プロローグ
海の底にも、街がある。
陽の光が届かない深みに、幾つもの高い建物が沈んでいる。壁は崩れ、窓だった穴には泥が詰まり、むき出しの骨組みを海流が静かに撫でていた。
建物の間には、かつて道だったものが続いている。
その上に埋もれた、四つの車輪を持つ小さな箱。
遠く離れた斜面には、片翼を失った巨大な機体。
どれも長い歳月に削られ、海底の岩や堆積物と見分けがつかなくなりつつある。
そこに暮らしていた人々も、窓から見えた景色も、もう残っていない。
ただ、崩れた部屋の片隅に、二脚の椅子が向かい合っている。
誰が座っていたのか。
何を話していたのか。
その答えを知る者のいない海で、砂が少しずつ、椅子の脚を埋めていく。
遥か頭上の世界では、風が雲を運んでいた。
雲の切れ目に、空中へ浮かぶ都市の底が見える。
巨大な石の塊から幾筋もの影が地上へ落ち、その影を横切って飛行船が進んでいく。
十三の大陸に、人々の暮らしがある。
森を拓いた農村。
海へ張り出した港。
幾重もの城壁に囲まれた都市。
炉に火を入れる職人がいて、畑へ水を引く農夫がいて、掌に小さな灯りをともす子どもがいる。
治癒師は傷ついた身体へ魔力を流し込み、学院では教師が、生徒の描いた術式の誤りを指で示す。
魔法は、日々の営みの中にあった。
人々はその力を学び、磨き、道具へ組み込み、暮らしを支えている。
それでも、街道を行く馬車には護衛がついた。
夕暮れが近づけば、城門の前で御者が手綱を急がせる。
見張りは森の端へ目を凝らし、最後の旅人が通り過ぎるまで、門を閉めずに待つ。
地図に描かれた場所が、すべて安全であるわけではない。
道を外れた先には、人間を餌とする生き物がいる。山を越えた隊商が、荷物だけを残して消えることもある。
昨日まで通れた谷が、今日は通れなくなっていることもある。
そして、地図そのものが途切れる場所は、さらに遠くまで続いていた。
人類が記録した世界は、およそ六割。
残る空白へ向かった者の中には、戻らなかった者がいる。
戻ってきても、そこで見たものを語れなくなった者がいる。
新しい地名が一つ書き込まれるまでに、いくつの名前が失われたのか。
地図には、それを記す欄がなかった。
遺跡の奥で、空間が裂けることがある。
人の営みが途絶え、濃い魔素が不安定なまま漂う場所に、その亀裂は生じる。
最初は、壁に落ちた細い影のように見える。
だが、灯りを近づけても消えない。
見る角度を変えても、そこにある。
石壁の模様とも、奥へ続く通路とも違う暗がりが、何もない空間に口を開けている。
人々はそれを、混沌淵と呼んだ。
その向こうに、何があるのかは分からない。
ただ、こちらへ出てくるものはある。
形を見ただけで足がすくむ異形。
幾人もの魔術師が築いた防壁を破り、迎え撃つ兵を押し潰し、なお進み続けるもの。
邪神。
その名を聞けば、ハンターは依頼書の続きを慎重に読む。
衛兵は応援が届くまでの時間を数える。
親は子どもを呼び寄せ、避難路を確かめる。
人々は戦った。
剣を鍛え、魔術を受け継ぎ、砦を築いた。
遠くの異変を見つけるために見張りを置き、負傷者を運ぶために道を整えた。
七大英雄の名が語られる酒場では、帰ってこなかった仲間の席へ、酒が置かれる夜もあった。
英雄の勝利が届いた街にも、弔いの鐘は鳴った。
それでも翌朝には、誰かが店を開ける。
誰かが、壊れた家の石を積み直す。
子どもが腹を空かせるから。
畑の手入れをしなければ、次の冬を越せないから。
失われたものを抱えたまま、人々は今日の仕事へ戻っていった。
この世界の歴史には、繋がらない箇所がある。
発掘された品を並べても、古い文字を読み解いても、その先へ進めなくなる。
今の技術では再現できない道具。
使い道の分からない構造物。
誰が造ったのかさえ定かでない遺跡。
過去へ近づこうとするたびに、そこには深い空白があった。
学者たちは、その断絶をミッシングラインと呼ぶ。
何が失われたのか。
なぜ、失われたのか。
答えを求める者は、今も遺跡へ降りていく。
灯りを掲げ、足元を確かめ、読めない碑文を写し取る。遠い時代の誰かが残したものを、少しでも持ち帰ろうとする。
海底の椅子に座っていた人々のことは、まだ誰も知らない。
その男が目を覚ましたときも、周囲には廃墟があった。
約四百年前のことだった。
それ以前の記憶はない。
どこで生まれたのか。
