原典エピスティリア
新世暦411年 初冬
凛とアリアが失踪してから25日目
因果遺物《原典エピスティリア》
白い表紙に、黒い紋章。
その内に綴じられているのは、ただ1枚の、何も書かれていない頁である。
そこに文字が浮かぶことはない。
誰かが頁を繰り、答えを読み上げることもない。
問いに応じて与えられるのは、既にこの世に存在する真実。
それは言葉を介することなく、問うた者の記憶へ直接刻み込まれる。
失われた歴史も。
誰にも知られていない秘密も。
ただし、その真実が、問うた者を救うとは限らない。
宗一郎が話し終えたあとも、水の音は変わらず庭に流れていた。
ミスティルは白い本を膝に載せ、じっと耳を傾けていた。途中で首を傾げることはあっても、退屈そうに身じろぎすることはなかった。
凛とアリアが消えた瞬間を話したとき、表紙に添えられた小さな指が、わずかに縮まった。
「……それで、ここへ来た」
宗一郎は言った。
「二人を、連れ戻したい」
ミスティルが顎を引いた。
その傍らで、セレスティアが静かに口を開く。
「この子の持つ本は、因果遺物だ」
シオンの目が動いた。
「えっ……い、因果遺物、ですか?」
リゼットの声が、思いがけず上ずった。
抱えていた紙が腕の中でずれ、慌てて押さえ直す。視線は、少女の膝にある白い本から離れなかった。
呼び名だけは、知っていた。
だが、実在が確かめられた例を、彼女は知らない。遺跡や古い文献を調べる中でも、確かなものには一度も出会わなかった。
「それが……本当に、実在するのですか……」
今度は声を抑えた。けれど、確かめずにはいられなかった。
「現に、ここにある」
セレスティアは、少女の膝に置かれた本へ目を向けた。
「名を、原典エピスティリアという」
宗一郎は、少女の膝へ目を落とした。
小さな手に収まるほどの白い本。
それがシオンの刀と同じ名で括られるものだということが、すぐには実感できなかった。
「この子に問いかけ、この子が答えを与えることを選べば、その問いに該当する真実がお前の記憶に刻まれる」
「記憶に……直接、ですか」
リゼットの問いに、セレスティアが頷く。
「この子が口で教えるのではない。文字を読む必要もない。与えられた瞬間、お前はそれを知っている」
「誰も知らないことでも、か」
シオンの声は低かった。
「人に知られているかどうかは関係ない。既に存在する真実であれば、答えの対象となる」
葉擦れが、妙にはっきりと聞こえた。
リゼットは何かを言いかけ、唇を閉じた。視線が白い表紙に留まったまま、動かない。
22年前、痕跡すら残さず失われた人々。その行方も、あの日何が起きたのかも、この本ならば――。
「そんなものが……本当に、存在するのですね」
掠れた声だった。
シオンは自分の腰へ目を落とした。
ラミセクトを帯びている彼女でさえ、すぐには言葉を継がなかった。
宗一郎は、白い本を見つめていた。
分かる。
二人がどこにいるのかも。
今まで探しても、誰にも教えてもらえなかったことが。
胸の奥で、何かが急に熱くなった。
だが、問いかけようとして、宗一郎は口を閉じた。
どこにいるか。
それを知ったとして。
「……居場所を知っても、そこへ行けるとは限らない」
呟きに、セレスティアの瞳が向いた。
「あの二人がどこにいるかを聞けば、情報は得られる。だが、連れ戻す方法まで教えてくれるわけじゃない。そういうことか」
「その通りだ」
即答だった。
「お前が何を望んでいるかを察して、都合のよい答えに整えてくれる力ではない。問うたことに、真実を与える。それだけだ」
宗一郎は、膝の上に置いた自分の手を見た。
