名前のついた想い
新世暦411年 初冬・12月8日
宗一郎が寝台の縁に手をつくと、凛が背を支え、アリアが反対側から腕を差し出した。
「ほら。こっち、掴まって」
「……起きるだけだ」
「昨日もそう言って、ふらついてたよ」
傷は塞がっていたが、胸の奥にはまだ鈍い痛みがあった。宗一郎は二人の手を借りて身体を起こした。
「……ありがとう」
宗一郎が言うと、凛の手が止まった。
アリアも、少し目を丸くした。
「何だ?」
「ううん」
アリアが笑った。
「素直だな、と思って」
「世話になっているからな」
宗一郎も、僅かに口元を緩めた。
凛はそれを見てから、畳んだ着替えへ視線を落とした。指先で端を揃え直す。揃える必要は、もうなかった。
その朝は、二人に付き添われて居間で食事を取った。
卓には柔らかく煮た野菜のスープと、小さく切られたパンが並んでいた。
「お前たちも食べろ。一緒に食べるために、ここまで来たんだ」
アリアが嬉しそうに頷いた。
「……うん。いただきます」
朝食を終えても、二人はなかなか学院へ行く支度を始めなかった。
「学院、もう一日くらいお休みしても……」
「体調が悪いのか?」
「そうでは、ないですけど……」
凛の目が、宗一郎の胸元へ向いた。
アリアが椅子の背へ両腕を掛ける。
「まだ一人じゃ危ないでしょ。お昼だってあるし」
「ここに置いておいてくれれば、食べられる」
シオンは報告のため、元老院のある街に滞在していた。二人が出かければ、宗一郎は一人になる。
「昼までに食べられるように、用意しておきます。でも……」
「無理はしない。必要なものは、出かける前に頼む」
アリアが、宗一郎の顔をじっと見た。
「本当に?」
「ああ。今日は大人しく、帰りを待っている」
「顔を見せてこい。待っている友達がいるだろう」
凛が、手元へ目を落とした。
返事が届かないままになっている友人のことを、思い出したようだった。
「……はい」
玄関でも、二人は立ち止まった。
凛が外套の留め具を確かめ、アリアが手袋をはめる。
宗一郎は廊下の壁へ軽く背を預け、その様子を見ていた。
凛の頭へ、そっと掌を置く。
「帰ってきたら、話を聞かせてくれ」
アリアが俯いて笑った。
凛は、しばらく宗一郎を見つめていた。
「今日はずっと家にいますよね?」
「ああ、今日は、どこにも行かない」
凛が頷いた。
今度は、扉を開けられた。
「……行ってきます」
「行ってきます!」
「ああ。行ってこい」
二人が門の先で振り返った。
宗一郎が手を上げると、二人とも手を振った。
角を曲がって見えなくなるまで、彼はそこに立っていた。
レガリア魔術学院へ戻ると、凛とアリアは友人たちに囲まれた。いつも一緒に実習へ向かっていた友人の目に涙が浮かぶのを見て、アリアは掴まれた手を握り返した。
「……ただいま」
担任は二人の顔を見るなり、「よく戻った」と、それぞれの肩を軽く叩いた。実習は当分、見学でよいという。教室の机には、休んでいた間の配布物が揃えてあった。
授業の合間、凛は家の居間にも同じように日が差しているだろうかと考えた。隣では、アリアが壁の時計を見ていた。
最後の鐘が鳴ると、二人はほとんど同時に立ち上がった。
「今日は、もう帰るね!」
「うん。また明日!」
その声を背に、二人は廊下を進んだ。
玄関を出たところで、アリアが凛の顔を見た。
「……早歩きくらいなら、いいよね」
凛は頷いた。
門を出る頃には、どちらからともなく駆け出していた。
「ただいま!」
アリアが扉を開けた。
凛もすぐ後ろから家へ入り、居間の方を見た。
椅子に座った宗一郎が、顔を上げた。
膝に毛布を掛け、窓からの光の中にいる。
「おかえり」
凛は、息を吐いた。
走ってきたせいで苦しかった胸が、その声を聞くと、別のものでいっぱいになった。
「お昼、食べた?」
「ああ」
「残してない?」
「あの皿を見てくれ」
小卓の上に、空になった皿が重ねてあった。
凛が用意しておいた昼食は、きれいになくなっている。
「残さず食べた」
「……うん。よし」
アリアが笑った。
宗一郎も笑った。
凛は外套を脱ぐ手を止め、その顔を見ていた。
「凛」
呼ばれ、顔を上げる。
宗一郎が、隣の椅子を示した。
「こっちへ来い。今日は、どうだった」
凛は、外套を掛けた。
歩いていく間に、口元が緩んでしまう。
隣へ座ると、宗一郎がその手を見た。
「冷たいな」
宗一郎は凛の手を包み、両手の間に収めた。
温かい。
けれど、熱くなっているのは指だけではなかった。
「私も寒いんだけど」
