超越者
新世暦411年 初冬
凛とアリアが失踪してから二十六日目
シオンは、すぐには谷へ下りなかった。
幹の陰に身を寄せたまま、煙の上がる建物を見ている。
宗一郎も、その隣で待った。
崩れた壁の内側に、人影が現れた。
一人だった。
外套を肩へ掛け、中庭を横切っていく。傾いた柱のそばで足を止め、何かを確かめてから、屋根の残った部屋へ入った。
宗一郎は、その姿を目で追った。
学院の生徒たちが泣いていた日にも、あの男はああして歩いていたのだろうか。
「宗一郎」
低い声がした。
背の柄へ伸びかけていた手を、止めた。
シオンは谷を見たまま、続けた。
「まず、周りを確かめる」
「……ああ」
宗一郎は手を下ろした。
リゼットが戻ってきたのは、尾根の影が少し伸びた頃だった。
「斜面の裏に、古い水路があります。谷から外れるまでは、身を隠して移動できます」
落ち葉の上へ膝をつき、小枝で簡単な道筋を描いた。
「私はここを抜けて、隣の尾根まで離れます。水晶への連絡は、そちらで待ちます」
「建物の周りに、人はいなかった」
シオンが言った。
「出入りを見たのも、あの男だけだ。裏手には斜面へ上がる道がある。逃がすとすれば、そちらだな」
「話す前に、仕留められるなら」
宗一郎が言うと、シオンは頷いた。
「そうする。声を掛ける必要はない」
小枝の先で、建物の裏手を示した。
「道からは入らぬ。あの壁の切れ目まで回る。近づいても気づかれなければ、そのまま仕掛けるぞ」
「ああ」
「察知されたら、無理に追うな。相手の間合いも、備えも分からぬ」
宗一郎は、屋根の残った一角へ目を向けた。
「そのときは、俺が話す」
アストラルムで決めた手順は、捨てなくてよかった。
男が二人を交渉の材料にするなら、まだ使える。
木々に囲まれた石壁。その上に、狭い空があった。
「退く道は、お前も覚えておいてくれ」
「無論だ。お前にも必要になるかもしれぬ」
シオンは、彼の顔を見た。
宗一郎は頷いた。
ここへ来てから、何度、自分に言い聞かせただろう。
殺すために来た。
だが、死にに来たわけではない。
リゼットが立ち上がり、裾についた葉を払った。
「……ご武運を」
宗一郎は彼女へ向き直った。
「終わったら、知らせる」
父親のことを、ここで口にするのはやめた。
彼女も、二人の名を出さなかった。
「はい。お待ちしています」
一度、深く頭を下げた。
木立の向こうへ姿が消え、落ち葉を踏む音も遠ざかった。
二人は、道を外れた。
斜面の窪みを伝い、石壁の裏へ回る。
宗一郎はゼルグレアを背から下ろし、地面にも枝にも触れさせぬよう、身体の脇へ沿わせていた。
先を行くシオンが、足を止めた。
崩れた壁の切れ目。その向こうに、石畳が見える。
奥の部屋から、器を置く音がした。
宗一郎は腰を落とした。
壁の向こうまで、十数歩。男が戸口へ姿を見せれば、踏み込める距離だった。
シオンが、片手を上げた。
「待て。石の継ぎ目だ」
宗一郎は足を止めた。
苔に隠れた細い刻線が、石畳を横切っている。
シオンは膝を折り、触れずにその先を辿った。
石の縁を囲む線。その下へ沈む、細い魔力の流れ。
重みで石が沈めば、術式の一部が繋がる仕組みだった。
「踏めば作動する。……こちらもだな」
少し離れた石にも、同じ刻線があった。
宗一郎も、その配置を確かめた。壁の切れ目から建物へ向かう足取りを、塞ぐように並んでいる。
向こうには、刻線のない石畳が続いていた。
距離は短い。音を抑えて越えることもできる。
シオンが、二本の指で左右を示した。
彼女は柱の陰へ。宗一郎は、低い壁の端へ。
「踏まずに越える」
宗一郎は頷き、脚へ僅かに魔力を集めた。
その瞬間、刻線が光った。
まだ、どちらの足も石畳には触れていない。
シオンの目が見開かれた。
「――魔力に反応するのか!」
石の下を巡っていた流れが、表の刻線から離れた。
壁の根元まで、別の紋様が一斉に浮かび上がる。
踏圧で作動する仕組みは、確かにあった。
その魔力の流れへ、もう一つの術式を重ねて隠していたのだ。
罠を見抜き、身体を強化して越えようとする。
その魔力の変化を、待たれていた。
宗一郎は地を蹴った。
足元から突き出した石の穂先が、外套の裾を裂く。
跳んだ先で、シオンも壁を越えていた。
ズガガガッ!!
