アストラルムの掟
新世暦411年 初冬
凛とアリアが失踪してから25日目
夜が明けても、返事はなかった。
崩れた石柱の向こうに、濁った灰色の海が広がっている。幾重にも重なる波が崖の下で黒い岩肌を砕き、そのたび、低く重い音が広間へと這い上がってきた。
宗一郎は石台の前に立ったまま、ゆっくりと顔を上げる。
雲は低い。
その雲の向こうにあるという天空の居城は、影すら見えなかった。
昨日、この場所へ着いたときも同じ空だった。
馬車を乗り継ぎ、最後は草に埋もれかけた古道を歩いた。セイリスの言ったとおり、岬の先には神殿の跡があった。屋根の大半は落ち、海へ向いた広間には、潮風に削られた列柱と低い石台だけが残されている。
宗一郎はその前で、名を告げた。
――セイリスから聞いて来た。会って、話を聞いてほしい。
それから、ただ待った。
日が沈み、海と空の境界が夜の闇に溶けても、何も起きなかった。
「少しは眠ったのか?」
背後から、シオンの声が落ちる。
宗一郎は振り返らずに答えた。
「……目は閉じた」
「そういうことを聞いているのではない」
衣擦れとともに、彼女が隣へ立った。銀色の髪が、湿った潮風に揺れている。シオンは海を一瞥し、それから宗一郎の横顔を捉えた。
「一晩だ」
「分かっている」
「昨夜から、同じ顔でそこに立っている」
宗一郎は石台へ視線を落とした。
縁の欠けた石の表面に、昨夜の雨が薄く残っている。指でなぞったような浅い溝に、淀んだ水が溜まっていた。
――ここで待てばいい。
セイリスは、そう言った。
だが、声が届いたのかも分からない。聞いたうえで門前払いにされるのか、あるいは初めから何も考えていないのか。それすら、確かめることは許されていない。
「……俺には、待つ時間がある」
宗一郎は低く呟いた。
「あの二人にも、あるとは限らない」
シオンはすぐには答えなかった。波の砕ける重苦しい音が、二人の間の沈黙を満たしていく。
「だからこそ、ここまで来たのだろう」
それは静かな、しかし確かな声だった。
「私も、あの女も、それは同じだ」
宗一郎が顔を向けると、彼女は広間の奥を見据えていた。
壁が冷たい風を遮る一角で、リゼットが荷を片付けている。昨夜、伝声水晶で連絡を終えたあとも、彼女は古い証言の写しを読み返していた。火のそばで震えるように紙を持つ手がわずかに止まっていたことを、宗一郎ははっきりと覚えている。
あの女が待ち続けてきた時間は、自分の二十五日よりも、遥かに長い。
「……ああ」
固く握りしめていた手を、宗一郎はゆっくりと開いた。
そのとき、リゼットがこちらを振り向いた。
「お二人とも、温かいうちに――」
言葉が途切れた。
彼女の視線は、宗一郎たちの向こうへと釘付けになっていた。
シオンが先に振り返る。宗一郎もまた、その視線を追った。
石台の向こうに、ひとりの女が立っていた。
つい先ほどまで、そこに誰もいなかったはずの場所だ。
青みを帯びた銀の長髪が、海風にほどけている。背を流れる髪は腰よりも長く、光を受けた細い束だけが、淡い空の色に透けていた。緩くまとめた髪を飾る金の細工が、その隙間で冷たく光っている。
外見は、三十歳ほどの女だった。
透き通るような白い肌に、すっと通った高い鼻筋。整った顔立ちには一切の幼さがなく、淡い青の瞳が、宗一郎たちを静かに捉えている。美しい。だが、その眼差しを前にして、気安く声を掛けようなどという気構えは一瞬で氷解した。
額の中央には、青白い光を宿した丸いオーブがある。縁を囲む繊細な金の意匠が、そのまま髪飾りへと繋がっていた。
身を包むのは、白と薄青の布を幾重にも重ねた長衣だった。ゆったりとした袖や裾には、まるで竜の鱗を思わせる金の刺繍が施されている。潮風が布を揺らすたび、その細い線が微かに瞬いた。