誰と生きていたのか。
なぜ、その場所で眠っていたのか。
思い出そうとしても、何も掴めなかった。
傍らには、漆黒の大剣があった。
長い十字の鍔と、刃を持たない歪んだ刀身。
中央には、閉じた眼にも似た赤いものが埋め込まれている。
男は、その剣を携えて廃墟を出た。
宗一郎。
かすかに覚えていたその名を、自分の名として使った。
自分のものだったのかどうか、確かめる術はなかった。
年月が過ぎた。
人と出会い、別れた。道が整備され、村が街になり、かつて泊まった宿がなくなった。顔見知りのハンターが仕事を辞め、後にその子どもが、同じ武器を持って現れた。
宗一郎の姿は変わらなかった。
髪は伸びた。
負った傷は痛んだ。
戦いの後には、身体が疲労を訴えた。
それでも老いだけが、彼を通り過ぎていく。
理由は分からない。
邪神を見たとき、胸の奥から湧き上がる衝動についても、彼は説明できなかった。
滅ぼさなければならない。
その確信だけがあった。
宗一郎は邪神を追った。
遺跡へ入り、戦い、また別の土地へ向かった。人に問われれば仕事だと答えた。それ以上を話すことは少なかった。
長く留まる場所を持たず、帰りを待つ者を持たず、その生き方を続けていた。
二人の少女に出会った、あの冬までは。
雪の降る森で、宗一郎は二人の少女に出会った。
凛と、アリア。
戦災で家族を失った二人には、帰る場所がなかった。寒さの中で身を寄せ合い、彼が近づいても、すぐには助けを求めようとしなかった。
宗一郎は二人を連れ帰った。
食事を用意し、暖かい場所で眠らせた。必要なものを尋ねても、初めのうちは、遠慮がちな返事しか戻ってこなかった。
それでも、暮らしは続いた。
凛が、食卓で好きなものを話すようになった。
アリアが、帰りの遅い宗一郎に文句を言うようになった。
仕事から戻ると、玄関で足音がする。扉が開き、二人が彼の顔を見て、ようやく安心したように笑う。
いつから、その顔を見たいと思うようになったのか。
宗一郎には、はっきりとは分からない。
ただ、帰りが遅くなるときには、待っている二人のことを考えるようになっていた。怪我をすれば、傷の痛みより先に、見つかったときの小言が頭をよぎった。
旅先で食べた料理を、今度は三人で食べようと思うことがあった。
そうして季節が巡り、二人は十四歳になった。
ダリア共和国、ミナスティリス。
夕方の巡回を終えた衛兵が交差点を曲がり、店先では商人が木戸を下ろしていた。街の中心に聳えるレガリア魔術学院の尖塔には、まだ薄い日の光が残っている。
郊外の住宅地に、一軒の家があった。
低い石塀。
小さな庭。
窓から漏れる、暖かな灯り。
食卓には、三人分の器が置かれている。
「宗一郎さん、お茶を淹れました」
銀白の髪の少女が、湯気の立つカップを運んでくる。
もう一人の少女は、翌日に着る制服を椅子の背へ掛けていた。赤い髪を肩から払うと、三つのカップを順に見て、宗一郎の席へ砂糖を寄せる。
「明日、ちゃんと起きてよ。私たちだけ先に行くのは嫌だから」
「ああ」
「返事だけじゃなくて」
宗一郎は少女を見た。
その目が真剣だったので、もう一度頷いた。
「分かった」
銀白の髪の少女が、小さく笑った。
明日は、二人が学院へ入学する日だった。
朝は何時に家を出るのか。
何を持っていけばよいのか。
教室で迷わずにいられるだろうか。
二人は確かめ合い、少し心配して、それからまた楽しそうに話した。
宗一郎は、その声を聞きながら茶を飲んでいた。
カップを置くと、片方の取っ手が欠けていることに気づく。転居の荷物を運んだ際にぶつけたものだった。
明日、帰りに買っておこう。
二人の分も、新しいものを選ばせればいい。
そう考えてから、彼は窓へ目を向けた。
外は、もう暗かった。
街の向こうには森があり、その先には、幾度となく歩いてきた道がある。剣を携えて出れば、また長い旅を続けることもできた。
「宗一郎さん?」
呼ばれて、振り返る。
「明日の朝ごはん、何にしますか?」
宗一郎は少し考えた。
二人が待っている。
「……温かいものがいいな」
「それだけ?」
赤い髪の少女が笑った。
もう一人も笑いながら、幾つか料理の名を挙げる。
宗一郎はその中から一つを選んだ。
窓の外で、風が庭木を揺らしていた。
食卓の上には、明日の朝の話が続いている。
宗一郎は茶を飲み終えても、しばらく席を立たなかった。




