己を知る者
新世暦411年 初冬
凛とアリアが失踪してから21日目
返答は、少しずつ届いた。
学院からは、事件に居合わせた者たちの証言が。各地の役所からは、宿泊と通行の記録が。セプティムの手配した照会は、宗一郎たちが直接訪ね歩くよりも遥かに早く、遠い土地へ届いていた。
だが、返ってくる情報が、そのまま進むべき道になるとは限らなかった。
「こちらも、確認できたのは事件より前です」
宿の卓で、リゼットが一枚の紙を脇へ寄せた。
窓際には、読んだ書類が幾つもの束になっている。最初のうちは整然と並んでいた机の上も、今は地図と覚え書きに覆われていた。
「そのあと、どこへ向かった?」
「宿の主人にも、行き先は告げなかったそうです。同行者はいなかったと」
「姿は」
「証言にある特徴とは一致します。ただ、本人だと断定できるものは……」
リゼットはそこで言葉を止めた。
宗一郎は短く頷き、次の紙へ目を落とす。
エルネスト・クロイツ。
オズワルド・レーベン。
二つの名に結びつく記録は増えていた。だが、それらが示すのは、すでに過ぎ去った日の居場所ばかりだった。
彼らがそこにいたことは分かる。
今、どこにいるのかは分からない。
地図の上に置いた印だけが、少しずつ古くなっていった。
「……学院の方は」
宗一郎が尋ねると、リゼットは別の束を引き寄せた。
「服装と、使われた魔法について、追加の証言が届いています。こちらも元老院の記録と照合中です」
「消えた者は」
彼女の手が止まった。
「帰還した者がいる、という報告はありません」
「そうか」
宗一郎は椅子へ背を預けた。
窓の外で、荷車の車輪が石畳を叩いていた。
ここへ来た日にも聞いた音だった。
何も変わらない音がするたび、過ぎた日数だけが胸の中へ積もっていく。不老の自分を取り巻く時間の流れとは違う、この世界だけに置き去りにされたような焦燥が、微かに輪郭を帯びていた。
シオンが、向かいの席で書類を閉じた。
「一つ、確かめておこう」
宗一郎は顔を上げた。
「仮に明日、居場所が分かったとする。お前はどうする?」
「……会いに行く」
「相手が拒んだ場合は?」
「話をさせる」
「それでも答えなければ?」
宗一郎は黙った。
シオンの指先が、閉じた書類の上に置かれる。
「奴を斬れば、二人は戻るのか」
部屋の外を、誰かが歩いていった。
足音が遠ざかるまで、宗一郎は答えられなかった。
「……分からん」
「私にも分からん」
シオンは静かに言った。
「死ねば解ける術もある。術者を失ってなお残るものもある。消えた者が今どうなっているのかさえ、我々は知らん」
宗一郎は卓の上の地図を見た。
追うべき名を知れば、そこへ向かえばいいと思っていた。
見つけ出し、捕まえ、二人のところへ案内させる。
何度も思い描いたその先に、相手が口を閉ざしたまま死ぬ光景が浮かんだ。
そのあと、自分はどこを探せばいいのか。
「……力の方も、調べる必要があるな」
「ああ」
シオンが頷いた。
「所在を探す手は止めん。だが、それだけでは足りない」
リゼットが手元の紙を揃えた。
「明日、相談できる方がいないか、セプティム様に伺ってみます。遺物の鑑定に携わる方なら、私たちが知らない事例をご存じかもしれません」
宗一郎は、彼女へ向き直った。
「頼む」
リゼットは頷き、覚え書きに一行を加えた。
紹介された店は、広い通りから二本奥へ入った場所にあった。
窓の内側に、古い燭台や硝子器が並んでいる。看板の文字は擦れ、扉の取っ手だけが、幾度も触れられたためか鈍く光っていた。
扉を押すと、小さな鐘が鳴った。
奥の机で、老人が拡大鏡を目から離す。
「元老院から話は聞いている」
