空への道
新世暦411年 初冬
凛とアリアが失踪してから21日目
セイリスは、差し出された紙へ静かに目を落とした。
宗一郎は、その細い指先の動きをじっと見つめている。
一枚目を読み終え、二枚目へ。数字を目の当たりにした者の証言に差しかかったところで、頁を送る手がぴたりと止まった。
「この数字は、本人にしか見えなかったんだね」
「確認できた限りでは、そうです」
リゼットが返す声には、微かな緊張が混じっていた。
「周囲の者には何も見えず、治療や解呪の試みでも消えませんでした。数字の減り方にも、個人差があったようです」
「消えたあとに、何か残った?」
「魔力の痕跡は調べています。ただ、学院には日常的にさまざまな魔法が使われたあとがあって……消失そのものによるものか、判別はついていません」
セイリスは小さく頷き、宗一郎は膝の上で固く結んだ手を開いた。
「凛は、俺の方を見ていた」
三人の視線が、一斉に集まる。
「声を掛けたら振り返った。そのまま、消えた。光も、音もなかった」
隣にいたアリアの、あの瞬間の顔が脳裏によみがえる。
凛を呼んだ声。
こちらへ必死に伸ばされた手。
「アリアも、すぐあとだ。触れる前にいなくなった」
古びた証言の紙を押さえていたセイリスの指が、ほんの僅かに動いた。
「……そう」
「何か、分かるか」
セイリスはすぐには答えなかった。
散らばった証言を卓上で並べ直し、そのうちの一枚に再び目を落とす。窓を叩く雨の音に、店の奥で老人が道具を片付ける乾いた音が重なった。
「僕が見てきたものとは違うね。少なくとも、これを読んで何が起きたか、言い切ることはできない」
宗一郎は黙り込んだ。
分からない。
何度耳にしたか知れない答えだった。
それでも、今度こそは何か手掛かりがあるのではないかと期待していた自分に、こうして否定の言葉を聞かされてから気づく。
「消えた二人が、生きているかどうかもか」
「うん」
セイリスは顔を上げ、まっすぐに宗一郎を見た。
「知らないことを、知っているとは言えないよ」
「……そうか」
宗一郎は卓上の紙へ手を伸ばした。
だが、その指が触れるより先に、セイリスの唇が静かに開いた。
「ただ、答えを得られるかもしれない相手なら、いる」
伸びかけた手が、ぴたりと止まる。
「誰だ」
「古い付き合いの相手さ。僕以上に、人と距離を置いているけれど」
「そいつなら、分かるのか?」
「あのひとなら、知りたいことの答えを引き出す力がある……僕はそう思っている」
「……思っている、だと?」
セイリスは少し思案するように、雨に煙る窓の外へと目を向けた。
「以前、話をしていたときのことだ。僕が長く気にしていた謎を、あのひとが何気なく口にした。だから、『どうしてそれを?』と聞いたんだ」
「何と答えた」
「『気になるだけさ』とね。そうしたら、『知らずとも困るまい』と返された」
セイリスは、どこか楽しげに、しかし遠い目をしながら僅かに笑った。
「知っているような物言いだったから、重ねて聞いてみたんだ。あのひとは、『今は知らない』と言った。でも、そのあとにこう続けたよ。『答えを得る術はある』、と」
隣で静かに聞いていたシオンが、卓上に置いていた指をぴたりと止めた。
「その疑問に限っての話ではないのか?」
「僕も確かめたよ。『どんな問いにも?』とね」
「返事は」
「『この世に、すでに答えがあるのならばな』、と」
宗一郎は、目の前の青年を凝視した。
「……何でも分かるというのか」
「そう受け取れる言い方だったね。僕たちとは違う、何か特別な領域にいるひとだ」
「実際に、使うところは見たのか」
「見ていないよ。そのときは、そこまでして詮索しようと思わなかったからね」
セイリスの目が、再び卓上の証言へと戻る。
「だから、君たちの問いにも同じように答えてくれるとは、僕には言い切れない。けれど、確かめる価値はあると思う」
ギギ、と椅子が床を擦る音が響いた。
宗一郎はたまらず身を乗り出していた。
「どこにいる」
セイリスの視線がゆっくりと戻ってくる。
「……会いに行くつもりなんだね」
その声はどこまでも穏やかだった。
宗一郎は息を呑み、卓の縁を強く掴んでいた手をゆっくりと離す。
「……教えてくれ」
セイリスはその手元を一度見つめてから、静かに頷いた。
「アストラルムだよ」
リゼットが思わず顔を上げた。
「天空遺跡、ですか?」
「君たちは、そう呼んでいるね」
シオンは背筋をスッと伸ばした。
「神竜族の居城か」
「うん。その一つにいるよ」
店の中の空気が、ふっと静まり返った。
宗一郎は目の前のセイリスを見た。