足音は聞こえなかった。空から下りてくる姿も見ていない。
宗一郎は、思わず息を止めた。
隣で、シオンの指が僅かに動く。だが、鞘へは伸びなかった。
「セイリスの名を出したのは、お前たちか」
波音の中でも、その声はクリアに響いた。
「……ああ」
宗一郎は一歩、前へ出た。
「宗一郎だ。話を聞いてほしい」
「私はセレスティア。この上に居を構える者だ」
セレスティアはそう名乗り、宗一郎の顔をじっと見つめた。
次いで、肩越しに覗く背の大剣へと、ゆっくりと視線を移す。
「エラディアルのことではないのか」
聞き覚えのない言葉だった。
「……何のことだ」
セレスティアの目が、再び宗一郎へ戻る。
「お前たちが、邪神と呼んでいるものだ」
宗一郎の眉が鋭く動いた。
「なぜ、俺がそれを追っていると知っている」
「お前がそれを振るう姿は、以前から見ていた」
セレスティアは背の大剣へ、もう一度目を向けた。
――いつ、どこで。
問いかけようとした宗一郎の脳裏に、あの日の光景がフラッシュバックする。こちらへ伸ばされた手。届かなかった指先。その向こうで、音もなく消えてしまった顔。
「……今日は、その話ではない」
宗一郎は持参した荷から、折り畳んだ紙を取り出した。
「二人、捜している」
セレスティアは紙を受け取ろうとはしなかった。
「話せ」
宗一郎は頷いた。
学院で起きたこと。二人に見えていた、減っていく数字のこと。声を掛けた瞬間に消え、触れることさえできなかったこと。
言葉が詰まる部分は、リゼットが補った。
彼女は小走りに近づいてから足を止め、深く頭を下げる。声には緊張の色が滲んでいたが、説明の論理は乱れなかった。
「22年前にも、同じような事件が起きています。当時の記録と今回の証言には、一致する点がいくつもあります」
セレスティアは黙って聞いていた。
驚きも、同情も、その冷たい顔からは一切読み取れない。
「セイリスは、お前なら答えを得る術があると言った」
宗一郎は紙の端を強く握り直した。
「二人がどこにいるのか。どうすれば連れ戻せるのか。それを知りたい」
セレスティアはしばらくの間、宗一郎をじっと見つめていた。
「セイリスは、どこまで話した」
「この世に答えがあるなら、それを得る術があると」
「……あれも、相変わらず余計なことを覚えている」
セレスティアの細い指が、石台の縁に触れた。乾き始めた石の上を、長い影が横切っていく。
「術はある。だが、セイリスに聞いて来たというだけで、貴様らの望みを聞くつもりはない」
宗一郎は唇を引き結んだ。隣で、リゼットが抱えた書類を胸へと寄せている。
「……何を望む」
「討ってもらいたいものがいる」
宗一郎は、女の瞳を見た。
「どんな相手だ」
「肉と機械が入り交じった巨躯に、三本の腕。顔には幾つもの目があり、口元は金属の拘束具で塞がれている。右手には大剣、左の手首には細い刃が融合している。空間を渡り、幾度か、この地を探る姿を捉えている」
知らない相手だった。宗一郎はその異様な姿を頭に描き、次いで、聞き捨てられない言葉を繰り返す。
「空間を渡る、とは?」
「姿を消し、離れた場所へ突然現れる。道も、崖も、海も、あれを隔てるものにはならぬ」
シオンが僅かに顎を引いた。
「転移を使うのか」
「人の術とは異なる。剣で空間そのものを裂く姿も見ている」
宗一郎は背に負った重みを意識した。
姿の見えない位置から、間合いを無視して現れる。剣で空間を裂くというのなら、今の自分に受け止められる攻撃なのかも分からない。
「ここへ近づこうとしているのか?」