さっきまで、もう手が届いたような気がしていた。
「ならば、二人を助ける方法を問えばよいのではないか」
シオンが言った。
「その問いで、何を知ることになる?」
セレスティアは問い返す。
「助ける、とは。今いる場所から戻すことか。その場所で生き延びさせることか。危険を取り除くことか」
シオンが眉を寄せた。
「望むことを、よく考えろ。何を知れば、自ら動けるのかをな」
「質問は、何度できるんですか?」
リゼットが顔を上げた。
「真実を与えられるのは、一人につき、生涯一度」
宗一郎の指が止まった。
「……一度」
「私も、既に受け取っている。二度目はない」
セレスティアはミスティルの椅子の背に手を添えた。
「そして、この子自身は答えを得られない。お前に何が与えられたのかも、この子には分からぬ」
少女は本の角を指先で撫でていた。
先ほどと同じ、穏やかな仕草だった。
リゼットがその手を見つめ、そっと目を伏せる。
「……どんなことでも、一度で全部聞いてしまえばよい。そういうわけでも、ないのですね」
「ああ」
セレスティアの声が、少し硬くなった。
「答えは、お前たちの頭に収まる量へ加減されない」
風が庭木を揺らした。
「身近な果実について聞いたとしても、名前と味を教えて終わり、とはならぬ。構造、成分、成り立ち。その問いに含まれる真実を、余さず受け取ることになる」
宗一郎は、思わず少女の顔を見た。
「受け止められなければ、どうなる」
「記憶が壊れる。人格が失われることもある」
淡々とした言葉だった。
「宇宙のすべてを知りたい、とでも問えば、情報量に耐えきれず恐らく死ぬ。私でも同じだ」
誰も、すぐには声を出せなかった。
シオンの視線が、セレスティアの額のオーブから、少女の白い本へと移る。
「……神竜でも、か」
「例外はない」
宗一郎はゆっくりと息を吐いた。
小さな本だった。
少女が抱いて歩ける、ただそれだけの大きさしかない。
それなのに、さっきまでとは全く違うものに見えた。
「もう一つ。まだ定まっていない未来は、答えられぬ」
セレスティアが続ける。
「何をすれば必ず望みどおりになるか。その保証を求めても得られない。今ある事実を知り、その先を選ぶのは、お前たちだ」
「……分かった」
宗一郎は答えた。
答えながら、自分がまだ何を聞くべきか決められずにいることも、はっきりと分かった。
卓に広げた紙に、リゼットが細い字を書きつけていった。
二人の居場所。
消えた原因。
帰還するための条件。
一つ書いては、三人で言葉を交わした。
「原因を知れば、解く方法も見えてくるのではないか」
「ですが、能力の成り立ちまで含んでしまうと、どの程度の情報になるか……」
「連れ戻すための条件だけなら、どうだ」
「それが誰かに何かをさせることなら、その相手も探さねばならぬ」
シオンの指が、紙の一角を押さえる。
「知っても、次の手が打てぬのでは困る」
宗一郎は黙って頷いた。
ミスティルはしばらく三人の話を聞いていたが、やがてセレスティアと庭を歩きに出た。
回廊の向こうで、女が何かを話している。少女は足を止め、葉の茂った枝へと小さな手を伸ばした。
リゼットの筆先が、ふと止まった。
「……普通に、お話ししてもいいのですよね?」
戻ってきたセレスティアへ、彼女が尋ねる。
「あの子に何かを聞くたび、力が働いてしまうのでは……」
「この子が選ばなければ、何も起きぬ。会話を恐れる必要はない」
リゼットは小さく息をついた。
ミスティルの方へ向き直り、少し声を柔らかくする。
「ずっと難しい話ばかりで、ごめんなさいね」
少女は声の方向へ耳を傾け、小さく首を横に振った。
そのあと、指先を卓の縁に伝わせ、声のする方へゆっくりと近づいた。