二人が潜んでいた場所を、石槍が斜めに貫く。砕けた壁が、中庭へ崩れ落ちた。
宗一郎は着地と同時に、奥の戸口を見た。
男は、もう立っていた。
抜き身の剣を下げ、その前には半透明の障壁が重なっている。
「人の家へ入るなら、道を使ったらどうだ?」
宗一郎の膝へ、力がこもった。
仕掛けが動いたのは、今の一度だけとは限らない。男までの石畳に、薄い光が幾筋も残っている。
シオンが、刀を握る手とは反対の手を僅かに下げた。
待て。
宗一郎は踏み込まなかった。
魔力を脚へ集めるのをやめ、ゼルグレアの先を下げた。
男は追ってこなかった。
侵入者の顔を確かめるように、戸口から一歩、進み出た。
その靴が刻線を跨いだとき、腰の小さな金属札が光った。
石畳に浮かんだものと、同じ紋様だった。
男の足元では、何も起きない。
シオンは、その札を一瞬だけ見た。
自分だけを通す備えも、してある。
風が、崩れた石壁の間を抜けていった。
エルネスト・クロイツは、その向こうに立っていた。
宗一郎が思い描いていたよりも、ずっと平然とした顔だった。
凛が消えた。
アリアが消えた。
二人のいない朝が来て、夜が来た。
それを引き起こした男が、今、わずかに口角を上げている。
男の背後で、扉が静かに閉じた。
男の目が、宗一郎の顔から黒い得物へ移った。
次に、斜め後ろに立つシオンを見た。
「……何の用だ」
宗一郎は、男の目を見た。
ゼルグレアを握る指に、皮膚が軋むほど力がこもる。
「レガリア魔術学院で、お前が消した二人を返してほしい」
エルネストは、すぐには答えなかった。
宗一郎の顔を眺め、それから、口の端を持ち上げた。
「……ああ。あの生徒たちの身内か」
宗一郎は答えなかった。
「なら、少しは考えた方がいい」
エルネストは、子供に道理を教えるように言った。
「俺を殺せば、あの娘たちには二度と会えなくなるぞ」
隣で、シオンが呼吸を整えた。
嘘だ。
この男を殺す。
それが、生きている捕縛者を取り戻す唯一の方法だった。
エルネストはこちらがそれを知っているとは思っていない。二人を取り戻すために来た以上、自分を殺すことだけはできないと考えている。
ならば、まだ隙はある。
先ほどの侵入も、二人を返させるためのものだと受け取っている。
剣は下ろさない。障壁も解いてはいない。
それでも、こちらが求めるものを握っているという余裕が、声に戻っていた。
殺さずに制圧する動きと、初めから命を断ちにいく動きでは、踏み込みも狙いも違う。
ただし――。
シオンは、宗一郎の横顔へ目を向けた。
顎が固く引かれている。
呼吸は浅い。相手へ向けた目には、今にも抑えが外れそうなものがあった。
「……宗一郎」
旅立つ前に頼まれたとおり、名を呼んだ。
それだけでよかった。
宗一郎が、ふと彼女を見た。
一瞬だった。
シオンの視線を受け止め、すぐにエルネストへ戻す。
ゼルグレアを握る手から、わずかに力が抜けた。
分かっている。
そう受け取るには、十分だった。
「……せめて」
宗一郎が口を開いた。
「あの二人だけでも、返してほしい」
シオンは目を伏せなかった。
その声に滲んだ苦しさは、演技ではなかった。
それでも彼は、使うべき言葉を選んだ。
「ほう」
エルネストが笑った。
「では、1人10億オルムでどうだ。2人で20億。払えるなら、考えてやってもいい」
宗一郎は、石畳へ一瞬だけ目を落とした。
先ほど光った継ぎ目は、男の足元へも続いている。
「金が欲しいのか……」
「欲しくない者がいるか?」
宗一郎はゆっくりと、半歩、横へ動いた。
シオンとの間に男が入る位置を探す。
エルネストの切っ先が、そちらへ向いた。
「それ以上、妙な動きはするなよ」
宗一郎は止まった。
「……20億で、2人とも戻すんだな」
確かめる声が、僅かに掠れた。
男の目が、宗一郎の顔へ戻る。
