封獄ヴィンディクタ
新世暦411年 初冬
凛とアリアが失踪してから二十六日目
因果遺物《封獄ヴィンディクタ》
血に染まったような深紅の鍵。その内側では、黒い血を思わせる液体がゆっくりと巡っている。
契約者は、この世界で実際に行われ、自身に害を与えている行為や活動を「禁則」として定める。
その効力は世界全域に及び、対象となる人数に上限はない。誰が禁則に抵触するかを判定するのは、ヴィンディクタそのものである。
抵触した者の視界には、「10,000」の数字が現れる。
心臓が一度打つごとに残数が一つ減り、瞬きをすると、その時点の数字へと変わる。目を閉じていても計数は続き、恐怖で鼓動が速まれば、それだけ猶予も短くなる。
何を禁じられたのか。数字は何を意味するのか。ゼロになれば、何が起こるのか。
その説明は、一切与えられない。
猶予のうちに禁則への抵触が解消されれば、数字は消え、捕縛を免れる。ただし、やめると口にするだけでは足りない。禁じられた行為や活動から、実際に離れなければならない。
抵触したまま数字がゼロに達した者は、何の前触れもなく現世から消失する。
移される先は、現実と同じ姿を持つ、他者の存在しない世界。
見慣れた街も、帰る家も、そのまま残されている。風が吹き、水が流れ、季節も巡る。それでも、呼びかけに応える者は誰もいない。同じ裁定を受けた者さえ、それぞれ別の世界に閉じ込められている。
捕らえられた者は、そこで通常どおり年齢を重ね、病み、命を落とす。ヴィンディクタが、その命を守ることはない。
一度捕縛されれば、禁じられた行為をやめても帰還はできない。契約者自身にも、捕らえた者を解放する権限はない。
解放の条件は、ただ一つ。
――契約者の殺害。
その命が断たれたとき、生き残っている者だけが現世へ還る。
ヴィンディクタが奪うのは、他者と共に生きる未来。その鍵は、世界そのものを、一人きりの牢獄へと変える。
「あの男を、殺すしかない」
宗一郎の声が途絶えたあと、誰もすぐには言葉を継がなかった。
卓に置かれた紙の端を、風が持ち上げた。
リゼットが押さえた。その指先が、細かく震えていた。
「……本人にも、戻すことはできないのですね」
「ああ」
宗一郎は答えた。
「捕らえたあとで、気が変わってもだ。あいつ自身が望んでも、二人は戻らない」
リゼットの視線が、空白のまま残っていた見出しへ落ちた。
帰還の条件。
彼女はそこへ筆を置きかけ、しばらくしてから、短い一行を書いた。
シオンが腕を組んだ。
「居場所は?」
「分かる」
宗一郎は目を閉じた。
知らないはずの風景が、迷いなく浮かんだ。
山に挟まれた谷。斜面を縫う細い道。その先に残された石造りの建物。
屋根の一部が崩れ、低い壁の内側に、かつての中庭がある。
「山の中だ。古い建物を使っている。谷へ下りる道の途中に、二つに割れた大岩がある」
「地名は、分かりますか?」
宗一郎が告げると、リゼットは顔を上げた。
「……こちらの沿岸から、内陸へ入った場所です」
彼女は荷から地図を取り出した。
折り目を開き、卓の上へ広げる。岬の位置を確かめてから、指を山地へ滑らせた。
「この辺りです。街道を使えば迂回が必要ですが、直線なら、それほど離れてはいません」
宗一郎は地図を見た。
頭の中の景色と、紙に描かれた山の形を照らし合わせる。
「ここだ」
指を置いた場所を、リゼットがじっと見つめた。
「元老院で閲覧した記録にも、この地方への滞在がありました。いつも足取りが途切れるので、山を越えているのだと思っていましたが……」
「その建物へ戻っていた、ということか」
シオンの問いに、リゼットは慎重に頷いた。
「その可能性はあります。少なくとも、一度だけ通りかかった土地ではありません」
「そこへ行く。ただ、今いるからといって、着くまでそこにいる保証はない」
宗一郎は地図の上で、岬から谷まで指を動かした。
「できるだけ早く近づきたい。……その前に、手順を決めておこう」
