説明が終わる頃、宗一郎は図書室にいた。

式のあと、保護者には校舎の一部が見学用に開放されていた。

廊下の案内を見て入ったのだが、想像していた部屋とは違った。

書架が、遠くまで続いている。

天井に近い棚へは、壁沿いの階段と上階の回廊から手が届くようになっていた。

重い木の机が幾つも並び、古い革と紙の匂いが、乾いた空気の中に沈んでいる。

窓から入る光の筋に、細かな埃が浮いていた。

生徒はいない。

宗一郎は書架の間を歩き、背表紙の文字を眺めた。


魔法理論。


薬草学。


歴史。


見覚えのある土地の名もあれば、知らないものもあった。

凛なら、どの棚で足を止めるだろう。

薬草の本を見つければ、しばらく動かなくなるかもしれない。アリアは、その間に別の棚まで行ってしまいそうだった。

一冊へ手を伸ばしかけて、止める。




「何か用か」




静かな声が、書架の間へ落ちた。

離れた棚の向こうで、アルベルドは足を止めた。

宗一郎はこちらを見ていない。

本の背表紙へ向けていた視線も、そのままだった。

それでも、誰に呼びかけたのかは明らかだった。

この図書室には、ほかに人がいない。


アルベルドは自分の術式を確かめた。

姿は周囲の光と影へ馴染ませている。

足音も衣擦れも消していた。

魔力の漏れも、極限まで絞ってある。

完全な無にはできない。


だが、残るものは、図書室に漂う魔力の揺らぎへ埋もれるほど微細だった。

それを感知できたとしても、人が一人、書架の後ろに立っていると判断できるようなものではない。

少なくとも、これまではそうだった。


アルベルドは宗一郎の背を見た。

式場で目を引かれたのは、その振る舞いだった。

周囲の保護者を眺めているようで、入口へ入ってくる人や、列の間を歩く教師には必ず目を向ける。

椅子に座っていても、身体のどこにも鈍い緩みがない。

戦いを知る者の仕草だった。

しかも、それを人に見せるつもりがない。

少し確かめてみたくなった。

気づかれなければ、そのまま離れるつもりだった。

生徒の説明が終わるまでの、短い好奇心にすぎなかった。

それが今、こちらが何もする前に呼び止められている。


何を捉えたのか。


術式の綻びか。僅かな魔力の漏れか。

尋ねたい気持ちが湧く。

アルベルドは隠密を解いた。

柱の影と重なっていたローブの輪郭が、徐々に明瞭になる。

宗一郎が振り向いた。

その顔に、大きな変化はなかった。

学長が現れたことへの驚きも、隠密を見破ったことを誇る様子もない。

ただ、用件を待っている。


――ふむ。相当な使い手じゃな。


アルベルドは白い髭を撫でた。


「邪魔をしたかね」


「いや」


宗一郎は老魔術師を見た。

先ほど、壇上に立っていた男だ。

なぜ姿を隠していたのか、見当はついた。

だが、それを問い詰めるほどのことでもなかった。

敵意があるなら、こうして穏やかに話しかけてはこない。

それより、この男とは少し話しておきたかった。

二人がこれから通う学院の長だ。

式での話は、悪くなかった。

ただ、壇上で生徒へ語る言葉と、目の前の相手へ向ける態度が、必ず一致するとは限らない。

宗一郎は相手の次の言葉を待った。


「どなたの保護者かね」


「凛とアリアだ」


「二人とも、新入生か」


「ああ」


「お名前を伺っても?」


「宗一郎」


「宗一郎殿か。わしはアルベルド・リヒター。この学院の学長をしておる」


「知っている。話は聞いた」


「それはよかった。後ろの席まで届いたか、時々気になるのでな」


アルベルドはそう言って笑った。

宗一郎は笑わなかったが、拒むような顔でもなかった。

必要なことには答える。

余分なことは言わない。

口数の少ない相手との話し方は、アルベルドも心得ていた。沈黙を埋めようとせず、少し待ってから尋ねる。


「この学院を選んだ理由を、聞いてもよいかね」


宗一郎は棚に並ぶ本へ目を向けた。

学ばせようと思った理由を、どこから説明すべきか。

二人が知らなかったことを、一つずつ挙げる必要はない。この男が聞いているのは、恐らくそういうことではなかった。


「学べるものが多い」


「なるほど」


「俺が教えられることには、限りがある」


アルベルドは黙って続きを待った。


「二人が、自分で生きていけるようになればいい。そのために、何をしたいのか見つけられる場所が必要だと思った」