「そのようだ。現れる場所を変えながら、こちらの反応を窺っている。何を求めているにせよ、これ以上、近づけたくはない」
「居場所は分かるのか」
「この周辺へ現れれば捉えられる。だが、私が近づくと退く。追っている間に、別の場所から戻られては困る」
セレスティアは、遥か上空の厚い雲へ一度だけ目を向けた。
「私はここを離れたくない。だから、お前に頼んでいる」
宗一郎もまた、雲に閉ざされた空を見上げた。
神竜が留守にする間に、その居城へ近づく。空間を自在に渡れるというのなら、地上から追い払うだけでは根本的な解決にならないのだろう。
「俺が討てると、思うのか?」
「任せられぬと思う者に、この話はせぬ」
セレスティアの視線は微動だにしなかった。
「引き受けるなら、私の知ることは伝える。姿を現した際に知らせることもできる。だが、地上で追い、討つのはお前だ」
宗一郎は手元の紙へ目を落とした。
そこには、凛とアリアの名がある。
二人が消えて、今日で二十五日目だった。ここからさらに、居場所も定かでない得体の知れない相手を追う。その間も、二人はどこにいるのか。
「……先に、そいつを討てということか」
セレスティアは首を横に振った。
「お前の求める答えが得られたなら、その対価として討ってもらう。二人を連れ戻してからでよい」
宗一郎は顔を上げた。
「先に、答えを?」
「お前には今、ほかのことを追う余裕があるまい。半端に手を出され、あれに警戒を強められても困る」
そこで初めて、シオンが宗一郎へと顔を向けた。
「宗一郎。相手の力量も、まだ分からぬのだぞ。軽々に約束するなら――」
「分かっている」
短く遮り、それから彼女の強い瞳を見た。
「軽く考えているわけじゃない」
シオンは、その決意の色を帯びた顔をじっと見つめた。
宗一郎は再び女へ向き直る。
「二人を連れ戻すために、使える答えが得られたなら。俺は、その相手を討つ」
「途中で投げ出さぬか?」
「約束する」
波が崖に激しく砕けた。
セレスティアは宗一郎の目を見たまま、その返事を受け止める。
「果たすのに時がかかることと、約束を捨てることは違う。その程度の分別は、私にもある」
その声に揺らぎはない。
「だが、答えだけを得て、この約束を反故にするなら――私がお前を殺しに行く」
怒気はなかった。怯ませようとする威圧すらない。ただ、約束を違えた先に待つ結末を、淡々と告げていた。
宗一郎はその冷徹な目を見返した。
「……承知した」
「よい」
石台に置いていた指が離れる。
「ついて来い。詳しい話は、上でだ」
セレスティアが石台の脇を抜けて歩き出した。
宗一郎は紙を丁寧に畳み直す。
隣から、シオンの低い声が落ちた。
「……一人で抱え込むなよ」
彼女を見ると、目はすでに先を行く女の背中へ向けられている。
「まだ、何も分かっておらぬのだからな」
「……ああ」
宗一郎たちは顔を見合わせ、すぐに荷を担ぎ直した。
彼女が向かう先には、崖の切れ端しかなかった。
広間の先端に残された石床は、半ばから無惨に崩れ落ちている。その向こうで、白い波が遥か下方に小さくうねっていた。
セレスティアは縁の手前でぴたりと足を止める。
「そこに立て。三人ともだ」
宗一郎は促された場所へ進み、シオンとリゼットもそれに続いた。
リゼットが足下の断崖を見て、小さく息を呑む。
「動くな」
その瞬間、足元の確かな感触がふっと失われた。
宗一郎は反射的に膝へ力を込める。
石床が沈んでいく――いや、違う。
自分たちが、宙に浮いていた。
「……っ!」
リゼットの身体が傾き、宗一郎は咄嗟にその腕を掴んだ。
足裏には、見えない透明な面を踏んでいるような奇妙な手応えがある。だが、下には何もない。崩れた古い神殿の跡が、瞬く間に豆粒のように小さくなっていく。
