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届かない声

新世暦411年 秋〜初冬

凛とアリアが失踪した日から、25日目


 肩を抱いていた手の温もりが、なくなった。


「宗一郎さん、私——」


 言いかけた声だけが、医務室に残った。

 凛は顔を上げたまま、動けなかった。

 すぐ目の前に、宗一郎がいた。身体を屈め、自分を抱き上げようとしていた。その腕に縋りついていたはずの指は、何もないところで曲がっていた。

 隣を見た。

 アリアも、いない。

 開いた扉。倒れた椅子を退けた職員。奥の寝台で水晶へ呼びかけていた教師。泣いていた生徒も、走り回っていた治癒師も。

 皆、いなくなっていた。


「……え?」


 膝が折れた。

 支えてくれる腕はなかった。床へ手をつき、凛は息を詰めた。冷たい床板の感触だけが、妙にはっきりしていた。

 視界にあった数字は、消えていた。


「宗一郎さん……?」


 呼んでから、返事を待った。

 窓際で、白い幕が揺れている。


「アリア?」


 つい先ほどまで、あれほど大勢が話していた。

 足音と、叫び声と、誰かの泣く声。そのすべてが途絶え、窓から入る風が幕を擦る音だけになっていた。

 凛は立ち上がった。

 開いた扉へ向かう。廊下を覗き、右を見て、左を見た。


「誰か……」


 声が細く伸びた。


「誰か、いませんか……!」

     


 宗一郎の服を掴んでいた。

 アリアは、空になった自分の手を見つめた。

 指の間に、布の感触が残っていた。引き寄せられたときの力も、肩に回った腕の重みも、まだ覚えている。


「……宗一郎?」


 返事はなかった。

 凛が消えた。

 そのすぐあとに、宗一郎まで。


「ちょっと……どこ行ったの……」


 伸ばした手を、前へ動かした。

 誰にも当たらない。

 今度は両手を伸ばし、彼がいた場所を確かめた。背の高い身体が、そんなことをしても見つからないと分かっていた。それでもやめられなかった。


「宗一郎!」


 振り返る。

 医務室には誰もいなかった。


「先生……?」


 奥へ走った。寝台の間を抜け、水晶の置かれた机へ回り込む。

 地図が広げられている。薬の器がある。床には、割れた欠片も落ちている。

 さっきまで、ここにいた。


「ねえ! 誰か!」


 廊下へ飛び出した。

 靴音が、壁に跳ね返った。

     


 凛は、教室の扉を一つずつ開けた。

 机と椅子が並んでいる。開かれた教本があった。書きかけの文字が黒板に残り、窓際には誰かの上着が掛けられている。

 研究会の部屋にも行った。

 作業台の上には、昨日見たままの器具があった。いつも座る場所へ目を向けたとき、凛は思わず、そちらへ一歩踏み出した。

 そこに座れば、誰かが声をかけてくれるような気がした。

 けれど、椅子は空いたままだった。

 中庭へ出た。

 校舎の窓を見上げた。


「アリア——!」


 少し待ち、もう一度呼んだ。

 返事はなかった。

     


 アリアは階段を駆け上がった。

 学院長室の扉を叩き、返事を待たずに押し開ける。誰もいない部屋を見て、そのまま隣の部屋へ向かった。

 校庭。訓練場。食堂。

 呼びかけながら走るうち、喉がひりつき始めた。

 学院の門を抜けると、いつもの街が広がっていた。

 店先に果物が並んでいた。

 荷車が道の端に止まっていた。

 馬が、いなかった。

 荷車から垂れた手綱を見て、アリアは足を止めた。

 顔を上げる。

 通りの向こうまで、誰の姿もなかった。


「……嘘でしょ」


 すぐそばの店に入った。奥へ声をかけた。返事がないと、隣の店へ走った。

 ギルドへも行った。

 勢いよく扉を開けたのに、こちらを見る者はいなかった。受付の向こうも、依頼の掲示板の前も、いつも誰かが腰掛けている席も、空いていた。


「誰か、いませんか!」


 奥の部屋へ続く扉を叩いた。


「誰でもいいから……返事してよ!」


 拳を当てたまま、息を切らした。建物の奥まで、静まり返っていた。

     