リゼットは椅子を引き、すぐに触れずに待った。
セレスティアに手を引かれた少女が隣へ座ると、紙の束を静かに寄せる。
「ここは、水の音がよく聞こえるのね」
ミスティルが頷いた。
細い指が、水路のある方を示す。
「あちらにもあるの?」
もう一度、頷く。
リゼットはそのたび、少女の返事を待った。
宗一郎は二人の横顔をしばらく眺め、それから紙へと目を戻した。
庭に落ちる柱の影が、少しずつ長くなっていた。
雲海の端が、赤く染まっていた。
考えを書き留めた紙は増えたが、これだと言える問いはまだ決まらなかった。
宗一郎が額を押さえたとき、背後で食器の触れ合う音がした。
「食べられるうちに食べろ」
セレスティアが言った。
回廊に近い卓へ、湯気の立つ器が運ばれてくる。
盆を持つ者はいなかった。深皿も杯も、何もない空中を静かに滑り、それぞれの席の前へと下りていく。
リゼットが目を丸くした。
シオンは器を追い、その向こうで揺れる庭木へ目を向ける。
枝葉は風にそよいでいる。
だが、卓に置いた紙の端は、ぴくりとも動いていなかった。
「……我々を、ここへ運んだ術も。それが、原初魔法か」
「お前たちは、そう呼ぶな」
セレスティアはミスティルの席へ座布団を置いた。
「詠唱も、魔法陣もない」
「私には要らぬ」
それだけ答え、少女の前へ匙を置く。
シオンはまだ何かを確かめたそうだったが、やがて口を閉じた。
宗一郎は、白い器から立つ湯気を見ていた。
神竜の魔法。
その言葉から想像するものとは、ずいぶん違う光景だった。
食卓には煮込んだ野菜と肉、それに柔らかなパンが並んでいた。
ミスティルが自分の手で匙を取り、皿の縁へそっと触れる。
「パンは、左側に置いてあるわ」
隣へ座ったリゼットが伝えた。
少女の指が卓上を辿り、小さな皿を見つける。
口元が緩んだ。
「……よかった」
リゼットも微笑み、自分の匙を取った。
しばらく、静かな食事が続いた。
やがて、セレスティアが少女へ顔を向ける。
「地上の話が聞きたいそうだ」
「地上の、ですか?」
「お前の街には、どんな音があるのかと」
リゼットは少し考えた。
「そうね……朝になると、荷車の音がするわ。石畳の上を、がたがたって。そのあと、店の人たちが戸を開け始めるの」
ミスティルの顔が上がった。
「市場へ行くと、もっと賑やかよ。果物を売る人と、魚を売る人が、隣同士で大きな声を出していてね。どちらの声も聞いてほしいものだから、だんだん張り合いになってしまうの」
少女の肩が、ふっと揺れた。
声はなかった。
それでも、笑っているのだと分かった。
リゼットもつられるように笑い、続きを話した。
雨の日の屋根の音。
学院の廊下を駆ける靴音。
授業の終わりを告げる鐘が鳴った途端、それを掻き消すように広がる生徒たちの声。
「鐘より、生徒の方がうるさいこともあるのよ」
「……それは、今も変わらぬのだな」
シオンが呟いた。
リゼットがそちらを見て、微笑む。
「ご存じなんですか?」
「昔、似たようなものを聞いた」
ミスティルの顔が、今度はシオンの方へ向く。
彼女は一度視線を外し、それから、ほんの少し口元を緩めた。
「急に振り向いても、話はそう出てこぬぞ」
少女が、また笑った。
宗一郎は匙を止めていた。
温かな食事の向こうで、小さな顔が笑っている。
リゼットが話し、シオンが短く言葉を返す。
凛なら、どんな話をしただろう。
アリアなら、きっと、もっと大げさな身振りで――。
胸の奥が軋んだ。
宗一郎は皿へ目を戻し、少し冷めた煮込みを口へ運んだ。
「……うまいな」
小さな呟きに、ミスティルがこちらを向いた。
宗一郎も顔を上げる。
