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帰還者

新世暦411年 初冬・12月5日


 食卓の向こうで、凛が笑っていた。

 窓から朝の光が差し込んでいる。湯気の立つ茶と、焼いたパン。廊下では、アリアが片方の手袋を探していた。


「凛、そろそろ行こう!」


「待って。今、行くから」


 凛は空になった皿を重ね、宗一郎を振り返った。


「行ってきます」


 いつもと同じ声だった。

 宗一郎は頷こうとした。

 けれど、胸の奥がざわついた。

 凛が玄関へ向かう。アリアが扉を開ける。

 朝の冷たい空気が、足元を流れた。


「……待て」


 二人は話をしながら、外へ出ていった。

 宗一郎は椅子を引いた。

 立ち上がるだけで、ひどく力が要った。足が床に沈んでいるようだった。

 玄関を出ると、二人の背中は既に遠かった。


「凛。アリア」


 声が届かない。

 アリアが何かを言って、凛が笑う。

 宗一郎は走った。

 足を動かすたび、身体が重くなった。息だけが荒くなり、二人との距離は少しも縮まらない。

 銀白の髪が揺れた。

 その隣で、赤い髪が跳ねた。

 見えている。

 まだ、そこにいる。


「待ってくれ……!」


 二人の姿が小さくなる。

 道の先に朝の光が満ちて、輪郭が見えなくなっていく。

 宗一郎は手を伸ばした。

 今度こそ、と思った。

 けれど、その指は何にも触れなかった。



 手が、温かかった。

 宗一郎は、ゆっくりと目を開いた。

 天井の木目が、ぼやけて見えた。

 何度か瞬きをして、ようやく見覚えのある節に気づいた。

 自分の部屋だった。

 窓辺の帳も、枕元の小さな机も、出発した日のままだった。廊下の向こうで、床板が小さく軋んだ。

 帰ってきたのか、と考えたところで、右手の温かさをもう一度感じた。

 息を吸うと、胸の奥が鈍く痛んだ。

 右手に、何かが触れている。

 目を向けた。

 凛がいた。

 椅子に座り、寝台の端へ頬を伏せている。銀白の髪が腕の上を流れ、淡い水色の毛先が掛布にかかっていた。

 その両手が、宗一郎の手を包んでいる。

 宗一郎は、動かなかった。

 凛の肩が、呼吸に合わせて小さく上下した。

 指先が、僅かに動いた。

 その向こうに、アリアがいた。

 椅子の背に身体を預け、腕を組んだまま眠っている。俯いた顔に赤い髪が落ちていた。

 二人とも、そこにいた。


「……凛」


 掠れた声だった。

 凛の睫毛が震えた。

 ゆっくりと顔が上がる。

 青い瞳が、宗一郎を見た。


「……宗一郎、さん?」


 凛はそのまま、動かなくなった。

 握った手と、宗一郎の顔を見比べる。

 宗一郎が指を動かすと、その手に急に力がこもった。


「アリア……」


 声が震えた。


「アリア、起きて!」


 椅子が鳴った。


「……え?」


 アリアが顔を上げた。

 宗一郎と目が合った瞬間、組んでいた腕がほどけた。


「宗一郎……?」


 寝台のそばへ来て、何か言おうと口を開く。

 けれど、言葉は出なかった。

 宗一郎は二人の顔を見た。

 凛の目の下には、薄い影があった。アリアの唇も、何度も噛んだように荒れている。

 確かめたいことは、いくらでもあった。

 怪我はないか。苦しくなかったか。あの場所で、何があったのか。

 だが、先に手が動いた。

 凛の頬へ、指先を伸ばす。

 触れる直前、凛が自分から頬を寄せた。

 温かかった。

 アリアが、その腕にそっと触れた。


「……いるよ」


 笑おうとした口元が、歪んだ。


「ちゃんと、ここにいるよ」


 宗一郎は息を吐いた。

 喉の奥が詰まって、すぐには声が出なかった。


「……会いたかった」


 凛の顔がくしゃりと崩れた。


「私も……」


 握った手に、額を寄せる。


「私も、会いたかった……!」


 アリアが寝台の縁に膝をつき、宗一郎の肩へ顔を伏せた。


「……遅いよ」 


 服を掴んだ指が震えている。