言い終えると、宗一郎は学長へ視線を戻した。

アルベルドの手が、髭の上で止まっていた。

力量を探るつもりで始めた会話だった。

だが、宗一郎は自分の仕事や実績を語らず、二人の将来の話をした。

学院の名声を口にすることも、優秀な魔術師に育ててほしいと求めることもない。

ただ、二人が自分で生きるための場所を探していた。


「魔術師になってほしいわけではないのかね」


「二人が望むなら、それでいい」


「望まなければ?」


「ほかを選べばいい」


答えは短かった。

けれど、迷っているようには聞こえなかった。

アルベルドは宗一郎の顔を見た。

無関心だから、好きにすればよいと言っているのではない。

選べるようにしたいのだ。

そのために、ここまで連れてきた。

アルベルドはゆっくり頷いた。


「入学したばかりでは、まだ分からぬことも多いじゃろう。やってみて、思っていたものと違うこともある」


「ああ」


「それでよい。ここで試して、考えて、選び直せばよいのじゃ。教師にも友にも、助けてもらいながらな」


宗一郎は、その声を聞いていた。

式場での言葉と同じだった。

だが今は、大勢へ向けた挨拶ではない。 目の前にいる一人の保護者へ、二人の生徒の話として答えている。

先ほどまで口元にあった、何かを面白がるような笑みも薄れていた。

宗一郎の肩から、僅かに力が抜ける。


「よい場所になるよう、わしらも努めよう」


アルベルドが言った。


「頼む」


その一言には、先ほどまでより重みがあった。

アルベルドは静かに受け止めた。

強さを知りたいという好奇心は、まだある。

だが、この男が二人を預けるために来たことを忘れてはいけない。

その信頼へ応えることが、学院の長として先にするべきことだった。

少し間を置いてから、アルベルドは尋ねた。


「お仕事は?」


「ハンターだ」


「そうかね。等級は」


「B」


アルベルドは、すぐには返事をしなかった。




B。




心の中でもう一度、その等級を確かめた。

決して未熟な等級ではない。十分に経験を積んだ者もいる。

しかし、自分の隠密を、ああも容易く見破る者の登録としては、どうにも収まりが悪かった。

宗一郎は付け加えない。

謙遜するでも、相手の反応を窺うでもなく、ただ事実を答えたという顔をしている。

アルベルドは髭を撫でた。

分かったことより、分からなくなったことの方が多い。

それが、少し愉快だった。


「……そうか」


その先を尋ねようとしたとき、遠くで鐘が鳴った。

宗一郎の目が、入口へ動く。


アルベルドは問いを収めた。

「そろそろ、新入生たちの説明も終わる頃じゃな」


「ああ」


「引き留めて悪かった。また会おう、宗一郎殿」


宗一郎は軽く頷いた。

アルベルドは今度は姿を隠さず、書架の向こうへ歩いていった。

宗一郎はその背を一度だけ見送った。

話しておいてよかった。

そう思いながら、図書室を出た。



正門の外には、迎えに来た保護者たちが集まっていた。

宗一郎は門柱の近くに立ち、生徒が出てくるたびに目を向けた。

やがて、五人の少女が見えた。

アリアが何か話し、隣の少女が笑っている。

凛もその輪の中にいた。朝より表情が柔らかい。

先に気づいたのは凛だった。

歩きながら宗一郎を見る。

一瞬、目が明るくなった。


「あ……」


その声で、アリアも顔を上げる。

二人の歩調が少し速くなった。


「待ちましたか?」


凛が尋ねた。


「それほどでもない」


「同じクラスだった」


アリアが言った。


「ああ」


宗一郎の目元が、ほんの少し緩んだ。

それを見て、アリアも笑いかけた。

そのとき、隣から勢いのよい声がした。


「えっ、凛とアリアのお迎え?」


淡い茶色の髪の少女が、宗一郎を見上げている。

教室で、三人目に話へ加わった少女だった。

ほかの二人が先に頭を下げた。


「こんにちは」


「同じクラスになりました」


宗一郎も会釈を返す。


「よろしく頼む」


「え、めっちゃかっこいいですね!」


茶色い髪の少女が、目を輝かせた。

凛は瞬きをした。

アリアも、口を開きかけたまま止まった。

宗一郎は少しだけ首を傾げた。


「……そうか」


「お兄さんですか? お父さん……ではないですよね?」


「二人の保護者だ」


「保護者! そうなんだ。すごく素敵ですね。背、高いし……筋肉もすごい!」