激しい風が衣を叩いた。思わず顔を伏せた次の瞬間、周囲の風が嘘のように弱まった。
三人の前で、銀髪の女が静かに空を上っていく。
詠唱もなければ、魔法陣の光すらない。シオンは口を閉ざしたまま、足元から女へと目を移した。宗一郎もまた、彼女の気高い背中を見つめるほかない。
やがて、周囲が純白の霞に包まれた。
湿った冷気が頬を撫で、地上の景色が完全に視界から消え去る。
リゼットの腕を掴む手に、自然と力がこもった。
白い闇の中を進むこと数瞬。
その先で、不意に視界が大きく開けた。
宗一郎はまばゆさに目を細める。
――青かった。
遮るもののない、どこまでも深い青空が頭上に広がっている。
眼下では雲が緩やかにうねり、純白の峰を幾重にも重ねていた。その雲海のただ中に、信じられない光景が浮かんでいる。
太い白亜の柱に支えられた回廊。幾層にも重なる美しい壁面。張り出した庭園には青々とした木々が茂り、そこから流れ出た細い水路が、燦然と輝く太陽を受けてきらめいていた。
そこは廃墟などではない。
庭木は完璧に手入れされ、回廊の床には枯れ葉一枚落ちていない。開け放たれた窓の向こうで、薄いカーテンのような布が穏やかな風に揺れていた。
「……これが……アストラルム……」
リゼットが、絞り出すような息を漏らす。
宗一郎は答えなかった。
人間が到底踏み入れられない理由が、いま肌身に染みて分かった気がする。
ここまで上がる手段を仮に見つけたところで、それだけでは足りない。自分たちをこうして容易く天空へと運び上げている、この女の許しがなければ、この城にたどり着くことすら許されないのだ。
白い床が近づいてくる。
足裏が硬い石に触れ、身体へと確かな重みが戻った。
宗一郎はリゼットが自力で立ったことを確かめてから、そっと手を離す。
「……ありがとうございます」
彼女は小さく頭を下げた。その顔には、まだ拭い去れない緊張が残っている。
セレスティアは回廊の奥へ歩きかけ、そこでふと足を止めて振り返った。
その淡い青の瞳には、一切の感情が宿っていなかった。
「上へ迎えたからには、心しておかねばならぬ決まりがある」
三人は再び足を止めた。その瞬間、空間そのものが冷え込むような異常な重圧が、三人にのしかかった。
「ここには、私のほかに一人いる。その子に会わせる前に、絶対の約束をしてもらう」
セレスティアは一歩、冷たい石床を踏み鳴らした。
「一、私の許可なくあの肌に触れれば、その場で殺す」
「二、ここで微塵の魔力すら弄した者も、例外なく殺す」
「三、あの者に何かを強要し、あるいは害そうとした者も、等しくここで命を断つ」
容赦のない宣告が、回廊の壁に冷たく反響する。
リゼットが息を呑み、わずかに肩を震わせた。シオンすらも、その不気味なまでの殺気に眉をひそめる。
「名も、姿も、ここで見聞きした一切の秘密も、外へ漏らすことは許さぬ。誰に仕えていようと、どのような大義があろうと、例外は認めぬ」
セレスティアの視線が、宗一郎たち三人の顔を一人ずつ、氷のような冷徹さで貫いていく。
「……理解できたか?」
問われた瞬間、背筋に冷たいものが走るようなプレッシャーが押し寄せた。脅しではない。この女は、少しでも規格を外れれば、迷うことなく自分たちを皆殺しにする。
リゼットは震える唇をかろうじて動かし、血の気の引いた顔で深く頷いた。
「……分かりました。誰にも、伝えません」
「私もだ。無用な真似はせぬ」
シオンが低く、しかし明確に応じる。
最後に、宗一郎はその重圧を真っ向から受け止め、力強く言い放った。
「約束する。誓って、掟は破らない」