シオンへ目を向ける。
「居場所と、戻す条件は分かった。だが、あいつが戦いで何を使うかは分からない。そこは、二人で見極める必要がある」
「そうだな。超越者と呼ばれるだけの相手だ。鍵だけを警戒して済むとは思えぬ」
シオンが地図へ視線を落とした。
「近づくまでは、こちらに気づかれぬ方がよい。地形を見て、仕掛ける場所も決めよう」
宗一郎は頷いた。
卓の向こうで、セレスティアが静かに杯を置いた。
「その谷ならば、知っている」
三人の顔が向いた。
「近くまでは送ってやれる。空を行けば、地上の道を辿る必要もない」
「……頼めるのか」
「お前たちを下ろす程度なら、長くここを空けずに済む」
セレスティアは傍らの少女へ目を向けた。
ミスティルは本を閉じたまま、三人の声を聞いている。
「ただし、男の前へ運んでやるつもりはない。近づけば、私が来たことを察するかもしれぬ」
「それでいい」
宗一郎は答えた。
「そこからは、俺たちで行く」
地図の谷を囲むように、リゼットが細い線を引いた。
「下ろしていただくのは、この尾根の手前ではどうでしょう。建物を直接見下ろす場所は避けて、森の中から近づきます」
「まずは、ここから建物を確かめよう。記憶にある景色と同じか、俺が見る」
宗一郎は、尾根から谷へ続く斜面を指した。
「周りに何があるかも見たい。道は一つとは限らない」
「では、私は建物の周囲を見よう。ほかに人がいるかも、確かめておく」
シオンが応じた。
「お前も、来るのか?」
リゼットに向けて問うと、彼女は筆を止めた。
「近くまでは、ご一緒させてください。周辺の地形を確認し、戻るための道も確保します」
「相手は超越者だ」
「承知しています。お二人と同じ場所で戦えるとは思っていません」
声は落ち着いていた。
「戦闘が始まる前に離れます。離れたあとは、必要があっても安易に近づきません」
宗一郎は、彼女の顔を見た。
「……危なくなったら、すぐに離れろ」
「はい」
「俺たちを探しに戻る必要もない」
リゼットは一度、唇を結んだ。
それから、深く頷いた。
「それと、もう一つ」
宗一郎が言った。
「こちらが何を知っているか、あいつは知らない」
シオンの目が、地図から上がった。
「解放の条件をか」
「ああ。俺たちが二人を助けに来たと分かれば、交渉を持ちかけてくるかもしれない。要求に従えば返す。自分を殺せば、二度と会えなくなる。……そう言えば、こちらは手を出せなくなる」
リゼットが筆を止めた。
「自分には解放できないことを、隠して、ですね」
「俺たちが知らなければ、確かめようがない。従うしかないと思わせるには、それで十分だ」
宗一郎は卓に置かれた紙を見た。
そこに書かれた、帰還の条件。
「だが、俺たちは知っている」
声を低めた。
「その違いは、使える」
シオンは少しの間、宗一郎を見つめた。
「……こちらが、自分を殺せぬと思わせておくのか」
「ああ。返してほしいと頼む相手が、初めから自分を殺すつもりだとは、思いにくいだろう。こちらの狙いを読み違えれば、一瞬でも、対応が遅れるかもしれない」
シオンが静かに顎を引いた。
「交渉に応じるふりをして、隙を作る。その間に、二人で仕掛ける位置へ入るわけだな」
「そうだ。こちらから、知っていると教える必要はない」
宗一郎は彼女を見た。
「俺が話す。その間、お前には、あいつの動きを見ていてほしい」
「承知した。どちらか一人へ注意を向けたなら、もう一人が動ける」
「ただ、思い通りの反応をするとは限らない。交渉を持ちかけずに攻撃してくるなら、その場で合わせよう」
「無論だ」
シオンの視線が、宗一郎の手元へ落ちた。
紙の端を押さえる指に、いつの間にか力がこもっていた。
「……あの男を前にしても、今の判断を忘れるなよ」
宗一郎はすぐには答えなかった。
二人を返す。
あの男の口から、その言葉を聞く。
どんな顔をして、それに応じることになるのか。