少女の目が、上着の肩へ動く。

触れはしなかったが、感心したように自分の腕と見比べていた。


「お仕事、何してるんですか?」


「ハンターだ」


「やっぱり! 強そうだと思った!」


言葉が次々に出てくる。

宗一郎は問われたことに、一つずつ答えていた。

凛はその横顔を見ていた。

特に嬉しそうではない。

困っているようにも見えない。

それでも、胸の辺りに、小さな落ち着かなさが生まれた。

今朝、ハンカチを渡した人だった。

襟が曲がっていて、アリアにシャツを指摘されていた人。

その人が、知らない場所で、知らない見え方をしている。

凛は何か話そうと思ったが、少女の言葉が続いていて、声を入れる隙間がなかった。

アリアは片手で鞄の持ち手を握り直した。

もう帰る時間ではないか。

そう言おうとして、飲み込んだ。

友達はただ、楽しそうに話しているだけだった。

宗一郎も答えている。

割って入る理由が、自分でもうまく見つからなかった。


「こら、あなた」


少し離れたところから、女性が早足で近づいてきた。

茶色い髪の少女が振り返る。


「お母さん。この人、凛とアリアの――」


「聞こえていました。初対面の方に、そんなに次々と」


女性は宗一郎へ頭を下げた。


「申し訳ありません。お引き留めしてしまって」


「構わない」


「ほら、帰るわよ」


少女は連れられながら、振り返って手を振った。


「凛、アリア、また明日! お迎え、いいなあ!」


ほかの二人も、それぞれ家族を見つけた。

五人の輪は、少しずつほどけていった。

凛とアリアは手を振り返し、宗一郎の隣へ戻った。


「帰るか」


「あ……はい」


「うん」


朝より、二人の返事が静かだった。



橋を渡ったところで、宗一郎が尋ねた。


「楽しくなかったのか」


凛が顔を上げた。


「楽しかったです」


ほとんど同時に、アリアも言った。


「楽しかったよ。同じクラスだったし」


「そうか」


宗一郎は頷いた。

問いを重ねなかった。

凛は隣のアリアを見た。

アリアもこちらを見ていた。

二人とも、何か言いたそうな顔だった。

けれど、言葉にするほどはっきりしたものでもなかった。

しばらく歩いてから、凛が口を開いた。


「学長先生のお話、よかったですね」


「ああ」


「助けを求めることも、学ぶことだって」


「うん。あと、失敗してもいいって」


アリアが続けた。

その声は、少しずつ普段の調子に戻っていく。

パン屋の前へ来ると、朝とは違う甘い匂いがした。

宗一郎が足を止めた。


「寄るんじゃなかったか」


二人が店先を見る。

丸いパンの表面に、細かな砂糖が光っていた。

アリアが凛へ顔を寄せた。


「あれ、半分ずつ食べない?」


凛が頷いた。

先ほど胸にあった落ち着かなさは、店の扉を開く頃には、もう薄れていた。



家へ着くと、二人は制服を汚さないよう気をつけながら椅子に座った。

宗一郎が湯を沸かしているあいだにも、話は途切れなかった。

同じクラスになったこと。

担任の教師が、声は大きいのに説明は丁寧だったこと。

研究会の見学は、少し先にあること。

校内の廊下が長くて、途中で道が分からなくなりかけたこと。


「アリアは、もう場所を覚えたんですか?」


「全部じゃないよ。でも、教室と正門は分かる」


「私は、教室から階段までなら……」


「そこから先は一緒に行けばいいでしょ」


凛が笑う。

宗一郎は茶を注ぎ、二人の前へ置いた。

パンを皿へ移すと、アリアがすぐに二つへ分けた。

少し大きい方を凛へ渡す。

凛は気づいて、困った顔をした。


「同じくらいにしたつもり」


アリアが先に言った。

凛はそれ以上何も言わず、受け取った。

そして、今度は凛が話し始めた。


「教室の窓から、中庭が見えるんです。花壇があって……まだ何が植わっているのか分からなかったんですけど」


青い瞳が明るい。

手を動かしながら、花壇の位置を説明する。

アリアが横から、窓のそばにいた生徒の話を足す。

二人の声が重なり、どちらが先に話すか譲り合って、結局また笑う。


宗一郎は椅子に座り、その様子を見ていた。

出会った頃の二人は、こんなふうには話さなかった。

食事を前にしても、まず彼の顔を見た。

皿へ手を伸ばしてよいのか、確かめるように。

夜、宗一郎が立ち上がると、その動きを目で追った。用事を済ませて戻ってきても、二人は同じ場所で待っていることがあった。