「まぁ……用意できればの話しだがな」
シオンが、刀の柄へ指を添え直した。
宗一郎には、その小さな動きが見えた。
足元に仕掛けがあるなら、その上に留まらない。
男が踏んでいる場所まで、一足で入る。
交渉が長引くほど、こちらの位置も、動きも読まれる。
使えるのは、この一度だ。
男が、下げていた剣を僅かに持ち上げた。
宗一郎はそれを見ていた。
剣。喉。胸元。足の位置。
一瞬。
防御を選び直す暇も、逃げる方向を決める暇も与えない。
一瞬で、仕留める。
「ないなら、ほかの支払い方でも――」
シオンが、刀の鍔を親指で押した。
チン、と。
乾いた音が、男の言葉へ割り込んだ。
その一瞬だけ、シオンは抑えていた殺気を放った。
喉元を白い刃で撫でられたような感覚に、エルネストの目が彼女へ走る。
剣の切っ先も、僅かにそちらへ振れた。
宗一郎は、その横顔を見ていた。
両脚へ、莫大な魔力を叩き込む。
蓄えた力を、一息に解き放った。
ドンッ!!
足元の石畳が砕けた。
エルネストが宗一郎へ目を戻すより早く、黒い巨躯がその視界を横切った。
シオンも、既に踏み出していた。
二つの姿が消えた、その瞬間。
エルネストの左右で、黒と白の軌跡が交差した。
シオンは前へ。
宗一郎は、その背を取る角度へ。
ラミセクトが喉元へ走り、反対側からゼルグレアが胴を薙ぐ。
前へ逃げれば刀へ、後ろへ退けば黒い塊へぶつかる。
エルネストには、二人の姿が掻き消えたようにしか見えなかった。
剣を引き戻すことも、身を捻ることもできない。
喉元へ迫った白刃を捉えたときには、もう、その背後へ黒い塊が届いていた。
ギャリィッ!!
先に張られていた障壁へ、ラミセクトが食い込んだ。
白い亀裂が膜を走る。
エルネストの剣は、シオンへ向けた位置から動いていなかった。
宗一郎の視界には、無防備な背中があった。
届く。
そのとき、男の襟元で金具が光った。
持ち主の手は、触れていない。
ゼルグレアが、その輪郭へ食い込もうとした。
――手応えが、変わった。
ゴッ!
骨を打つ感触。
重さが腕へ返る。
同時に、シオンの身体が横へ折れた。
「――ッ!」
黒い衣が弾き飛ばされた。
ドガァンッ!!
崩れた柱に背が叩きつけられ、石片とともに地面へ落ちる。
宗一郎は踏みとどまった。
目の前には、傷のないエルネストがいる。
ゼルグレアの向こうにあったはずの男の身体。
そこへ届くはずだった衝撃が、シオンを打っていた。
「……なるほど」
エルネストが、低く呟いた。
「ずいぶん、思い切りのいい交渉だ」
宗一郎は追わず、地面を蹴ってシオンのそばへ退いた。
彼女は片膝をついていた。
口元から血が垂れている。左脇へ添えた手の下で、短い詠唱とともに治癒の光が灯った。
「シオン!」
「問題ない。……追ってこさせるな」
息をするたび、声の奥に濡れた音が混じる。
問題がないはずはなかった。
宗一郎は彼女の前に立ち、ゼルグレアを構え直した。
「今のは、お前に当たった」
「見れば分かる」
「そうじゃない。感触だ。あいつを殴った感触ではなかった。……お前の身体を、直接打った」
シオンの目が、男の胸元へ走った。
襟の下。
細い金具の縁に、かすかな魔力の揺らぎが残っている。
「衝撃を移したのではなく……」
「通り道を、変えられたのかもしれん」
振り抜いた軌道の途中に、別の場所が挟み込まれた。
確信はない。
だが、あの接触だけは間違えようがなかった。
シオンは血を拭った。
初手で因果絶刀を使っていたら。
首を断つ結果を先行させ、その成立に同じ仕掛けが作用したら。
自分か、宗一郎か。
どちらの首が落ちていたか、分からない。
まだ、あの仕掛けの届く範囲も、条件も分からない。
刀の力を重ねたとき、何が起こるか。
分からないまま、宗一郎の命まで賭けるわけにはいかなかった。
「……次は、見ておく」
彼女は静かに立ち上がった。