セレスティアは三人の返事をじっと見極め、やがて、その冷たい瞳からわずかに圧を引いた。
「よい」
セレスティアは、回廊の奥へ向き直った。
「では、来るといい」
どこからか、心地よい水の流れる音がしていた。
回廊に沿った細い水路の底には、磨かれた小さな白い石が敷き詰められている。風に運ばれてくる匂いは、海辺の塩気とは全く違っていた。湿った豊かな土と、青草と、どこか懐かしい甘い花の香りが鼻腔をくすぐる。
宗一郎は歩みを進めながら、ふと庭園へ目を向けた。
低い卓と、二脚の椅子が置かれている。片方の椅子には厚手の座布団が敷かれ、卓上には、飲み口の小さな杯が静かに伏せられていた。
セレスティアが、ふと足を止める。
回廊の奥から、トントンと軽やかな小さな足音が聞こえていた。
柱の陰から、ひとりの少女が現れる。
十歳ほどだろうか。
胸元に一冊の白い本を大切そうに抱え、空いた方の指先で壁の質感を確かめるように触れながら歩いている。宗一郎たちのいる方へ顔を向けたが、その瞳が誰かと焦点を合わせることはなかった。
少女は不意に立ち止まる。
見知らぬ来訪者の足音を聞き分けようとするように、わずかに首を傾げた。
「ここにいるよ」
セレスティアが言った。
宗一郎は、思わず彼女の横顔を見る。
声のトーンが違っていた。
神殿で三人へ向けられた、あの冷徹で隙のない響きではない。今は、信じられないほど柔らかく、深い慈しみに満ちた声だった。
少女の顔がパッと上がる。
壁から指を離し、声のした方へまっすぐ歩き出した。
セレスティアは自分から数歩歩み寄り、その小さな手を優しく取った。
「客が来ている。少し、驚いたかい?」
少女は小さく首を横に振った。
それから、安心したようにセレスティアの手を両手で包もうとして、抱えていた本が腕から滑り落ちそうになる。
セレスティアは落ちる寸前でそれを優しく受け止めた。
「慌てなくていい」
本を抱え直させ、肩口で少し折れていた襟を指先で優しく整える。少女はその間、彼女の衣の端をぎゅっと小さく握りしめていた。
宗一郎は、そのやり取りを無言で見つめていた。
――かつて、出掛ける前に、凛がアリアの襟を直していた。
『じっとして、ってば』と笑う声。
『分かってるって』と言いながら、照れくさそうに振り返った姿。
ふいに、喉の奥がぐっときつく狭まった。
セレスティアは少女の歩幅に合わせ、ゆっくりと手を引いて歩いていく。その小さな足が床の継ぎ目を越えるのを優しく見届けてから、再び歩き出した。
――私はここを離れたくない。
神殿で聞いたその言葉の本当の意味が、痛いほど胸に響く。
宗一郎は、二人の繋がれた手から目を離せなかった。
セレスティアがふと顔を上げる。宗一郎は慌てて視線を戻した。
「……その子は」
「ミスティルだ。ここで、私と暮らしている」
名前を呼ばれた少女が、三人の方へもう一度向き直った。
セレスティアの手をしっかりと握ったまま、こつんと小さく頭を下げる。
リゼットも自然に膝を折り、少女の目の高さへと身体を屈めた。
「初めまして。リゼットといいます」
少女は声のする方へと顔を向け、じっと耳を澄ます。返事こそなかったが、その小さな口元がわずかに緩んだ。
「この子は、目が見えない。声も出せぬ。だが、こちらの言葉は聞こえている」
セレスティアの静かな説明に、リゼットは一度深く頷いた。
「急に大勢で来てしまって、ごめんなさいね」
少女はまた、ゆっくりと首を横に振ってみせる。
それから、傍らに立つ女を見上げるように顎を上げた。
二人の間に、言葉のない短い沈黙が流れる。
「……ああ。セイリスの知り合いだそうだ」
誰も何も尋ねていないのに、セレスティアはそう付け加えた。