反対側から、アリアが手を差し出した。
宗一郎は凛の手を片手で包み直し、空いた手でアリアの指先を取った。
アリアは、宗一郎に手を預けた凛の横顔を見た。
目を覚ました宗一郎のそばでも、こんな顔をしていた。
そのときは、泣いた後だからだと思っていたけれど。
アリアは、自分の手へ目を戻した。
大きな掌に包まれていると、帰ってきたのだと実感できた。
それだけなら、凛の顔が赤い理由を、こんなに気にしなくてもいいはずだった。
学院で会った人のことを、順番に話した。
友人が泣いてしまったこと。担任が何度も体調を尋ねたこと。二人の机に、配布物が残されていたこと。
宗一郎は時折頷き、短く問い返した。
「そうか。皆、待っていたんだな」
「……はい」
凛の指先はもう温まっていた。それでも、手を引くことができなかった。
宗一郎のそばへ来れば安心する。
それは、ずっと前から知っていた。
でも今は、顔を見ると落ち着かなくなる。目が合えば逸らしたくなるのに、他を向かれると、また自分を見てほしくなる。
世話をしたい。
早く元気になってほしい。
痛い思いを、もうしないでほしい。
けれど、元気になったら、この手を離せるだろうか。
支える必要がなくなっても、隣に座りたい。
今みたいに名前を呼ばれて、誰より近くで、この人の笑う顔を見たい。
凛は、宗一郎の指をそっと握った。
好きなんだ。
胸の中で、その言葉が初めて、はっきりした形になった。
宗一郎が顔を向ける。
凛は慌てて俯いた。
頬が熱い。手まで熱くなってしまった気がした。
「凛?」
「……もう少しだけ」
手を握ったまま、小さく言った。
「このままでも、いいですか」
宗一郎は、重なった手を見た。
それから、握り返した。
「ああ」
凛は頷いた。
返事をしようとすると、声が震えそうだった。
反対側で、アリアは二人を見ていた。
凛の声は小さかったけれど、何を願ったのかは分かった。
宗一郎が握り返したとき、凛がどんな顔をしたかも。
胸の奥が、ちくりとした。
凛が嬉しそうなのは、自分も嬉しい。
けれど、見ているだけでは落ち着かなかった。
「……私も、まだここにいるからね」
言ってから、何を当たり前のことを言っているのだろうと思った。
宗一郎が顔を向ける。
「ああ。聞いている」
包まれていた手が、軽く握り直された。
それだけで、さっきまでの胸のつかえが緩んだ。
アリアは目を伏せた。
「なら、いいけど」
声が思いのほか柔らかくなって、少し恥ずかしかった。
凛がこちらを見た。
アリアは肩をすくめてみせたけれど、宗一郎の手から自分の手を引くことはしなかった。
夕食のあと、凛は少しぬるめに湯を張った。手拭いを持って宗一郎を呼びに行き、戸口で足を止めた。
「……背中、流しましょうか」
言ってから、耳まで熱くなった。
宗一郎が顔を向ける。
凛は持っていた手拭いを、胸元で握り直した。
「まだ、腕を後ろへ回すのは、大変でしょうから」
「……頼めるか」
「……はい」
アリアが立ち上がった。
「じゃあ、私、着替え置いてくる。足元も、滑ると危ないし」
畳んだ服を抱えて、先に廊下へ出る。
背中を流したあと、凛が湯呑みを渡すと、宗一郎はいつもよりほぐれた顔で礼を言った。傷跡のそばで手を止めるたびに「大丈夫だ」と言ってくれた声が、凛の耳にはまだ残っていた。
「……また、必要だったら言ってください」
「ああ。頼む」
夜が更けても、凛とアリアは宗一郎の部屋で明日の授業の話をしていた。凛が小さく欠伸をすると、宗一郎が時計を見た。
「そろそろ、寝るか」
二人が黙った。
アリアは膝に載せていた手を動かし、凛は椅子の背に掛けた羽織へ目をやった。
立ち上がる者はいなかった。
宗一郎は二人を見比べた。
困ったように、少し笑う。
「……何だ。今日は一緒に寝るか」
軽く言ったつもりだった。
凛が顔を上げた。
アリアも、宗一郎を見た。
「……いいの?」
宗一郎の笑みが止まった。
「お邪魔でなければ……」
アリアが、掛布の端へ指を掛けた。
「嫌なら、戻るけど」
その指が、僅かに布を握った。
宗一郎はそれを見た。
「……嫌ではない」
二人の顔が上がった。
宗一郎はクッションを外し、身体をゆっくり寝台の中央へ移した。
「……傷には、気をつけてくれ」
「うん。気をつける」
アリアの返事は、今度は早かった。
二人は枕と掛布を持って戻り、傷に触れないよう、宗一郎の左右に横になった。
初めはそれぞれ、少し間を空けていた。
けれど、アリアが枕を寄せ、凛もそっと身体を動かした。
寝台の両端に、広い空きができる。