「ずっと、待ってのに……」


 宗一郎は腕を動かした。

 身体の奥に痛みが走ったが、二人に触れることはできた。

 凛の肩を抱き、アリアの背へ手を添える。


「……ああ」


 それ以上は、言えなかった。

 二人の泣く声を聞きながら、掌の下の温かさを、何度も確かめた。



 凛が顔を上げたのは、しばらく経ってからだった。

 宗一郎の肩に顔を伏せたまま、アリアが鼻をすすっている。

 その背を撫でる手は、ゆっくりと動いていた。


「……よかった」


 宗一郎が、小さく言った。

 凛を見る目が、ひどく優しかった。

 また涙がこぼれた。

 宗一郎の指が、その頬を拭った。

 凛は息を止めた。

 眠っている間にも、この手には何度も触れていた。

 指を包み、冷えていないか確かめて、少しでも握り返してくれないかと待っていた。

 その手が今、自分の涙を拭っている。

 凛は唇を結んだ。

 また泣いてしまいそうだった。けれど、宗一郎にじっと見つめられると、頬に触れる指先が気になって、凛は俯いた。


「凛?」


 凛は視線を落としたまま、首を小さく振った。


「……何でも、ないです」


 声まで小さくなった。

 宗一郎の手が頬を離れる。

 凛はそれを両手で受け止め、そっと掛布の上へ戻した。

 指は、重ねたままにしておいた。

 アリアが、その横顔を見ていた。

 泣いたから赤いのだと思った。

 でも、宗一郎が「大丈夫か」と尋ねると、凛は小さく頷いたきり、また俯いてしまった。

 握っている手だけは、離さなかった。

 いつもの凛と、少し違う。

 アリアは何も言わなかった。

 その横顔から宗一郎へ目を戻し、肩に寄りかかり直した。



 控えめなノックの後、シオンが入ってきた。

 寝台の上の宗一郎を見て、足が止まる。

 それから、一度目を伏せた。


「……ようやく起きたか」


「ああ」


「三日、眠っていたのだぞ」


 宗一郎は窓辺へ目を向けた。


「……ここまで、運んだのか」


「帰還の手配は元老院にさせた。搬送用の馬車を出させ、街道沿いで馬と御者を交代させて戻ったのだ。お前を待っている者が、ここにいたのでな」


 シオンの視線が、二人へ移った。



 宗一郎が家へ運び込まれたとき、アリアは玄関で立ち尽くした。

 名前を呼んでも、返事がなかった。

 シオンの指示で道を空け、寝台へ横たえられる姿を追った。凛は枕元へ駆け寄り、その顔を覗き込んだ。


「息はしている。まず、着替えを持ってこい」


 シオンの声に、凛が頷いた。

 湯と清潔な布を用意し、汚れた服を替えるのを手伝った。

 胸元の布が開いたところで、凛の手が止まった。

 胸に、大きな傷跡があった。

 古い傷とは色が違う。引きつれた皮膚が不規則に寄り、その周りにまで赤みが残っている。

 凛は濡れた布を握りしめた。


「……これ」


 シオンが背を支え、宗一郎の身体を静かに横へ向けた。

 その背中にも、傷があった。

 胸の傷と、ほとんど同じ高さだった。

 アリアは、胸元へ目を戻した。

 もう一度、背中を見る。


「……貫かれたってこと?」


 シオンの手が、僅かに止まった。


「ねえ。何があったの……?」


「……戦いの最中に、胸を貫かれた」


 アリアの唇が開いたままになった。

 凛は、布を持つ手を下ろした。


「傷は塞がっている。今は呼吸も落ち着いている」


「じゃあ、どうして起きないの……?」


 アリアの声が震えた。


「いつ、目を覚ますの?」


 シオンは宗一郎を仰向けに戻し、胸の上下を確かめた。


「……そこまでは、私にも分からぬ」


 凛は寝台のそばへ腰を下ろした。

 宗一郎の手を取る。大きな手は動かなかった。


「私たちを……助けるために?」


 問い終える前に、声が掠れた。

 シオンは二人を見た。


「お前たちを助け、自分も帰ってくるためだ。……あいつは、そのつもりで戦っていた」


 掛布を引き上げ、宗一郎の胸を覆う。

 凛は顔を伏せた。

 アリアは寝台の縁へ手をつき、しばらく宗一郎を見つめていた。