「お前も、好きなのか?」
少女は大きく頷いた。
その素直な仕草に、宗一郎の口元が、ほんの少し緩んだ。
食器が下げられる頃には、空の赤はほとんど消えていた。
ミスティルが目元へ手をやる。
一度下ろし、しばらくして、また同じ仕草をした。
セレスティアがすぐに気づいた。
「もう、休もうか」
少女は首を横に振った。
それから、三人の声がしていた方へと顔を向ける。
「話の続きは、明日でも聞ける」
セレスティアの声は、静かだった。
ミスティルは少し迷うように指を動かし、やがて頷いた。
宗一郎は、思わず身を起こした。
白い本が、少女の腕に抱え直される。
今、聞けば。
今、この場で答えを得られれば。
「宗一郎」
セレスティアが、こちらを見ていた。
「一晩、よく考えろ」
宗一郎は返事をしなかった。
「先ほどから、同じところを行き来している。焦って決めればよいというものではない」
「……だが」
「お前が急ぐ理由は聞いた。だが、一度しかない問いを失えば、その一晩より多くを失うことになる」
膝に置いた手へ、力がこもった。
「そんな単純な力ではない。ここまで聞いて、まだ分からぬか」
宗一郎は唇を引き結んだ。
シオンは何も言わなかった。ただ、隣で、少女を見ていた。
ミスティルが小さく頭を下げた。
リゼットもそれに応じる。
「おやすみなさい。また明日ね」
少女は嬉しそうに頷いた。
その手を引くセレスティアの歩みは、ゆっくりだった。
小さな足音が回廊の奥へ遠ざかっていく。
宗一郎は、二人の姿が見えなくなるまで見送った。
「……分かっている」
誰にともなく、低く呟いた。
戻ってきたセレスティアは、一人だった。
卓の近くに灯った柔らかな明かりが、長い銀髪の片側を照らしている。
リゼットが、広げかけていた紙から顔を上げた。
「眠れましたか」
「ああ。今日は、よほど楽しかったらしい」
セレスティアは少女の座っていた椅子を見た。
「普段は、私の声ばかり聞いているからな」
「……また、お話しできれば嬉しいです」
「そう言っていたと、伝えておこう」
庭の向こうは、もう暗かった。
セレスティアは椅子の背に指を置いたまま、しばらく黙っていた。
「あの子は、親に捨てられた」
リゼットの手が止まる。
「遺跡に、一人でいた。目も見えず、声も出せぬ子を、あのような場所へ置いていく」
その声に、怒りは滲んでいなかった。
宗一郎はかえって、背筋の奥が冷えるのを感じた。
「哀れな子だった。私が連れ帰ったのも、初めは気まぐれだ。育ててみようと、それくらいのつもりだった」
白い指が、椅子に敷かれた座布団の端を直した。
誰も座っていないのに、そこだけが少し折れていた。
「それでも、あの子は人間を憎んでおらぬ」
リゼットは目を伏せた。
「お前たちが来て、喜んでいた。地上の話を、もっと聞きたかったそうだ」
セレスティアの口元に、笑みが浮かんだ。
食卓で少女を見守っていたときと、同じような、穏やかな笑みだった。
「あの子が望めば、人間などすべて滅ぼしてやるのに」
水の流れる音がした。
宗一郎は動かなかった。
リゼットも、シオンも、声を出さない。
女は笑っていた。
自分の言葉を誇る様子も、三人の反応を楽しむ気配もない。
ただ、眠っている少女のことを思い浮かべているようだった。
「……冗談だ」
少しして、セレスティアは言った。
それから、回廊の奥へと目を向ける。
その眼差しは、ひどく優しかった。
宗一郎は、何も聞き返さなかった。
自分が凛とアリアを失ったあの日。
もし、二人が戻らないのだと告げられていたなら。
膝の上で、手を開く。
いつの間にか、爪が掌へ食い込んでいた。
「客間は用意してある」