指を緩め、シオンを見た。
「そのときは、声をかけてくれ」
彼女は一度だけ頷いた。
「分かった」
地図を畳みかけたリゼットが、ふと手を止めた。
「その前に、私も」
声は小さかった。
それでも、卓を囲む者たちの視線が、彼女へ集まった。
彼女はミスティルの方へ向き直った。
「父のことを、聞かせていただきたいです」
少女が顔を上げた。
リゼットはその前へ椅子を寄せ、腰を下ろした。
膝の上で重ねた手を、何度か組み直す。
「父が今、生きているのか。それから……私が、父を現世へ連れ戻すために満たさなければならない条件を」
そこで一度、言葉を切った。
「それだけを、知りたいです」
セレスティアが少女の手に触れた。
短い沈黙のあと、ミスティルは頷いた。
白い本が開かれた。
リゼットは父の名を告げた。
所属していた部署と、失踪した年を、一つずつ確かめるように言葉へした。
最後まで、声は乱れなかった。
少女の指が頁へ触れた。
リゼットの身体が、椅子の上で強張った。
両手が膝を掴み、そのまま動かなくなる。
宗一郎は何も言わずに待った。
彼女は目を見開いていた。
唇が僅かに動いたが、声にはならなかった。
しばらくして、俯いた。
膝の上で握り締めた手に、雫が落ちた。
「……生きて、います」
掠れた声だった。
「父も、まだ……」
宗一郎は息を吐いた。
隣で、シオンがそっと目を伏せる。
リゼットは片手で口元を覆った。
何度も頷いていた。誰に向けているのか分からないまま、与えられた答えを確かめるように。
「同じでした」
ようやく、顔が上がった。
「帰るための条件は……お二人と、同じです」
宗一郎は頷いた。
「ああ」
それ以上、急かさなかった。
リゼットは顔を覆い、しばらく声を殺して泣いた。
セレスティアは何も言わず、ミスティルの開いていた本を閉じてやった。
やがてリゼットが、濡れた目元を拭った。
「……ありがとうございます」
少女へ向けて、深く頭を下げた。
「ずっと、知りたかったんです」
ミスティルは両手で本を抱え直した。
少し迷うように顔を傾け、それから、嬉しそうに微笑んだ。
出発の支度は、長くはかからなかった。
リゼットが書き散らした紙を揃える。
シオンは荷紐を締め直し、腰の刀の位置を確かめた。
宗一郎は柱に預けていたゼルグレアを持ち上げた。
黒い柄が、掌に収まった。
ここへ来るまで、何度も握り直した。
行く先のない焦りを抑えるために、ただ重さを確かめた夜もあった。
今は、向ける相手が分かっている。
大剣を背に収めてから、宗一郎はセレスティアの前へ進んだ。
「世話になった」
深く、頭を下げた。
「二人が生きていると分かった。どうすれば戻せるかも。……ここへ来られて、よかった」
「答えを与えたのは、私ではない」
「それでも、お前が会わせてくれた」
セレスティアは答えなかった。
長い袖の中で指を重ね、しばらく宗一郎を見ていた。
「約束を忘れるな」
静かな声だった。
「答えは得られた。二人を取り戻したあとは、お前の番だ」
「ああ、忘れていない」
「二人が戻れば、それで終わりではないぞ」
「ああ。約束は、果たす」
淡い青の瞳が、その返事を見定めた。
「ならば、まずは戻ってこい」
セレスティアは言った。
「あの男に殺されては、私も困る」
宗一郎は短く頷いた。
そのとき、小さな衣擦れがした。
ミスティルが、セレスティアの袖を引いていた。
何かを伝えるように、その顔へ顎を向けている。
セレスティアが身を屈め、小さな手を取った。
「……そうか」
少女の指が、重ねられた手の上で動いた。
セレスティアは宗一郎たちへ向き直った。
「また来てほしいそうだ」
リゼットが顔を上げた。
「地上の話を、もっと聞きたいと」
ミスティルの顔が、三人のいる方へ向けられた。
宗一郎は少女の前へ膝を折り、声を和らげた。
「……ありがとう、ミスティル」
少女の口元が緩んだ。
