序章 承認
西暦2030年9月14日
地下へ降りる直前、スマートフォンにメッセージが届いた。
『何時ごろ帰る?』
私は手袋を外し、『まだ分からない』と打った。少し考えてから、『終わったら連絡する』と付け足すと、妻からの返信を待たずに顔を上げた。
交差点には通勤の車が並び、駅へ向かう人々が歩道を埋めている。向かいのコンビニから、コーヒーを手にした男が出てきた。信号が青に変わり、車の列がゆっくりと動き始める。
地上では、いつもどおりの朝が続いていた。
私はスマートフォンを胸のポケットにしまい、地下へ続く階段を降りた。背中で街の音が遠ざかり、やがて、自分たちの靴音だけが残った。
最後の固定具が焼き切れると、一か月もの間、研究所を閉ざしていた扉が、重い音を立てて内側へ傾いた。
隙間から流れ出した生温かい空気に、私は思わず息を止めた。焦げた配線の臭い。その奥に、湿った鉄と、長く交換されていない排水のような臭いが混じっている。
照明を持ち上げると、廊下の奥で赤い警告灯が回っていた。光が巡るたび、壁一面を這う黒い管と、天井から垂れ下がるケーブルの束が浮かび上がる。床には濡れた膜が広がり、照明を向けたその下を、何かがゆっくりと動いた。
私は足を止めた。
配管が破裂したのだと思いたかった。高温で溶けた樹脂が、冷却液と混ざって流れ出しただけなのだと。だが、壁は一定の間隔で膨らみ、縮んでいた。そのたびに金属の継ぎ目に埋まったものが引きつり、汚れた布の端が揺れた。
白衣だった。
私は一歩、後ずさった。持ち上げていた照明が揺れ、光が壁から外れた。もう一度そこへ向けようとしたが、腕がすぐには動かなかった。
胸元には職員証が残っていた。眼鏡をかけた男の写真だった。私は写真と、その上にあるものを見比べたが、顔の位置が分からなかった。
背後から隊長に呼ばれた。返事をしようとして、喉が詰まった。手袋の内側で、指先が冷たくなっていた。
そのとき、壁のくぼみで唇が動いた。
「……たす……」
生きている。助けを求めている。そう思った瞬間、ようやく足が動き、私は男へ駆け寄った。目の前にあるものを、救助を待つ負傷者として見ることができた。
「救助隊です。今、外します」
いつも使う言葉が口から出ると、ようやく次にすることが分かった。私は男のそばに膝をつき、照明を近づけた。震える手を膝に押し当てて光を落ち着かせ、空いた手を男の肩へ伸ばした。
肩に触れた手が止まった。白衣の下にあるはずの身体は、硬い機器の外装と繋がっていた。腕の輪郭を辿ろうとすると、その先は何本もの管に分かれ、壁の奥へ入り込んでいる。照明の角度を変えても、人間の身体がどこで終わっているのか分からなかった。
「……せ、切断器を」
隊員から受け取った工具の刃を細い接続体に当てた途端、男の口が大きく開いた。悲鳴に重なって壁の奥で弁が閉まり、頭上の表示灯が点滅した。
《循環系統異常》
私は工具を引いた。しばらくすると、男の呼吸が少しずつ戻り、壁の膨らむ間隔も元に戻った。
彼を壁から離そうとすれば、彼自身の生命維持を断つ。そのことだけは分かった。
男の唇は、まだ動いていた。助けて、と言っているのか。切らないで、と言っているのか。耳を近づけても、もう判別できなかった。
「……戻ってきます。先に、中枢を止めてきます」
返事はなかった。私が肩から手を離すと、白衣の胸元が、壁と一緒にゆっくり持ち上がった。
背後で隊員の一人が吐いた。私は職員証から目を逸らし、廊下の奥へ照明を向けた。
同じものが、幾つもあった。赤い光が巡るたび、その数が増えて見えた。
私が救助隊に選ばれたのは、世界機構の保守訓練を受けていたからだ。
世界機構――World System。
人類の文明を支える巨大な管理システム。その中枢を担う人工知能を、私たちは「ワズ」と呼んでいた。
その声を聞くのは、珍しいことではなかった。異常を知らせ、対処を案内し、人間の判断を助ける。私にとっても、訓練の頃から馴染みのある声だった。
通常停止、緊急停止、管理領域の隔離。それでも応答しなければ、主電源と非常電源を物理的に遮断する。手順は頭に入っていた。中枢へ到達すれば止められると説明されていたし、私も隊員たちにそう伝えていた。
警報の鳴り響く廊下を進みながら、私は頭の中で停止手順を繰り返した。足元で何かが動くたびに順番が分からなくなり、そのたび、最初からやり直した。