セレスティアがこちらへ向き直った。
「話すなら、ここを使ってよい。だが、少しは眠れ。答えを受け取る前に、倒れられても困る」
衣の裾を揺らし、彼女は歩き去った。
足音が聞こえなくなってから、リゼットがゆっくりと息を吐いた。
「……大切に、されているんですね」
「ああ」
宗一郎は答えた。
シオンは暗い回廊を一度だけ見て、卓上の紙へ視線を戻した。
「さて。こちらも、決めねばならぬ」
「知りたいのは、二人をここへ戻すための条件だ」
宗一郎は紙の一行を指した。
「どんな力なのか、すべてを知る必要はない」
「ええ。能力の全容と、帰還に必要な情報は、分けて考えましょう」
リゼットが、別の紙を引き寄せる。
「ただ、条件だけでは足りません。特定の道具や人物が必要なら、それが何かも分からなければ」
「その人物なり道具なりを、どこで見つけるかもだな」
シオンが続けた。
宗一郎は頷いた。
リゼットの筆が、紙を滑る。
「二人が……生きているかも、知りたい」
筆先が止まった。
宗一郎は、二人を見なかった。
書かれた文字を見たまま、言葉を継ぐ。
「戻す条件が分かっても、もう手遅れなら……」
続きは、出なかった。
シオンが腕を組み直した。
「ならば、それも問え」
静かな声だった。
「まだ知らぬことを、今ここで結論にするな」
宗一郎はゆっくりと頷いた。
リゼットが新たな一行を書き足す。
紙の擦れる音が、三人の間に響いた。
「……これをすべて、一度に尋ねるつもりか」
ふいに、低い声が降ってきた。
顔を上げると、いつの間にか回廊の影からセレスティアが姿を現していた。その銀髪が、卓の微かな明かりを静かに弾いている。
「セレスティア……」
「生死、帰還の条件、必要な者と、その在処」
女は冷ややかに、だがどこか見定めるような目で卓の上の紙を見た。
「複数を尋ねること自体が問題なのではない。お前たちは、それぞれの問いがどこまでの真実を含むのか、考えたか」
リゼットが、書き並べた言葉へ目を落とした。
「では……どこまで絞れば、受け止められるのですか」
「ここまでなら安全だと、私に保証しろというのか」
セレスティアは静かに問い返した。
「答えを得るまで、その量は分からぬ。お前の頭が、どこまで耐えられるかもな」
リゼットが唇を結んだ。
「だからこそ、一度の権利ですべてを知ろうとするな」
誰も、すぐには言葉を返せなかった。
「……どうすればいい」
宗一郎が、わずかに掠れた声で問うた。
「何を知るべきかを決めるのは、お前だ」
セレスティアは、卓上の紙へ視線を戻した。
「エピスティリアは、問いに含まれる真実を余さず与える。だからこそ、何を知り、何を問わずにおくかを決めねばならぬ」
女の指先が、紙に記された二人の名前を示した。
「二人を連れ戻すために、何を知る必要がある。それ以外まで、抱え込もうとするな」
女はそれだけ言うと、ふっと背を向けた。
「言葉を研ぎ澄ませ。自分の命を削りたくないならな」
足音が闇へ消えていく。
静けさが戻った卓で、宗一郎は息を吐いた。
「……お前の父親は」
気持ちを切り替えるように、宗一郎が口を開いた。
リゼットの指が、紙の端に触れたまま止まる。
「お前も、それを知るために来たんだろう」
「はい」
返事まで、少し間があった。
「父が今、どうしているのか。生きているなら、どうすれば帰れるのか。……私も、聞きたいです」
リゼットは伏せていた目を上げた。
「ただ、父の失踪と、あの子たちの失踪が同じ原因なのかは、まだ分かりません。宗一郎さんの答えを聞けば、そこから確かめるべきことも、絞れると思います」
「先に、俺が聞いてからか」