「俺を殺す気だったな」
エルネストの声から、笑いが薄れていた。
「娘たちがどうなっても構わない、という顔ではない。……知っているな。解放の条件を」
宗一郎は答えなかった。
教えた者を探るように、男の目が二人の間を動いた。
やがて胸元へ一度触れ、深紅の鍵を取り出した。
眼前に、複雑な紋様が開く。
幾重もの線が、宙に曼荼羅を描いた。
シオンが踏み込もうとする。
その足元を、石の槍が貫いた。
跳び退いた先へ雷光が落ちる。
宗一郎がゼルグレアで弾き、その向こうで男の手が鍵を回した。
「俺の殺害を目的とする、攻撃活動への加担を禁ずる」
音がした。
錠の落ちるような、小さな音だった。
宗一郎の視界に、数字が現れた。
10,000
瞬きをすると、9,998へ変わる。
凛も、これを見ていた。
嫌でも視界に残る数字。
何を意味するのかも分からず、減っていくそれを、二人は見続けた。
「ゼロになれば、お前たちは終わりだ」
エルネストが鍵を引き抜いた。
宗一郎は数字の向こうから、男を見た。
「そんなに長く」
低い声だった。
「生きていられると思っているのか」
ドゴォッ!!
ゼルグレアが石床を砕いた。
振り抜いた先で石片が噴き上がり、飛び退くエルネストの外套を叩く。
エルネストは飛び退き、振り上げた手から氷の刃を放つ。
白い刃が幾重にも重なり、宗一郎の進路を埋めた。
宗一郎は止まらなかった。
肩を捻り、最も薄い一点へ突っ込む。
砕けた氷の向こうで、男が剣を突き出した。
喉を狙う切っ先を首の傾きだけでかわし、柄頭を顎へ打ち込む。
硬い膜に阻まれた。
次の瞬間、足元が持ち上がる。
地面そのものが壁になり、宗一郎を押し潰そうと迫った。
横から青白い刃が走った。
土壁が割れる。
シオンの短い詠唱に呼応して、細い火線がエルネストの退路を塞いだ。
宗一郎は、割れた壁を踏み砕いて追った。
ゼルグレアの亀裂に、赤い光が滲んでいる。
だが、以前対峙した異形に応じたような、激しい反応はない。
男は強い。
これほどの魔法を、ほとんど間を置かずに組み替えてくる。剣も、こちらの急所を正確に追う。
それでも、踏み込みでは追い越せる。
身体の切り返しにも、確かに遅れがある。
その遅れへ刃を入れると、必ず何かが割って入る。
防壁。
足場の崩落。
あの、接触のすり替え。
男の強さは、それらを一つの戦いへ組み上げることにあった。
「右だ!」
シオンの声に、宗一郎は踏み込む足を変えた。
左に落ちた雷が石床を抉る。
その轟音へ紛れ、二人が距離を詰めた。
視界の数字は、まだ九千を大きく超えている。
構うな。
あれが尽きるまで戦うつもりなどない。
数字が尽きるより先に、この男を倒す。
そのために来た。
ギィンッ!
エルネストの剣が、ラミセクトを受けた。
耳を刺す金属音とともに、火花が弾ける。
宗一郎はその外側を回り、男の脇腹へゼルグレアを叩き込んだ。
胸元の金具が光る。
「そこか」
シオンの目が、光った金具を捉えた。
胸元の金具――あのアーティファクトが、攻撃の通り道を変えている。
宗一郎の得物が、再び男の輪郭に呑まれる。
シオンの左脇、そのすぐそばで、空気が細く折れた。
黒い塊が現れる。
彼女へ触れる、その直前。
ラミセクトの青白い刀身を、魔力が駆けた。
エルネストのアーティファクトは、宗一郎の振るったゼルグレアの通り道を変えていた。
男の脇腹へ届くはずの一撃を、離れたシオンの脇腹へ繋いでいる。
シオンは、その空間の繋がりを断とうとはしなかった。
黒い塊が、彼女の衣へ触れる。
その瞬間、ラミセクトの光が鋭く瞬いた。
ー因果転承ー
シオンを打ち砕くはずだった衝撃が、彼女の身体を揺らすことなく、エルネストへ移った。
ゼルグレアは、シオンのすぐ脇を振り抜かれた。
何も触れていないはずのエルネストの脇腹が、深く潰れる。
ドグォッ!!