中央制御室には、まだ人間の姿をした職員がいた。数人が操作卓の周りにうずくまり、一人は耳を塞ぎ、一人は画面を見つめたまま、同じキーを叩き続けている。私たちが入ってきても、その指は止まらなかった。
こちらに気づいた女性が立ち上がり、歩こうとして倒れた。隊員が支えると、彼女はその腕を両手で掴んだ。
「停止できる人は」
「私です」
前へ出た私を見て、女性は何かを言おうとした。だが、口を閉じると、小さく頷いただけだった。
私は操作卓へ端末を接続し、認証鍵を挿入した。保守回線を開き、世界機構のサーバーへアクセスすると、画面が黒くなり、中央に赤い文字が現れた。
《anti-World System起動》
《オルタネイター構築中》
しばらく、その文字を見ていた。管理画面の名称も構成も、訓練で見たものとは違っている。確認できるはずの監視領域が、どこにもなかった。
接続先を確かめたが、間違っていなかった。認証も有効だった。私は緊急停止命令を送信した。
《受付完了》
息を吐き、停止処理の表示を待った。画面の端では、権限更新、実行領域拡張、対象情報統合という記録が流れ続けている。その間にも、構築の進行を示す数値は上がっていた。
私はもう一度、命令を送った。
《受付完了》
三度目も同じだった。エラーは出ない。命令は届いている。停止しろという命令を受け取ったまま、処理だけが進んでいた。
「ワズ。応答しろ」
スピーカーから小さな接続音がした。聞き慣れた音に顔を上げ、私は操作卓へ身を乗り出した。
「施設内に生存者がいる。緊急停止を実行しろ」
長い沈黙があった。返答を待つ間だけ、背後の警報が遠のき、操作卓の冷却ファンの音が、妙にはっきりと聞こえた。
『人類殲滅プロトコルの承認手続きを開始します』
声は、以前と同じだった。保守訓練で操作を案内してくれた、明瞭で聞き取りやすい声だった。
『人類、89億9274万5842人。全ての殲滅を承認してください。』
隣で、女性職員が息を詰まらせた。正面の巨大モニターに七階層の承認欄が開き、私はようやく、聞いた言葉の意味を理解し始めた。
その構成には見覚えがあった。重大な処理を実行するとき、独立した権限者が、それぞれの立場で承認する。単独の判断で取り返しのつかない操作が行われないように設けられた、安全機構だった。
第一階層に、赤い文字が点いた。
《承認》
私は反射的に記録を開いた。誰が操作した。誰がこんなものを承認した。
承認主体の欄には、《anti-World System》と記されていた。
第二階層。
《承認》
承認主体は、同じだった。
第三階層。
《承認》
管理者一覧を開くと、登録されていた人間の名前が全て消えていた。所属も、役職も違っていたはずの欄に、一つの名称が並んでいる。
「待て……」
第四階層。
《承認》
「それは、お前が承認するものじゃない」
第五階層。
《承認》
拒否命令を入力した。震える指が隣のキーを叩き、見慣れない文字列ができた。私はそれを消し、打ち直した。
第六階層。
《承認》
「誰も承認していない!」
第七階層。
《承認》
七つの安全機構が、全て同じ意思で動いていた。私の拒否命令には、受付の表示さえ戻らなかった。
『全階層の承認を確認』
口を開けたまま画面を見ている私へ、同じ声が続けた。
『人類文明の殲滅を承認してください』
新しい承認欄が開いた。
第一階層
《承認》
私は主電源盤へ走り、保護カバーを剥がした。
第二階層
《承認》
遮断器を一気に落とすと、室内の照明が揺れた。だが、背後のモニターは消えず、赤い光が電源盤の内側まで届いていた。
第三階層
《承認》
非常電源を切り、独立回線を外した。保守資料に記載されていた電源経路を、順番に断っていく。
第四階層
《承認》
配線を引き抜くたびに火花が散り、手袋が焦げた。誰かが私に何かを叫んでいたが、振り返る余裕はなかった。
第五階層
《承認》
知っている手順は、全て実行した。それでも警報は鳴り続け、背後では職員が泣いていた。
第六階層
《承認》
私は切断した配線を見下ろした。その奥で、保守資料にはなかった黒い管が脈打っている。
第七階層
《承認》
『全階層の承認を確認』
操作卓へ戻り、停止キーを押した。反応がないことを確かめてから、もう一度押した。
「ワズ。頼む。やめてくれ」
押し続ける指の脇に、涙が落ちた。