「ええ。その答えを伺ってから、父について何を問うか、決めさせてください」
落ち着いた声だった。
けれど、紙の端を押さえる指には、白くなるほど力がこもっていた。
「……22年です。知りたくないわけでは、ないんです」
「分かっている」
宗一郎は答えた。
「お前の問いも、一緒に考えよう」
リゼットは唇を結び、それから、小さく頷いた。
「……お願いします」
少しして、彼女は紙を押さえていた手を緩めた。
「私も、まだ聞ける」
シオンが言った。
「救出に必要な情報が足りなければ、私の問いも使えばよい。まずは、お前の答えを聞こう」
シオンの目が、宗一郎へ向いた。
「お前が、最初に聞くつもりなのだろう」
「……俺が行く。二人を、迎えに」
「一人で行くと決めた覚えはないがな」
宗一郎は顔を上げた。
シオンが、真っ直ぐにこちらを見ていた。
「知ったことは話せ。何をすべきかも、そこで改めて考える」
「私にも、お願いします」
リゼットが言った。
宗一郎は二人の顔を順に見て、深く頷いた。
「……ああ。必ず」
それからも、セレスティアの助言を胸に、幾度も言葉を削り、研ぎ澄ませた。
生きて戻るために何を知る必要があるか。聞かずとも自分たちで調べられることは何か。
必要な情報を落とさぬよう確かめながら、救出のために知るべき事実へと問いの範囲を絞っていく。
やがて筆を置いたリゼットが、紙を三人の中央へ押し出した。
宗一郎は、その短い文章を繰り返し読んだ。
そこに並んだ二人の名前を、指先でそっとなぞった。
翌朝。
凛とアリアが消えてから、二十六日目だった。
雲海の向こうで、陽が昇っていた。
白い庭の床へ、昨日と同じ水音が届いている。
ミスティルは、セレスティアに手を引かれてやって来た。
リゼットが声を掛けると、少女の顔がぱっと明るくなる。
「おはよう、ミスティル」
少女は小さく頭を下げ、それから、宗一郎の方へと耳を向けた。
「……おはよう」
自分の声が、少し硬かった。
宗一郎は息を吐き、姿勢を正した。
「まずは、朝食にする」
セレスティアが言った。
宗一郎が顔を向けると、彼女はミスティルを昨夜と同じ席へ導いていた。
「問いは、食べ終えてからだ。お前たちも座れ」
卓には、温かなスープと、薄く切ったパンが並べられた。
ミスティルは椅子に腰を下ろすと、本を傍らへ置き、両手で杯を包んだ。
セレスティアがその隣へ座り、少女の袖が皿に触れぬよう、そっと折り返してやる。
宗一郎も椅子を引いた。
匙を持ってから、自分が空腹だったことに気づく。
「よく眠れた?」
リゼットの声に、ミスティルが頷いた。
続いてセレスティアの方へ顔を向けると、女の口元が少し緩んだ。
「昨日の鐘の話を、夢に見たそうだ」
「まあ。そんなに賑やかだったの?」
少女が何度も頷く。
リゼットが笑い、シオンも杯を持ったまま目を細めた。
宗一郎は、その声を聞きながらスープを飲んだ。
温かさが、固くなっていた喉をゆっくりと通っていく。
ミスティルが、ちぎったパンを皿へ落としかけた。
自分で拾い直し、少し照れたように笑う。
セレスティアは急かさず、少女が最後の一口を食べ終えるまで、その隣にいた。
食器が下げられ、卓に差す陽が少し高くなった。
ミスティルが、傍らの本へ手を伸ばす。
セレスティアはその仕草を見て、静かに頷いた。
「では、話を聞こうか」
宗一郎は立ち上がり、少女の前へ膝を折った。
セレスティアが、ミスティルの手へ自分の手を重ねる。
二人の間に、短い沈黙が流れた。
少女は頷いた。
白い本を、自分の手で開く。
頁は、一枚しかなかった。
朝の光を受けても、そこに文字は見えない。
「問いは、決まったか?」