男の胴が、くの字に折れた。
「ご――ッ!」
鈍い打撃音と、白い閃光。
防御の膜が砕け、焼けた衣が弾け飛ぶ。
男の身体は地面を滑り、石壁へ激突した。
宗一郎の腕にも、確かな重さが残った。
今度は、届いた。
シオンは荒い息を押さえた。
治りかけた脇腹に、まだ熱い痛みがある。
「受け取れ。元より、お前への一撃だ」
瓦礫が動いた。
エルネストが、折れた壁の間から立ち上がる。
口から血が流れていた。
「このクソ女が……舐めた真似しやがって……!」
血を吐き捨て、シオンを睨みつけた。
その視線が、彼女の握るラミセクトへ落ちる。
「その刀……」
問いかけを、宗一郎の踏み込みが断ち切った。
戦い方が変わった。
エルネストは、もう二人を近づけなかった。
地面を割り、氷を立て、風で破片を巻き上げる。
一つを突破すれば、次の術が来る。
シオンが胸元のアーティファクトを狙うたび、男は剣と障壁を重ねて胸を隠した。
宗一郎の頬に裂傷が増えた。
シオンの袖は焼け、左腕に血が伝っている。
それでも、包囲は狭まっていた。
エルネストの呼吸が乱れている。
魔法を放つ指が、先ほどより僅かに遅い。
シオンの火線が、その右足を止めた。
男の肩が、僅かに落ちた。
宗一郎には、息を継いだように見えた。
その視線だけが、こちらの足元を見ていた。
宗一郎は前へ出た。
障壁を、一枚。
ガァンッ!
ゼルグレアで砕く。
二枚。
バギンッ!!
肩から押し破る。
エルネストの手が、外套の内側へ沈んだ。
逃がさない。
宗一郎はさらに半歩、間合いを詰めた。
シオンの火線へ退けば、焼かれる。
ならば、前へ出る相手を待つ。
男の指先へ集まる細い魔力を見て、シオンは悟った。
「宗一郎!待――」
シオンの声が途切れた。
胸の奥が、冷えた。
宗一郎は、自分の身体を見下ろした。
細い黒い杭が、左胸に突き刺さっていた。
胸側から入り、背中まで貫いている。
杭の周りから血が溢れ、胸元の服を一息に染めた。背中へ抜けた先端からも、赤い雫が続けて落ちる。
胸の内側で、何かが大きく乱れた。
次の鼓動を待った。
押し出されるはずの力が、来なかった。
息を吸っても、空気が入らない。
喉へせり上がった血が口から溢れ、膝の下の石畳へ散った。
シオンの顔から、血の気が引いた。
心臓を、貫かれた。
受け止めて治癒を始めるまで、もつのか。
そう考える間にも、宗一郎の身体から魔力が抜けていく。
音が、遠くなった。
握っていたはずの柄が、掌の中で急に重くなる。
エルネストの手には、杭を撃ち出した針状の道具が残っていた。先端は折れ、根元だけが指の間に覗いている。
男が握り潰すと、それは灰になって崩れた。
「……ようやく、届く距離へ来たな」
宗一郎の膝が落ちた。
息を吸おうとした。
喉へ、血が上がってきた。
シオンが手を伸ばす。
治癒を。
いや、まず距離を――。
ゼルグレアの眼が、開いた。
柄を握っていた宗一郎の指が、びくりと震えた。
胸を貫いた黒い杭が、刺さった向きと逆に押し戻されていく。背中から先端が抜け、やがて杭全体が胸元から滑り落ちた。その直後、穿たれた肉が閉じていった。
シオンは息を呑んだ。
治癒の詠唱は聞こえなかった。宗一郎自身も、魔術を組み上げてはいない。
それなのに、致命傷が塞がっていく。
倒れかけた身体が、地に伏す寸前で踏みとどまった。
その一秒が、異様に長かった。
宗一郎は、薄れていく意識の中で二人の名を呼んだ。
死ぬわけにはいかない。
まだ、取り戻していない。
家へ、連れて帰っていない。
たとえ、この身体がここで終わるとしても。
こいつだけは。
掌の中で、ゼルグレアが脈打った。
漆黒の表面に、無数の亀裂が走る。