そこにあるのは、どこまでも若い青年としての顔だ。淡い光を帯びた銀白色の髪も、椅子の上でゆったりと組まれた手も、初めてこの店を訪れたときから何一つ変わっていない。
神竜を、古い付き合いの相手と呼んだ。
シオンはそれを聞いても、侮蔑の笑みを浮かべることはなかった。
「お前も、そうなのか?」
宗一郎が低く問いかけると、セイリスは僅かに首を傾げた。
「そう見えるかい?」
「分からん。だから聞いている」
セイリスの口元が、わずかに緩んだ。
「そうだね。君たちが神竜と呼んでいるものの一つさ」
リゼットが小さく息を呑み込む音が聞こえた。
シオンは向かいの相手から一瞬たりとも目を離さず、ゆっくりと息を吐き出す。
「……なるほどな」
だが、宗一郎はその短い感嘆のあとを待たなかった。
「どうすれば会える?」
セイリスは一度ゆっくりと瞬きをした。それから、柔らかく笑う。
「地図は、あるかな」
リゼットが広げた古い広域地図の端を、老人が持ってきた小さな文鎮が押さえた。
セイリスの指先が、複雑な街道の線を辿っていく。
大きな街の名を過ぎ、寂れた支線へ移り、やがて荒涼とした海沿いの土地でぴたりと止まった。
「この辺りに、古い神殿の跡がある。岬へ向かって延びる古道を行けば、崩れかけた石の柱が見えてくるはずだ」
リゼットが地図へ身を乗り出す。
「竜神信仰の遺跡でしょうか」
「そう呼ばれているのかい?」
「ええ。沿岸の一帯に、神竜を祀った古い建造物が残っているとは聞いています。ただ、私も実際に訪れたことはありません」
「なら、たぶんそこだね」
セイリスは地図から指を離した。
「海に向いた広間がある。柱が何本かと、低い石台が残っているはずだ。そこで待つといい」
「そこから、上へ行けるのか」
「迎えが来ればね」
宗一郎は地図から顔を上げた。
「迎え?」
「君たちだけで、あそこへは上がれないよ」
「転移のための場所ではないのか」
「違う。昔、あのひとが人に会うときに使っていた場所だ」
リゼットが持っていた筆を止めた。
「人と、会っていたのですか」
「ずっと昔の話だけどね。用のある者は、あそこで待っていた。話を聞く気になれば、あのひとが下りてきた」
「それが、神殿として祀られるように……」
リゼットが小さく呟く。セイリスは軽く肩をすくめた。
「人間が何を建てて、どう神格化するようになったのかまでは知らないよ。僕が見た頃には、すでにあの柱があった」
宗一郎は、地図の上に描かれた小さな岬の点を見つめた。
誰かを待った場所。
そこへ行けば、あの途方もない存在に話を聞いてもらえるかもしれない。
「会いたいと、どう伝える」
「石台の前で、僕の名を出せばいい。『セイリスから聞いて来た』とね。誰に用があるのかは、それで伝わる」
「声が、届くのか」
「あそこにいればね。聞いてくれるかどうかは、別として」
ここで、シオンが口を開いた。
「その場所へ踏み込んだことを、察知する仕組みがあるのか」
「入る前から気づいているよ」
セイリスは、ごく当たり前のことのように答えた。
「100キロも手前から、君たちの存在くらいは捉えられる。何者で、何のために来たかは、実際に確かめてみないと分からないだろうけれど」
リゼットの目が、不安げに地図の上を横切った。
宗一郎もまた、その途方もない距離を頭の中で反芻する。岬の周辺どころではない。そこに至る遥か手前の段階から、すべては見透かされているということだ。
「……気配を完全に断ってもか」
「隠れて近づこうとするのは、勧めないね」
セイリスはシオンへ目を向け、それから再び宗一郎へと視線を戻した。
「招かれていない者が、隠れ忍んで近づいてくる。君たちなら、どう思う?」
「……警戒するな」
「うん。だから、普通に行くといい」
宗一郎は深く頷いた。
「分かった」
「会うかどうかを決めるのは、あのひとだ。僕の名を出すのは構わないけれど、それは招待状の代わりにはならない」
宗一郎は黙ってその警告を聞く。
「返事がないからといって、魔法で呼び立てたり、周囲を探り回ったりしないでほしい。あの場所で、ただ待つ。それだけにしておくんだ」
「……いつまでだ」
「それは、僕にも分からない」
宗一郎の顎に、ぐっと力が入る。
何も分からないまま、ただ一日を終える。明日こそ何かが届くかもしれないと願いながら、眠る。
そうしている間にも、二人から残された時間は削られていく。
どこで、どんな恐怖の中にいるのかも分からないままに。
「宗一郎」
シオンの低い声が、戒めるように落ちた。
「聞いている」
「なら、覚えておけ。私たちは会いに行くのだ。押し入るわけではない」
宗一郎は、ぐっと卓上の紙へ目を落とした。
地図の脇には、消えていった二人の名が書かれている。
長い沈黙のあと、彼は肺腑から澱んだ息を吐き出した。