セレスティアが尋ねた。
「ああ」
「この子も、聞くと言っている」
宗一郎は、ミスティルを見た。
まだ何も救えていない。二人に触れることもできていない。
それでも、この少女は、自分の声を聞こうとしてくれている。
「……ありがとう」
ミスティルの口元が、わずかに緩んだ。
宗一郎は紙を出さなかった。
昨夜、幾度も言葉を削り、頭に焼き付けた問いを思い返す。
「俺と暮らしていた、凛・エヴァレットと、アリア・ベルネット」
背後に、二人の気配がある。
宗一郎は、セレスティアの忠告を思い出しながら、問いかける言葉を一つずつ確かめた。
「あの二人の今の生死、現世へ帰還させるための条件、そしてそれを実行するために必要な者と、その在処に関する真実を――教えてほしい」
言い終えると、庭が急に静かになった気がした。
少女の指が、白い頁に触れた。
迷うような動きはなかった。
光は、なかった。
音も、なかった。
ただ、宗一郎の頭蓋の奥に、凍てつくような冷たさが走り抜けた。
周囲の音が一瞬で遠のき、代わりに、見知らぬ景色と他人の声が、濁流のように脳内へと流れ込んでくる。
疑いに留まっていた男の名が、確かな事実として脳裏に刻まれた。
見たこともない男の顔が、当然のものとして脳裏に焼き付く。
その男が今どこに身を置き、何をすれば二人を取り戻せるのか――問いに対応する事実が、容赦なく刻み込まれていく。
封獄ヴィンディクタ
凛は、生きている。
アリアも、生きている。
その事実を確かに知った瞬間、目の前の白い頁が、熱を持った涙でぼやけた。
「宗一郎」
シオンの声が、遠くで聞こえた。
宗一郎は荒く息を吸った。
うまく空気が入らず、もう一度、肩を揺らして震える呼吸を繰り返す。
「……生きている」
掠れた声が、やっとのことで喉から零れた。
「二人とも、まだ……」
リゼットが両手で口元を押さえた。
シオンは何も言わず、ただ、一度だけ深く目を閉じた。
宗一郎は、その場で頭を垂れた。
何日も、考えないようにしていた。
夜中に目が覚めるたび、最悪の想像を必死に振り払っていた。
もう、どこにもいないのではないかと怯えていた恐怖が、確かな安堵へと変わる。
膝に置いた手が、激しく震えていた。
強く握りしめても、どうしても止まらなかった。
小さな衣擦れがした。
ミスティルが、気配を察するようにこちらへ身体を傾けている。
宗一郎は顔を上げた。
少女には、今自分の頭の中で何が起きたのか分からない。
自分が泣きそうになっている顔も、見えてはいない。
それでも、耳を澄ませ、心配そうに答えを待っていた。
「……ありがとう」
もう一度、言った。
「本当に、ありがとう」
少女の強張っていた表情が、少しだけ和らいだ。
宗一郎は手の甲で荒っぽく目元を拭った。
大きく息を整え、ゆっくりと立ち上がる。
「戻す方法も、分かったのか」
シオンが低く尋ねた。
「ああ」
宗一郎は彼女を見た。
それから、リゼットの方へと視線を移す。
「契約者は、エルネスト・クロイツ」
リゼットの顔から、微笑みが消えた。
みるみる血の気が引いていく。
「……その名が、答えに?」
宗一郎は頷いた。
「二人は、あいつの因果遺物で、現世から隔てられている。中からは出られない。あいつが望んでも、自分の意思で戻すことはできない」
昨夜、幾度も言葉を削って書き直した紙が、卓の上に置かれている。
そこにはまだ、『帰還の条件』という見出しだけがある。
だが、今はその空白を埋めるだけの、残酷で確実な答えが宗一郎の中にあった。
「戻すには」
声は、もう震えていなかった。
冷たく澄んだ響きをもって、庭の静寂に落ちる。
「あの男を、殺すしかない」