「助けてもらったことは、二人にも話したい。どこで、誰に、とは言わない。だが、礼を言う相手がいることだけは」
セレスティアを見上げると、女は僅かに顎を引いた。
「それならば、構わぬ」
宗一郎は少女へ向き直った。
「また来る。今度は、二人の話も持ってくる」
ミスティルが大きく頷いた。
「私も、またお話ししに来るわ」
リゼットの声に、少女の顔がぱっと明るくなった。
「市場の続きを、まだ話していなかったものね」
小さな肩が揺れた。
声のない笑いが、そこにあった。
シオンが少しだけ目を細める。
「私にまで、同じ顔を向けるな。……何か、考えておく」
ミスティルは本を抱えたまま、もう一度、嬉しそうに頷いた。
セレスティアが少女を回廊へ送り届ける間、三人は庭の端で待った。
白い欄干の向こうに、雲が広がっている。
水路の水が細く流れ落ち、途中から、光の中へ見えなくなっていた。
リゼットが一度、振り返った。
ミスティルは回廊の椅子へ座り、こちらへ耳を向けている。
彼女が別れの言葉を掛けると、小さな手が上がった。
戻ってきたセレスティアが、三人を見た。
「行くぞ」
足元が浮いた。
今度は、宗一郎も膝を強張らせなかった。
白い床が離れ、欄干が胸の高さを過ぎていく。
シオンが隣で地上の方へ目を向けた。
リゼットは荷を胸へ寄せ、足元を見ないよう顔を上げていた。
回廊が、遠ざかった。
宗一郎が振り返ると、白い柱の間で、小さな手がまだ上がっていた。
「またな」
風の中へ、声を送った。
少女の顔が上がったのを、最後に見た。
雲へ入った。
冷たい白が、視界を満たした。
それを抜けると、眼下に暗い海と、入り組んだ海岸線が広がっていた。
遠い岬に、崩れた神殿がある。
その前で夜を明かしたのが、ずっと以前のことのように思えた。
三人を包む空気は、穏やかなままだった。
だが、地上は速く流れていく。
海が後ろへ離れ、畑の区画が過ぎ、やがて、幾重にも重なる山の稜線が前へ迫ってきた。
セレスティアは振り返らなかった。
ときおり地形を確かめるように進路を変え、雲の影に覆われた山地へ入っていく。
宗一郎は、その先を見ていた。
頭の中に刻まれた景色が、少しずつ、目の前の形へ重なっていった。
木々の間へ下ろされたとき、陽はまだ高かった。
落ち葉が靴の下で沈んだ。
久しぶりに感じる、柔らかな地面だった。
「尾根は、あちらだ」
セレスティアが木立の奥を示した。
「越えれば、谷へ下りる道がある。あとは自分たちで確かめろ」
「ありがとう」
宗一郎が言うと、女は一度だけ頷いた。
「次に来るときも、岬で名を告げよ。勝手に上を目指すな」
「分かった」
セレスティアの足が、落ち葉を離れた。
白い裾が枝葉の間を上がり、銀の髪が一瞬だけ陽を弾く。
その姿は、すぐに見えなくなった。
森の音が戻ってきた。
鳥が鳴いていた。
どこかで枝が擦れ、乾いた葉が一枚、宗一郎の足元へ落ちた。
シオンが先に歩き出した。
「行くぞ」
宗一郎も続いた。
枝を避け、木の根を跨ぐ。
斜面の上へ回り込み、見通しのよい場所へ出る直前で、シオンが片手を上げた。
三人とも、足を止めた。
彼女は腰を低くし、幹の陰から先を窺った。
「……建物がある」
宗一郎は、その隣へ進んだ。
谷の底に、石壁が見えた。
屋根の一部が落ちている。
壁に囲まれた中庭には、傾いた柱が何本も残っていた。
その手前で、細い道が曲がっている。
二つに割れた、大岩。
宗一郎の指が、背の柄へ触れた。
「ここだ」
リゼットが、少し離れた木の陰へ身を寄せた。
シオンは建物から目を離さなかった。
崩れた屋根の向こうで、細く煙が上がっている。
風に押されて薄れ、また、新しい煙が続いた。
誰かが、いる。
宗一郎は柄から手を離した。
隣のシオンを、一度、見た。
彼女もまた、こちらを見返した。
それから二人で、谷へ目を戻した。
あの男は、まだ知らない。
二人を迎えに来た者たちが、その牢獄を開く条件まで知っていることを。