裂け目の奥が赤く光り、無骨な武器の輪郭が、内側からほどけ始めた。
砕けて落ちるのではなかった。
幾枚もの黒い外殻が開き、伸び、柄を握る手へ絡みついていく。
指を一本ずつ包み、手の甲で重なり合ったそれが、鋭い鉤爪を備えた籠手となった。
続いて前腕へ。肘を越え、肩へ。
ゼルグレアの長い主軸が縮むにつれ、宗一郎を覆う装甲が広がっていく。
「……離れろ」
血に濡れた唇が動いた。
シオンが顔を上げる。
「宗一郎――」
「……は、早く」
黒い装甲が肩から胸へ回り込み、塞がった傷の上で噛み合った。
赤い光の筋が、その胸元から枝分かれして走る。
脇腹を包んだ外殻が背へ繋がり、腰から脚へ、鱗状の装甲を幾重にも重ねていった。
宗一郎の手には、もう武器はなかった。
ゼルグレアそのものが、彼の全身を覆う鎧へ変わっていた。
背で硬質な音が連なり、節を備えた長い装甲尾が伸びた。
首を這い上がる黒い外殻が頬を覆い、最後に、宗一郎の顔を閉ざす。
額から鋭い突起がせり出した。竜の角と王冠を思わせる影が、炎の光を背に浮かび上がる。
閉じた兜の奥で、二条の赤光が灯った。
――来る。
シオンは跳んだ。
直後、鎧の継ぎ目という継ぎ目から、白い炎が噴き出した。
轟ッ!!
膨れ上がった熱気が、石床を這うように四方へ走った。
散っていた血が一瞬で乾き、足元の石が赤熱する。表面がひび割れ、その裂け目から、融けた岩がどろりと溢れた。
崩れた石壁が白く照らされた。
遅れて、その内側が赤く染まる。積み重なった石の角が崩れ、壁全体が自重でずるりと傾いだ。
残っていた氷の塊が、爆ぜた。
バァンッ!!
膨大な蒸気が吹き上がり、巻き上げられた瓦礫が宙で赤い火の粒へ変わる。
シオンは後退しながら詠唱した。
結界を一枚。その外側へ、さらにもう一枚。
熱風が追いついた。
外側の結界が軋み、押し込まれた熱が頬を刺した。
髪の先で、焦げる臭いがした。
「――ッ!」
まだ足りない。
全力で魔力を注いだ。
足を踏ん張り、結界の面を傾ける。押し寄せる熱風と衝撃を斜めへ流しながら、さらに距離を取った。
視界が、激しく揺らいでいた。
炎の向こうで崩れた柱が伸び縮みし、地面と空の境さえ判然としない。
その中心に、宗一郎が立っていた。
鎧の亀裂から噴き上がる炎が、赤から白へ色を変えていく。
肩から、背から、両腕から。噴流が幾筋も吹き上がり、頭上で巨大な火柱へ合流した。
見上げた空まで赤く染まり、燃えた破片が、火の粉の雨となって降ってくる。
宗一郎が足を動かした。
黒い足甲の下で石床が潰れ、融けた岩が飛沫となって跳ねた。
装甲尾が地を擦り、その跡へ白い炎が走る。
シオンは、呼吸を忘れていた。
熱だけではない。
宗一郎の内側を、膨大な魔力が駆け巡っていた。
先ほどまでの流れは把握できていた。
脚へ集める瞬間も、腕へ切り替える瞬間も。その速さに驚きながらも、どこへ、どれだけの力が向けられるかを追えていた。
今は、その一箇所を流れるだけの魔力が、変貌前の全身に巡っていた量を上回っている。
それが両腕に、両脚に、体幹に、同時に満ちていた。
「……これが、お前の……」
呟きが、熱風の唸りに掻き消された。
まだ増している。
鎧の奥から力が溢れ、そのたびにシオンの肌が粟立った。
戦いの最中でさえ乱れなかったラミセクトの切っ先が、僅かに震える。
宗一郎が強いことは、知っていた。
その身体に、自分の知らない何かがあることも。
だが、これは。
黒い兜が、エルネストへ向いた。
シオンは、思わず叫びかけた。
止まれ、と。
このまま力を放てば、周りがどうなる、と。
声を出すより先に、宗一郎の足元から炎が噴き上がった。
宗一郎が前へ出た。
エルネストの立てた氷壁が、白い蒸気に変わる。