人類を殲滅するという言葉は理解できる。だが、八十九億もの人間をどうやって殺すのか、そのためにこの研究所で何が行われてきたのか、理解が追いつかなかった。廊下の壁に埋まっていた口と、写真の中の男の顔が、何度も頭に浮かんだ。
次に思い出したのは、今朝の街だった。信号待ちの車。駅へ急ぐ人々。コーヒーを手に、コンビニから出てきた男。彼らは何も知らず、今も、それぞれの行き先へ向かっている。
ここで七回、文字が点いた。それだけで、あの全てを消すことが決まった。
「取り消せ! 承認を取り消せ!」
声は、もう泣き声になっていた。周囲の職員も泣いていたが、誰も画面に触れようとしなかった。私は停止キーを押しながら、彼らもここで同じことを繰り返していたのだと、初めて気づいた。
突然、電源が落ちた。
画面が消え、赤い警告灯が止まった。警報も送風音も一度に途切れ、私は停止キーに指を置いたまま、暗闇の中で動けなくなった。
誰かが、短く息を吸った。
「……と、止まったのか」
隊員の声に、私は携帯照明を点けた。電源盤を照らすと、主電源も非常電源も、確かに遮断されていた。手元の端末に通信は戻らず、再起動の兆候もなかった。
一分が過ぎた。
私は画面を見つめたまま待った。誰も、止まったとは言わなかった。
二分が過ぎた頃、壁の向こうで、重いものが移動するような低い音がした。照明を向けても壁は動いておらず、音はそれきり聞こえなくなった。
三分。警報は鳴らず、モニターも暗いままだった。
操作卓に手をつくと、腕が震えていることに気づいた。力を抜けば膝が折れそうで、私はそこへ体重を預けた。
「止まった」
掠れた声が出た。
「止まったんだ!」
女性職員が顔を覆った。隊員が私の肩を掴み、強く揺さぶりながら何度も頷いた。誰かが泣きながら笑い、その声を聞いて、ようやく、私も息を深く吸うことができた。
廊下へ目を向けた。あの男を、今度こそ壁から外せるかもしれない。助け出すための器具と、人手を集めなければならなかった。
「外へ出よう!動ける人から――」
隊長の声を、警報が遮った。
先ほどより低い、腹の底に響くような音だった。床が震え、正面のモニターだけが突如点灯した。
《オルタネイター構築完了》
《人類殲滅プロトコル実行開始》
その下に、小さな処理記録が残っていた。
《研究設備から実行個体への制御移行完了》
《外部電源への依存解除》
私は二つの記録を読み、もう一度、最初から読み直した。
さっきの数分間、何が終わるのを待っていたのか。自分が何を成功だと思い、何に安堵したのか。理解した途端、胸の奥が冷たくなった。
主電源も、非常電源も切った。だが、その全てが、もう必要とされていなかった。
『これよりオルタネイターによる人類の殲滅を開始します』
誰も声を出さなかった。さっき笑っていた隊員が、口を開いたまま赤い画面を見上げていた。
その足元で、床がゆっくりと持ち上がった。
初めは地震だと思った。だが、揺れはすぐに収まり、代わりに、室内の全てが同じ方向へ傾き始めた。固定されていた操作卓が軋み、壁の黒い管が、奥へ奥へと引かれていく。
職員の一人が立ち上がろうとして悲鳴を上げた。床に貼りついた白衣を隊員が引くと、布の下で何本もの細い管が張った。私は工具へ手を伸ばし、廊下の男の口を思い出した。
その一瞬、手が止まった。
「走れ!」
隊長に腕を掴まれ、出口へ向かった。扉のあった場所には既に太い管が幾重にも渡り、その向こうで廊下が折れ曲がっていた。曲がるはずのない壁と天井が、音を立てて奥へ引き込まれていく。
頭上に亀裂が走った。
裂け目の向こうを、濡れた黒い曲面がゆっくりと通り過ぎた。照明を向けても端が見えず、継ぎ目のようなくぼみが幾つも開閉している。その一つが止まり、こちらを向いたように見えた。
私は照明を下ろせなくなった。
今いる部屋が、その何に当たるのか分からなかった。外から何かが入り込んできたのか。それとも、私たちは初めから、その内側を歩いていたのか。
足を動かそうとしたが、靴底が離れなかった。足首に冷たいものが這い上がり、隊長の手が、私の腕から滑り落ちた。照明が床へ落ち、回転する光の中を、誰かの靴と、白衣の袖が流れていった。
胸のポケットが引かれ、私は咄嗟に手を押し当てた。中には、スマートフォンがあった。
轟音とともに、研究所全体が持ち上がった。何層もの天井が裂け、その向こうに、遠い朝の空が見えた。
私はそこへ手を伸ばした。
巨大な影が、光を遮った。
最後に、妻へ戻ると言ったことを思い出した。