「……ああ」
セイリスはその返事を確認してから、ようやく椅子へ深く背を預けた。
「会えたとしても、君の望む答えがあるとは限らない。答えを知っていることと、君を助けてくれることが同じ意味とは限らないよ」
「それでも、聞きたい」
今度は、迷わなかった。
「ほかに、確かめる先がない」
セイリスは静かに宗一郎を見つめ、やがて小さく頷いた。
「……そうだね」
店を出る頃には、冷たい雨はすっかり上がっていた。
老人に礼を告げ、宗一郎は濡れた石畳へ足を下ろす。軒先から落ちた一粒の雫が、その肩を打った。
「セイリス」
戸口に佇む若者を、宗一郎は振り返った。
「助かった」
「まだ、何も解決していないよ」
「だが、行くべき場所ができた」
セイリスは、少しだけ目を細め、どこか切なげに微笑んだ。
「……気をつけて」
宗一郎は無言で頷いた。
歩き出しかけて、もう一度だけ、背後のセイリスを見やる。
「また、会えるか?」
セイリスは僅かに目を見張り、それから柔らかく笑った。
「会えると思うよ。僕も、君ともう一度ゆっくり話してみたい」
「……そうか」
聞きそびれたことは、まだいくらでもある。
自分たちのことを、一体いつから知っていたのか。この世界の裏で、何を見つめてきたのか。
振り返れば、まだ言葉を交わせる距離に彼はいた。
だが、宗一郎は前を向き、待たせていた二人とともに歩き出した。
宿へ戻ると、リゼットはすぐさま広域地図と旅程の時刻表を机上に広げた。
「まず、明朝の便で沿岸部へ向かいます。そこから先は、現地の道を確認してからになりますが……」
紙を繰り、途中の乗り継ぎ街を細い指で押さえる。
「セプティム様へは、私の方から連絡を入れておきます。エルネストとオズワルドの調査も、そのまま継続してもらえるように手配します」
宗一郎は椅子に座ることもせず、彼女の指し示す先をじっと見つめていた。
「お前も、来るのか?」
リゼットが顔を上げる。その瞳に迷いはなかった。
「はい」
「元老院とのやり取りはどうする」
「伝声水晶で十分にこなせます。原本の確認が必要な資料は、戻ってから改めて目を通します」
よどみなく答えてから、彼女はそっと筆を置いた。
「私も、知りたいんです」
窓の向こうで、夜の街路をゆく荷車の車輪が水溜まりを弾く音がした。
「あのとき消えた人たちに、何が起きたのか。……まだ、取り戻せるものなら、会いたい」
宗一郎はリゼットを見つめた。
彼女は、言葉の重さに耐えるように一度視線を落とし、それからしっかりと顔を上げた。
「行けば必ず答えがある、と決まったわけではありません。でも、ここで安全な場所で報告を待つより、私は自分の足で行きたいのです」
「……危険だと、セイリスも言っていた」
「聞いていました」
リゼットは静かに、しかし頑なに頷いた。
「その危険を承知の上で、同行させてください」
その隣で、シオンが自分の旅装の荷を静かに卓へ置いた。
「三人分の支度をしておけ、ということだな」
宗一郎はリゼットへと向き直り、短く、しかし重みのある声で告げた。
「……わかった。一緒に行こう」
「はい」
彼女は再び地図へと向き合い、三人のための過酷な道のりを確かな手つきで描き始めた。
翌朝、街にはまだ昨夜の雨の冷たい匂いが残っていた。
出発を待つ乗合馬車の屋根からは、無数の荷を縛る太い縄が垂れている。御者が一つずつ結び目を確かめ、客の名を呼ぶ声が響く。
リゼットは最後の連絡を終えると、魔力を帯びた伝声水晶を丁寧に鞄の奥へと収めた。
「調査はそのまま継続してくださるそうです。何か進展があれば、直ちに知らせが入る手はずになっています」
「そうか」
宗一郎は肩に背負う荷の重みを確かめ、ベルトを締め直す。
シオンは、布に包まれた黒い鞘――ゼルグレアへ一度だけ目を落とした。
「……向こうで、万が一にもそれを抜くことにならなければよいがな」
「話を聞きに行くんだ」
「ああ。そのつもりで行こう」
三人は重い足取りで馬車へと乗り込んだ。
ギィ、と車輪が軋み、馬が蹄を鳴らして動き出す。
宿へと続く石畳の道が、建物の陰へと飲み込まれて消えていく。宗一郎はただ黙って、窓の外を流れ去る景色を見つめていた。
神竜に、果たして何を求めることができるのか。
そもそも、本当にあの圧倒的な存在に会うことなどできるのか。
何も分からないままでも、行くしかなかった。
懐の奥には、あのとき消えた二人の名が記された、擦り切れた紙がある。
宗一郎は上着の上からそっとその位置に触れ、やがて力を抜いて手を下ろした。
雲の切れ間から、眩しいほどの細い青空が覗いていた。
――今度は、その遥か高みへと、自分たちは向かっている。