その奥の障壁が歪み、重ねられた術式ごと潰れた。
男が剣を振った。
黒い手が、それを掴んだ。
刃が赤熱する。
握られた場所から、剣が崩れた。
「何だ……」
エルネストが退いた。
顔の前へ、新たな結界を張った。
その外側が、白い炎に押されて窪む。薄い膜に細かな亀裂が広がり、縁から削り取られるように消えていった。
頬を、熱が舐めた。
「――ッ!」
エルネストは顔を背けた。
頬骨の辺りが赤く腫れ、剣を失った手の甲に、細かな水疱が浮いていた。
結界へ、さらに魔力を注ぐ。
膜が厚みを取り戻した。
それでも、頬を焼く熱が引かない。
「馬鹿な……結界は、まだ――ッ!」
その膜の向こうから、黒い腕が伸びてきた。
胸のアーティファクトが明滅する。
黒い指先が、男の胸へ届く直前で掻き消えた。
離れた石壁が、爪で抉られる。
だが、その壁まで白く灼け始めた。
接続の縁から炎が溢れ、胸元へ巻き戻る。アーティファクトを覆う小さな術式が、明滅しながら欠けていった。
アーティファクトから、細い煙が上がった。
胸元の布が焦げ、皮膚へ貼りついた。
男は歯を食いしばり、結界を身体へ引き寄せる。守る範囲を狭め、その分だけ魔力を集中させた。
それでも、肩口から煙が上がるのを止められなかった。
バキィッ!
次の一撃で、そのアーティファクトが砕けた。
「何なんだ、お前はッ!」
声が裏返った。
宗一郎は答えなかった。
黒い腕が男を薙ぎ、地面へ叩きつける。
ズドォンッ!!
石畳が陥没し、男の背を中心に亀裂が走った。
鎧の亀裂から漏れる炎が、男の防壁を一枚ずつ喰い破った。
エルネストは転がりながら印を切った。
雷が落ちた。
火柱が包んだ。
石の槍が、全身へ突き刺さろうとした。
そのどれもが、足を止めなかった。
「待て……」
黒い足甲が、炎の中を進んでくる。
エルネストは後ずさった。焼けた喉から、声を絞り出す。
「待てと言っているッ!!」
片手を突き出し、残る魔力で結界を重ねた。
パキンッ!
一層目が砕けた。
外套の袖が燃え上がる。
二層目が、爪の形に裂けた。
露わになった前腕が赤く爛れ、指が痙攣した。術式を結ぼうとしても、痛みで形が崩れる。
男は声を上げ、もう片方の手で印を補った。
治癒の光が腕を包む。
だが、皮膚が塞がる端から、次の熱波が焼いていった。
息を吸うと、喉が焼けるように痛んだ。
顔を守ろうと上げた腕の向こうで、最後の結界が大きく撓んでいる。
もう、張り直す速さが、壊される速さに追いつかない。
シオンは結界の向こうから、二つの影を追っていた。
あの状態に、近づくことはできない。
自分の名を呼んで、こちらを見た宗一郎の声が、まだ耳に残っている。
離れろ。
彼は、こちらを逃がしてから動いた。
ならば、まだ聞こえているはずだ。
あの鎧の中に、宗一郎がいる。
逃げる。
エルネストは、ようやくその判断に辿りついた。
戦う必要はない。
追わせなければいい。抵触を続ければ数字が尽きる。攻撃をやめるなら、その間に、さらに遠くへ逃げられる。
一時間か。それ以上か。
身を隠せばいい。あの姿がいつまで続くかも分からない。
腰の留め具を引きちぎった。
留め具に埋め込まれた核が、指の間で砕ける。
光が男の身体を包んだ。
地面が遠ざかった。
炎の海が、みるみる小さくなる。
砕けた塔を越え、崖を越え、空へ伸びる光の筋となって、エルネストは戦場を離れた。
宗一郎は、見上げていた。
兜の奥で、赤い目が動いた。
肩甲骨の辺りから、黒い破片がせり出す。
節を繋ぎ、枝を伸ばすように広がり、翼の骨格を形づくった。
その間を、赤黒い炎が満たした。
シオンの背筋を、冷たいものが走った。
「……まさか」
翼の後方へ、炎が絞られた。
宗一郎が、消えた。
ドォンッ!!