必要なものを尋ねても、首を横に振るばかりだった。


大丈夫。


いりません。


平気。


そう言う声ほど、細かった。

何を言えば安心させられるのか、宗一郎には分からなかった。

だから食事を用意した。

暖かくして眠らせた。

出かけるときには、戻ると言った。

戻ったら、二人のいる場所へ顔を出した。

その繰り返しの中で、返事が少しずつ長くなった。

凛が、食事に使った草の名前を教えてくれた。

アリアが、宗一郎の帰りが遅いと文句を言った。

初めて小言を言われたとき、腹は立たなかった。

自分へ言ってもよいと、思ってくれたのだと分かった。


「宗一郎さん?」


呼ばれて、目を上げる。

凛が少し首を傾げていた。


「聞いていましたか?」


「ああ」


「じゃあ、私が見たい研究会は?」


宗一郎は答えた。


「薬草と、治癒魔法」


凛は嬉しそうに頷いた。


「はい」


アリアがパンの最後のひと口を食べる。


「見学、楽しみだね」


「ああ」


今度の返事は、自分に向けられた言葉ではなかった。

二人は気にせず、また明日の持ち物の話を始めた。

宗一郎は湯気の薄くなった茶へ目を落とした。


この二人を、大事にしたい。


そう思うことは、もう珍しくなかった。

だが、今日はその気持ちが、これまでよりはっきりしていた。

自分の手が届く場所で無事にしていれば、それだけで十分だと思っていた時期もある。

今、二人は自分の知らない教室の話をしている。

今日出会った人の名を呼び、次に行きたい場所を選んでいる。

その声を、明日も聞きたいと思った。



夜になっても、アリアはまだ一つ、話し忘れたことを思い出した。

階段の途中まで上がってから振り返り、食卓を片づけていた宗一郎へ声をかける。


「そうだ。図書室、すごく広いんだって」


「見た」


「え、入ったの?」


「ああ」


階段の下にいた凛が、目を丸くした。


「私たちは、まだ見ていません」


「そのうち行ける」


「どんな本がありましたか?」


宗一郎は少し考えた。


「多かった」


アリアが笑った。


「それじゃ分からないよ」


「薬草の本はあった」


凛の顔が明るくなった。


「明日、場所だけでも見てきたいです」


「私も行く」


アリアが言った。

二人はそのまま階段を上がりかけて、止まった。

凛が先に振り返る。


「あの、宗一郎さん」


「なんだ」


凛は両手を身体の前で重ねた。

今日、何度も言おうとしていた言葉だった。

学院の門を見たときも。

同じクラスだと分かったときも。

帰り道にも。

そのたびに、何から伝えればよいのか分からなくなった。

隣で、アリアも宗一郎を見ている。


「学院に通わせてくださって……ありがとうございます」


言い終えると、凛は少しだけ頭を下げた。

アリアは視線を落とし、また上げた。


「私も。……ありがとう」


宗一郎は二人を見た。

すぐに返す言葉が見つからなかった。

長い返事を期待して、二人が待っているわけではないことは分かった。

それでも、何かは伝えたかった。


「ああ」


声を出すと、凛の口元が緩んだ。


「明日も、遅れるなよ」


アリアが瞬きをした。

それから、笑った。


「今朝、一番遅かったの、誰?」


凛も笑いながら、口元へ手を添える。

宗一郎は否定しなかった。


「……そうだったな」


「明日はハンカチ、自分で持ってね」


「ああ」


二人はおやすみなさいと言って、寝室へ向かった。


まだ、別々には眠らない。

夜中に目を覚ましたとき、すぐ隣に相手がいる。その安心を、どちらも手放す必要はなかった。

扉が閉まる前に、アリアの声が聞こえた。


「凛、鞄、もう一回見よう」


「さっきも確かめましたよ」


「でも、明日から授業でしょ」


「はい。……楽しみですね」


扉が静かに閉まった。

宗一郎は片づけの途中で手を止め、階段の上を見ていた。

明日の話をしている。

二人とも、ごく当たり前のように。

しばらくして、宗一郎は食卓へ目を戻した。

朝、凛から渡されたハンカチが、上着の内側にある。

取り出して畳み直し、明日使う服のそばへ置いた。


階上からは、まだ小さな話し声が聞こえていた。

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