「……そちらは、空いているぞ」
宗一郎が言うと、アリアは枕へ頬をつけたまま目を逸らした。
「ここがいいの」
凛も、小さく頷いた。
「近くても……いいですか」
宗一郎は二人の顔を見た。
「ああ。痛くはないから、安心しろ」
寒ければ布を掛けたい。疲れていれば休ませたい。
笑っていれば、その顔をもう少し見ていたかった。
「……そばにいるからな」
アリアが顔を上げた。
「手が届くところに」
宗一郎は、凛へも目を向けた。
凛は唇を結び、掛布の下から手を出した。
宗一郎の袖へ、指先が触れる。
大きな手が動いて、その手を取った。
「これでいいか」
「……はい」
アリアが反対側から、宗一郎の腕へそっと手を添えた。
枕の上で赤い髪が揺れる。
凛も、繋いだ手を引かないまま、そっと顔を寄せた。
二人の髪から、石鹸のいい香りがした。
宗一郎は、ゆっくり息を吐いた。
胸の内に残っていた緊張まで、少しずつほどけていく気がした。
「……二人とも、いい匂いがするな」
凛の指が、ぴくりと動いた。
アリアも顔を上げた。
「な、何、急に……」
「いや。そばにいると、落ち着く」
宗一郎は、繋いだ手へ目を落とした。
「お前たちがいると分かるからかもしれないな」
凛は口元まで掛布を引き上げた。
隠しきれなかった耳が、赤くなっている。
アリアはしばらく宗一郎を見てから、視線を逸らした。
「……変態っぽい」
茶化す声は、いつもより小さかった。
宗一郎が僅かに眉を上げる。
「そういうつもりでは、なかったんだが」
「分かってるけど……言い方」
アリアは俯き、宗一郎の袖を指先でつまんだ。
離れようとはしなかった。
凛が掛布の陰から、そっと顔を上げる。
「……落ち着くなら、よかったです」
宗一郎と目が合うと、また少し俯いた。
それでも、繋いだ手は離さなかった。
アリアがその横顔を見て、照れたまま笑う。
凛はきっと、宗一郎のことが好きなのだ。
今日、何度も見た赤い横顔を思い出す。
では、自分はどうなのだろう。
宗一郎が凛を見ていると、自分にも振り向いてほしくなる。
手を握り返してもらえれば、それだけで嬉しかった。
今も、ここを離れたくない。
好き、なのかもしれない。
心の中で呟くと、宗一郎へ添えた手が急に気になった。
いつも触れていた腕なのに、指を動かすのさえ少しためらわれた。
アリアはそっと顔を上げた。
宗一郎が、穏やかな目でこちらを見ていた。
まだ、確かめるようなことは言えなかった。
でも、凛にだけ、この場所を譲るつもりもなかった。
「まあ……今日くらいは、いいけど」
宗一郎の腕へ、もう一度手を添える。
宗一郎は二人を見て、穏やかに笑った。
添えられたアリアの手にも、自分の手をそっと重ねた。
アリアは枕へ頬を戻した。
今日くらい、と言ったけれど、明日の夜も、ここで眠りたくなる気がした。
そのことは、まだ言わずにおいた。
「おやすみ、宗一郎」
「おやすみなさい」
「ああ。おやすみ」
灯りを落とすと、窓の外の薄い明かりだけが残った。
凛は、繋いだ手を見つめていた。
好きだと分かったばかりの人が、隣にいる。
その手を握っている。
眠れるはずがないと思った。
けれど、宗一郎の呼吸はゆっくりだった。
反対側から、アリアが小さく身じろぎする音がした。
誰も、いなくならなかった。
凛は指へ少しだけ力を込めた。
すぐに、握り返された。
「……宗一郎さん」
「何だ」
言いたい言葉が、胸の中にあった。
けれど今は、まだ声にできなかった。
「明日も……帰ったら、お話していいですか?」
「ああ。待っている」
凛は目を閉じた。
口元に浮かんだ笑みを、今度は隠さなくてよかった。
二人が眠るまで、思ったほど時間はかからなかった。
先にアリアの呼吸が深くなり、少しして、凛の指からも力が抜けた。
それでも、手は繋がっていた。
宗一郎は顔を横へ向けた。
凛が眠っている。
反対側では、アリアが彼の袖を掴んでいた。
寝台の端には、まだ十分な空きがあった。
それなのに、二人はすぐそばで眠っている。
宗一郎は、アリアの肩からずれかけた掛布をそっと引き上げた。
凛と繋いだ手は、そのままにしておいた。
明日の朝も、この声を聞ける。
学院へ送り出し、帰ってきたら、話を聞く。
それから、一緒に食事をする。
宗一郎は、静かに息を吐いた。
「……おかえり」
眠った二人へ、小さく言った。
アリアが、ほんの少しだけ身を寄せた。
宗一郎は目を閉じた。
両側の温かさに包まれて、今夜は夢を見る前に、深く眠れそうだった。