 家の扉に手をかけたとき、凛は一度、呼吸を整えた。

 ここには、いるかもしれない。

 学院で何かが起きて、皆が避難したのかもしれない。宗一郎もアリアも、先に帰っているのかもしれない。

 扉を開けた。


「……ただいま」


 玄関に、靴があった。

 棚の上には、今朝アリアが探していた籠がある。

 凛は廊下を進んだ。


「宗一郎さん?」


 食卓の椅子は、空いていた。


「アリア……帰ってないの?」


 台所に食材が置かれていた。

 根菜と、肉。

 凛は、それを見たまま立ち尽くした。

 温かいスープがいいと、アリアが言った。

 帰る頃には用意しておくと、宗一郎が答えた。

 自分は、パンを買ってくると約束した。

 何も持っていない両手へ、目を落とした。

 まだ、間に合うだろうか。

 パンを買いに行って、帰ってきたら。

 そんな考えが浮かんで、凛は唇を噛んだ。

 店にも、誰もいなかった。

 棚の伝声水晶へ駆け寄った。

 宗一郎の魔力紋へ呼びかけた。しばらく待ち、アリアにも呼びかけた。

 答えはなかった。

 凛は階段を上がった。

 自分たちの部屋を覗き、宗一郎の部屋の前で足を止める。

 扉を叩いた。

 家中を探したあとでも、返事を待ってしまった。


「……入りますね」


 部屋には、誰もいなかった。

 整えられた寝台へ、凛は近づいた。

 端に腰を下ろした途端、脚から力が抜けた。


「宗一郎さん……」


 声が崩れた。

 布を掴んだ指に、雫が落ちた。

     


 アリアが家に帰ったとき、通りには夕日が差していた。

 扉を開け、台所を確かめ、階段を上がった。

 どの部屋にも、人はいなかった。

 自分の寝台の隣には、凛の寝台がある。

 掛け布団に触れた。

 冷たかった。


「凛……」


 あのとき、もっと強く掴んでいれば。

 消えた場所へ、すぐに飛び込んでいれば。

 何をすればよかったのか分からないまま、同じ瞬間ばかりが頭の中に浮かんだ。

 階下へ戻り、玄関の扉を開けた。

 誰かが通るかもしれない。

 宗一郎が帰ってくるかもしれない。

 敷居に座り、膝を抱えた。

 空の赤が薄れ、向かいの家の輪郭が見えにくくなっていった。

 いつまで待っても、窓に灯りはともらなかった。

     


 翌朝、凛は扉の開く音で目を覚ました。

 身体を起こした。


「宗一郎さん……!」


 返事はなかった。

 階下へ下り、玄関まで行った。

 扉は、閉まっていた。

 しばらくして、台所の方で、ことりと音がした。

 凛は振り返った。

 窓が、風に押されていた。

 留め金を掛けると、音が止んだ。

 指を離してから、凛は窓を少しだけ開け直した。

     


 何日も、探した。

 凛は学院の部屋を確かめ直し、アリアは街の外へ足を延ばした。

 凛は見つけた紙へ、自分の名と家の場所を書いた。学院の入口や人通りの多かった広場に置き、家にも書き置きを残して出かけた。

 街道の先の集落でも、家々を訪ねて回った。畑にも、人影はなかった。

 夕方になると、二人とも家へ戻った。

 離れている間に誰かが訪ねてきて、帰ってしまったら。

 その考えが、遠くへ行く足を鈍らせた。

 凛は帰るたび、食卓に残した書き置きを確かめた。紙はいつも、置いたときのままだった。

 アリアの食卓には、誰からの書き置きもなかった。

 誰かが戻れば気づけるよう、わざと少し引いておいた椅子も、動いていなかった。

     