シオンが微かに目を細める。
少女は納得したように小さく頷き、握っていた手を少しだけ緩めた。
「この子となら、言葉を介さずとも話せる」
セレスティアは三人の探るような視線に気づき、そう補足した。
それから少女の手を引き、庭園の卓へと導く。座布団に腰を下ろすのを丁寧に待ってから、その膝の上にあの白い本を置いてやった。
セレスティアは椅子の横にそっと膝をつき、少女の冷えた手の上に、自分の温かな手を重ねる。
今度の沈黙は、先ほどよりも少し長かった。
水路を流れる水の音と、庭木の葉擦れだけが、静謐な時間に寄り添うように響いている。
ミスティルが、再び三人の方へと顔を向けた。
セレスティアは何も急かさない。重ねた手も離さず、少女の指先がわずかに動くのを、じっと待っている。
やがて、少女は小さく頷いてみせた。
「……そうか」
セレスティアはその茶色の髪を愛おしそうに一度だけ撫で、ゆっくりと立ち上がった。
「お前たちの話をした」
宗一郎は、少女から再び女へと視線を戻す。
「その子に、か」
「ああ。まず、知っておいてもらう必要がある」
宗一郎は眉を寄せた。セレスティアは椅子の背へと優しく手を添える。
「セイリスは、私が答えを与えられると思ったのだろう。だが、それは違う」
リゼットがハッと顔を上げた。シオンの鋭い目が、静かに少女へと移る。
「私が知り得るのは、見たこと、聞いたこと、そしてこの脳裏に焼き付いている記憶だけだ。地上で消えた人間が、今この瞬間にどこにいるのか……それを、この城にいながら見通すことはできぬ」
「なら、答えを得る術とは……いったい」
リゼットの切迫した問いに、セレスティアはすぐには答えなかった。
代わりに、ミスティルが膝の上の白い本を、両手で大切そうに持ち直す。
その白い表紙には、黒い細線で描かれた、複雑を極める紋章が刻まれていた。
「この子が、話を聞くと言っている」
宗一郎は動かなかった。その言葉の意味を、頭の中で必死に噛み砕こうとする。
「……その子に、分かるのか」
「そのための力がある。ただし、使うかどうかを決めるのは、この子だ。私が無理にそれを強いることはない」
セレスティアの手が、ミスティルの肩に優しく触れた。
少女はその指先を手探りで探し、そっと握り返す。
「お前から引き受けるのは、あくまで答えを得られた場合の対価だ。この子が断ったなら、お前にあれを討つ義務はない」
宗一郎は、少女の膝にある白い本へと目を落とした。
――こんな小さな少女に、二人の行方を探る手掛かりがあるというのか。
まだその力の正体は分からない。だが、目の前の女が虚言を弄しているとは思えなかった。
宗一郎は一度だけ、深く息を吸い込んだ。
急かしてはならない。
石台の前で、冷たい夜をただ歯を食いしばって待ち明かしたときとは違う。いま目の前にいるのは、自分たちの切実な声を聞き、その内面に耳を傾けようとしてくれた、ひとりの子供なのだから。
宗一郎は背負っていた荷をそっと下ろした。
剣が倒れないよう回廊の柱に預け、それから、少女の真っ直ぐ前に膝を折る。
「宗一郎だ」
ミスティルが、声のする方へと顔を向けた。
「……話を聞いてくれて、ありがとう」
差し出された小さな指が、神竜の手のひらの上でそっと動いた。
セレスティアはその様子を見下ろし、わずかに目を細める。
「聞こえている。続けるといい」
宗一郎は深く頷いた。
懐から取り出した紙を、今度はもう開こうとはしなかった。
そこに記された名前など、見なくても胸の奥に焼き付いている。
「凛と、アリアという。俺と一緒に暮らしていた、大切な二人だ」
水が豊かに流れる静かな庭で、宗一郎は、ふたりの名前を静かに語り始めた。