「……だったら、起きてよ」


 その袖に、そっと触れた。


「私たち、もういるよ」


 返事はなかった。

 凛の手の中で、宗一郎の指は動かなかった。



 家へ戻ってから、二人は食事や着替えを済ませるたび、宗一郎の寝台のそばへ戻った。

 凛は水を替え、額を拭き、乱れてもいない掛布を直した。することがなくなると、手を握って待った。

 アリアは椅子を寄せて、取り留めのない話をした。

 家の中が少し埃っぽかったこと。凛が台所の片づけを始めて、シオンに止められたこと。

 返事を待つ癖が抜けず、話の途中で何度も黙った。

 夜になると、寝息が聞こえなくなるのが怖かった。

 凛が顔を近づけて息を確かめると、反対側でアリアも目を開けていた。


「二人とも、一度休め」


 シオンは食事を運び、椅子の背に掛けられたままの毛布を二人の肩へ掛けた。


「……目を覚ましたとき、誰もいなかったら」


 凛は宗一郎の手を見つめていた。

 シオンは少し黙った。


「その間は、私がいる」


 寝台のそばへ椅子を置き、腰を下ろす。


「起きれば呼ぶ。約束する。まずは食べてこい」


 二人が部屋を出るまで待ってから、シオンは宗一郎の手首へ指を添えた。

 脈が落ち着いていることは、何度も確かめていた。

 それでも指を離すまでに、少し時間がかかった。



 そして今、宗一郎は二人の顔を見ていた。

 三日も眠っていたのか。宗一郎は、凛の目の下に残る影を見てから、掛布の上の手へ目を落とした。

 凛の指が、まだ重なっていた。

 アリアが、少し口を尖らせた。


「交代で休めって、何回も言われた」


「言われたではない。休めと言っている」


 シオンが返した。

 凛も、握った手を離そうとはしなかった。

 シオンは椅子を引き寄せ、宗一郎の顔色を確かめた。


「学院の生徒と教師も、帰還が確認されている」


「……そうか」


「詳しい話は、もう少し回復してからにしろ。今日は、それだけ知っておけばよい」


 宗一郎は頷いた。



 リゼットが見舞いに来たのは、その日の午後だった。

 宗一郎が起きているのを見ると、彼女は胸元で両手を重ねた。


「よかった……。シオン様から聞いていたんですけど、顔を見るまでは」


 椅子を勧められても、すぐには座らなかった。


「第七観測室の失踪者にも、帰還が確認されています。まだ、全員の確認が済んだわけではありませんが……」


 報告を続けようとして、言葉が途切れた。

 リゼットは唇を結んだ。

 何度か息を整えてから、宗一郎を見る。


「父も……戻りました」


 宗一郎は、静かに頷いた。


「会えたのか」


「はい」


 その返事だけ、声が幼くなった。


「……会えました」


 リゼットは深く頭を下げた。


「ありがとうございます」


 宗一郎は、彼女が顔を上げるのを待った。


「お前が、あの男のところまで案内してくれた。そのおかげだ」


 リゼットの目から、涙が落ちた。

 彼女は拭いながら頷いたが、もう言葉にはならなかった。



 夕方になっても、二人はそばにいた。

 凛が水差しを戻し、アリアが掛布を直す。

 何かするたびに、宗一郎の顔を確かめていた。


「……二人とも、少し休め」


「眠くなったら寝るよ」


 アリアが答えた。


「凛も、その椅子じゃ疲れるだろう」


「もう少しだけ」


 凛は宗一郎を見た。

 起きている。呼べば、応えてくれる。

 それが分かっても、今日はまだ、部屋を離れたくなかった。

「ここに、いさせて」


 宗一郎は、しばらく凛を見ていた。

 それから、掛布の上に手を置いた。


「……ああ。いてくれ」


 凛がその手を取った。

 反対側から、アリアも手を重ねた。

 窓の外で、日が暮れていく。

 部屋の中には、三人の声があった。

 宗一郎は、目を閉じた。

 今度は、手を伸ばす必要がなかった。

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