 風のない日だった。

 アリアは食卓に向かい、食事の手を止めた。

 窓の外では、木の葉さえ動かなかった。


「……静かすぎ」


 声に出すと、少しだけ楽になった。

 器を持ち上げ、置いた。

 ことん、と鳴った。

 もう一度、置き直した。

 その音が消えると、自分の呼吸だけが残った。胸の奥がせり上がってきた。

 静けさで、耳の奥が痛いような気がした。


「……何か言ってよ」


 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。

     


 凛は、家で過ごす時間が長くなった。

 朝になれば窓を開け、床を掃き、食事を作った。探しに出る前に一つずつ済ませていた家事に、少しずつ時間をかけるようになった。

 動いている間は、次にすることを考えられた。

 けれど、洗濯物は少なかった。

 掃除をした部屋は、次の日もあまり汚れていなかった。

 二人の分まで片づけようと思っても、片づけるものがなかった。

 ある朝、パンを焼いた。

 生地をこねていると、いつものように時間が過ぎた。炉から香りが漂い始めた頃には、凛は少しだけ、穏やかな気持ちになっていた。

 焼き上がったパンを取り出す。


「焼けましたよ」


 言ってから、手が止まった。

 廊下を駆けてくる足音はしなかった。

 熱いまま取ろうとする手も、それを止める低い声もなかった。

 凛はパンを籠に並べた。

 三人で食べるには、ちょうどよい数だった。

 食卓に置き、椅子へ座った。

 向かいの席を見た。

 隣の席も、見た。

 パンを割ると、白い湯気が上がった。

 少しちぎって口へ運んだが、うまく飲み込めなかった。

     


 十日を過ぎた頃、アリアは食事の途中で凛の名を呼んだ。


「ねえ、これ——」


 隣の椅子を見て、口を閉じた。

 煮込みの味が薄かった。

 何を足せばいいのか聞こうとした。それだけのことだった。

 匙を握ったまま、俯いた。

 自分が話し始めると、凛はいつも顔を向けてくれた。

 少し呆れた顔をすることもあった。話の途中で笑うことも、先に言いたいことを言い当てることもあった。

 その顔を思い出そうとして、医務室で泣いていた顔が浮かんだ。


「……どこにいるのよ」


 凛も、こんな場所にいるのだろうか。

 一人で、泣いているのだろうか。

 宗一郎と一緒ならいい。

 二人が一緒にいるなら、凛はきっと大丈夫だ。

 そう思ったあとで、自分だけがここにいることが、急に苦しくなった。

 アリアは匙を置き、両手で顔を覆った。

 二人に、無事でいてほしかった。

 その二人に、自分を迎えに来てほしかった。

     


 凛は、ときどきアリアに腹を立てた。

 いつもなら、何か言うはずだった。

 暗い顔をしていれば肩を叩く。考え込んでいれば、外へ行こうと誘う。失敗した料理でも、一口食べてから感想を言う。

 そういう声が、ほしかった。


「……何か、言ってよ」


 隣の寝台へ呟いた。

 掛け布団は整ったままだった。

 凛は自分の寝台を下り、そちらへ座った。

 アリアが髪を梳かすときに使う櫛が、棚にあった。

 手に取った。

 赤い髪を乱したまま出かけようとして、呼び止めたことがある。面倒そうに座ったアリアの髪を梳かしながら、もう少し早く起きればいいのに、と言った。

 何と返されたのか、思い出せなかった。

 声の調子だけが、耳に残っていた。

 凛は櫛を両手で包んだ。

 もう一度、あの声が聞きたかった。

     


 二十日目の朝、アリアは家を出る支度をした。

 上着を着て、短剣を確かめ、玄関まで行った。

 取っ手に手をかけたまま、動けなくなった。

 今日は、どこへ行けばいいのだろう。

 通った道が浮かんだ。

 開けた扉が浮かんだ。

 何度も呼び、何度も返事を待った。

 今日も、そうなのだろうか。

 手を離した。

 廊下に座り込んだ。

 宗一郎は、あのとき言った。

 一人にはしない、と。


「……嘘つき」


 声に出した途端、涙が落ちた。

 言いたくなかった。

 必死に手を伸ばしてくれたのを、覚えていた。自分を引き寄せた腕も、こちらを見ていた顔も。

 宗一郎だって、どこかで一人かもしれない。

 怪我をしているかもしれない。

 助けを求めるように服を掴んだ、最後の自分の手を思い出した。


「……ごめん」


 膝へ顔を押しつけた。


「ごめん、宗一郎……」


 泣いても、背中を撫でる手は来なかった。

     