次の瞬間、地面が大きく陥没した。
押し潰された空気が、遅れて周囲を打った。
シオンの結界に、幾重もの亀裂が走る。
彼女は歯を食いしばり、頭上を見た。
遠い空に、光の筋が一本あった。
その下から、黒い影が追いついた。
エルネストが振り向いた。
背後にあった空が、黒い翼で塞がれていた。
赤い目が、すぐそこにあった。
「待――」
空が、白くなった。
シオンは両腕を掲げた。
轟音より先に、結界が軋んだ。
大気が撓み、雲の一角が丸く押し退けられる。
――ドゴォォォンッ!!
遅れて届いた爆音が、谷を幾重にも打った。
斜面の木々が一斉に撓み、崩れ残った屋根が内側へ落ちる。
隣の尾根で、リゼットは岩陰へ身を伏せた。
頭上の枝が折れ、落ち葉と土が肩を叩いた。
顔を上げたとき、山の向こうの雲が、白い光に縁取られていた。
「……お二人とも」
水晶を握った。
戻るなと言われた道へ、一度だけ目を向けた。
シオンは膝をつき、最後の一層を保った。
頭上から、何かが落ちてきた。
焼け焦げた男だった。
遠くの斜面へ墜落し、土煙が上がる。
その上に、黒い影が降りた。
シオンが辿りついたとき、エルネストはもう動いていなかった。
宗一郎が、その傍らに立っていた。
視界にあった数字は、消えている。
シオンは足を止めた。
呼吸を確かめる。魔力の流れを探る。
男の生命が、途切れている。
終わった。
そう思った途端、黒い兜がこちらを向いた。
シオンは、無意識にラミセクトへ指をかけた。
「……宗一郎」
赤い目が、彼女を捉えた。
鎧の爪が、僅かに動いた。
シオンは刀を抜かなかった。
「終わったぞ」
届くように、もう一度言った。
「お前が倒した。……もう、戦う相手はおらぬ」
沈黙があった。
やがて、爪を備えた手が、ゆっくりと下りた。
兜の表面に細い亀裂が走った。
角が崩れる。
翼の炎が消え、骨格が背へ沈む。
鎧が全身から剥がれるように集まり、黒い武器の形へ戻っていった。
宗一郎の膝が折れた。
シオンは駆け寄り、その身体を受け止めた。
「おい。私を見ろ」
熱い。
肌へ触れた瞬間、掌に痛みが走る。
それでも、支える手は離さなかった。
「……りん」
宗一郎の唇が動いた。
「あり、あ……」
「まだ確認していない。今、知らせを取る」
胸の傷は塞がっていた。
だが、呼吸は浅く、焦点が合っていない。
シオンは彼を横たえ、状態を確かめながら治癒魔術をかけた。
「お前のやることは終わった。今は息をしろ」
宗一郎の指が、彼女の袖を掴んだ。
「帰……」
「分かっている」
その指は、すぐに力を失った。
シオンは一度だけ唇を結び、伝声水晶へ手を伸ばした。
水晶が応えたのは、二度目の呼びかけのあとだった。
『……シオン様?』
「終わった。エルネストは死んだ」
返事が途絶えた。
小さく息を吸う音だけがした。
『宗一郎さんは』
「生きている。だが、動かせる状態ではない。お前はそこから、安全に下りられる道を探せ。熱の残っている場所へは近づくな」
『……分かりました』
「それと、元老院へ連絡を。学院にも伝えてもらえ。失踪者が戻っているか、確認したい」
リゼットの声が、震えた。
『はい』
シオンは、横たわる宗一郎を見た。
目を閉じたまま、その唇が僅かに動いている。
二つの名だった。
「……お前の父もだ」
水晶の向こうで、押し殺した息が漏れた。
『確認、します』
通信が途切れた。
シオンは水晶を置き、宗一郎の胸へ手を戻した。
服に開いた穴の下で、傷は塞がっていた。
それでも、貫かれた瞬間が目に焼きついていた。
掌を当て、確かめずにはいられなかった。
鼓動があった。
「……帰るのだろう」
返事はなかった。
シオンは治癒の光を絶やさず、その顔を見つめた。
「二人のところへ。お前もだ」
谷を渡る風に、焦げた臭いが混じっていた。
崩れた石のどこかで、小さな音が続いている。
シオンは、宗一郎の胸へ添えた手を動かさなかった。
その下で、次の一拍が打った。