 夜になると、凛は宗一郎の部屋の前で足を止めることが増えた。

 扉を開け、椅子や寝台の端に座って、しばらく過ごした。

 初めの日に泣いた場所へ戻ると、張り詰めていたものが少しだけ緩んだ。

 それでも、部屋のものを動かすのはためらわれた。

 帰ってきたとき、いつもと同じように休んでほしかった。

 けれどある晩、どうしても自分の部屋へ戻れず、枕のそばへ身体を丸めた。

 頬に触れる布から、知っている匂いがした。

 凛は両手で口を覆った。

 会いたかった。

 食卓で向かいに座ってほしかった。買い物から帰って、荷物を受け取ってほしかった。名前を呼んで、こちらを見てほしかった。

 どうして、こんなにも会いたいのだろう。

 考えようとしても、浮かぶのは一緒に過ごした何でもない時間ばかりだった。

 胸の奥にあるものを、うまく言葉にできなかった。


「会いたい……」


 小さな声が、布に吸い込まれた。

 目を閉じると、医務室でこちらを見ていた顔が浮かんだ。

 あのときも、自分は何かを言おうとしていた。

 何を言うつもりだったのか、もう分からなかった。


「会いたいです……宗一郎さん……」


 凛は布を握り、声を殺して泣いた。

     


 二十五日目。

 アリアは窓のそばへ置いた紙に、短い線を一本足した。

 五本ずつ束にした印が、五つになった。

 初めの頃は、線を引くたびに、今日こそはと思っていた。

 今は、引き終えるとすぐ、紙を裏返した。

 外は暗くなっていた。

 通りに灯りはなかった。

 アリアは階段を上がり、宗一郎の部屋の前で足を止めた。

 何度も覗いた部屋だった。

 それでも夜に入ると、家主のいないことが、昼間よりはっきり分かってしまいそうだった。

 扉へ額を寄せた。


「……入るからね」


 小さく開けた。

 寝台まで歩き、端へ座った。

 大きな枕が一つ、置かれていた。

 アリアはそれを膝へ引き寄せ、両腕で抱いた。

 いつだったか、宗一郎の腕にしがみついた自分を見て、凛が少しだけ黙ったことがあった。

 あの顔を、今なら分かる気がした。

 帰ってきたら、また困らせるだろうか。

 宗一郎の隣に座りたくて。凛にも隣にいてほしくて。

 そんな食卓を思い浮かべた。

 笑おうとしたが、唇が震えただけだった。


「凛も……一緒に帰ってきてよ」


 枕へ顔を伏せた。


「また三人で、ご飯食べようよ……」


     

 凛は、階下の灯りを消しに戻った。

 食卓には、朝に拭いた三つの椅子が並んでいた。

 玄関を見た。

 今日も、扉は開かなかった。

 外へ出るたび、家が見える角を曲がるたび、そこに誰かが立っていないか探していた。

 明日も、きっと見てしまう。

 凛は灯りを消した。

 暗くなると、家の広さが分からなくなった。

 手すりを掴み、一段ずつ階段を上がった。

 宗一郎の部屋へ戻り、寝台へ横になった。

 今夜は風がなかった。

 幕も揺れず、窓も鳴らなかった。

 凛は目を閉じた。


「……おやすみなさい」


 返事を待つ間に、涙が一筋、枕へ落ちた。

     


 同じ形の家の、同じ部屋で、二人は夜を過ごしていた。

 一方では、凛が掛け布団の端を握っていた。

 もう一方では、アリアが枕を抱いていた。

 互いの声も、ぬくもりも届かなかった。

 二人とも、一人だった。

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