老人はシオンを一度見て、それから宗一郎たちへ椅子を勧めた。
「ただ、期待はせんでくれ。私は物を見て調べる人間だ。話だけで分かることには限りがある」
「構わない」
宗一郎は鞄から資料を取り出した。
数字の出現。
人によって異なる消失の時刻。
その場に残った者と、消えた者の違い。
老人は途中で何度も問いを挟んだ。数字を見たのは誰か。ほかの人間には見えなかったのか。消える直前に、音や光はなかったか。
宗一郎が知らないことは、リゼットが証言の該当箇所を示した。
すべてを聞き終えると、老人は拡大鏡を机へ置いた。
「……私には、分からんな」
宗一郎は、膝の上で手を握った。
「似たものでもいい。何かないか」
「似ているだけのものを教えて、お前さんたちを間違ったところへ向かわせたくはない」
老人は資料へ目を落としたまま、指で顎を撫でた。
「少なくとも、私が扱ってきた品の中にはない。人間を見えなくするものならあったが、これとは違うだろう」
「そうか……」
声に落胆が滲んだことを、宗一郎自身も感じた。
老人は何も言わず、資料を丁寧に揃えて返した。
リゼットが礼を述べ、鞄を開く。
そのときだった。
「……一人、聞いてみてもいい相手はいる」
宗一郎の手が止まった。
「誰だ」
「時折、ここへ来る客だよ」
老人は背後の棚を振り返った。
「あの硝子の箱が見えるか」
棚の隅に、小さな箱があった。
中には、青黒い輪が一つ置かれている。
「以前、あれを留め具の一種だと思っていた。魔力を通しても、何も起こらん。装飾としては珍しいからと、店に出していたんだがな」
老人は顔を戻した。
「その客は、見るなり言った。割るな、と」
「割る?」
「中を調べようと思っていたんだ。表面を少し削ってな。そう話す前に、言われた」
シオンが棚へ目を向けた。
「何の品だった」
「封じ具だ。継ぎ目だと思っていた線が、封印の一部だった。あとで専門の者に調べてもらって、ようやく分かった」
老人は苦笑した。
「私が何日も眺めて分からなかったものを、あいつは店へ入ってすぐ見抜いた」
「遺物に詳しいのか」
「詳しい、で済むのかは知らん。私の扱う品を古い呼び名で呼ぶこともある。こっちが由来を調べている最中のものを、懐かしそうに眺めたりな」
宗一郎は身を乗り出した。
「どこにいる」
「知らん」
老人はあっさり答えた。
「住まいも、仕事も聞いたことがない。気が向いたときに来て、品を眺めて帰る。それだけだ」
「次は、いつ来る」
「明日かもしれん。数年後かもしれん」
宗一郎の口が、僅かに開いた。
老人はその顔を見て、声を和らげた。
「頻繁に来る時期もある。近頃は、この街にいるらしい。先月も顔を出した」
「名は?」
「セイリス」
シオンが小さく眉を動かした。未知の脅威か、あるいは別の因果か。測りかねる響きに、彼女の警戒がわずかに纏わり付く。
「伝言を預かるくらいなら、してやれる」老人は机の引き出しから紙を取り出した。
それから三日、宗一郎は店へ通った。
朝に一度。ほかの調査を終えた夕方に、もう一度。
鐘を鳴らして入るたび、老人は顔を上げ、何も言わず首を振った。
四日目の夕方には、扉を開ける前に足が止まった。
窓越しに、いつもの棚が見える。
いつもの机に、老人がいる。
宗一郎は取っ手から手を離しかけ、もう一度、握り直した。
扉の鐘が鳴った。
「来たぞ」
老人が言った。
宗一郎は、敷居を跨いだ姿勢のまま動きを止めた。
――知らず知らずのうちに、確証のない「過去の影」をこの男に期待している自分がいる。その自覚が、奇妙な冷たさとなって胸の奥に落ちた。
「……いつだ」
「昼過ぎだ。お前さんの名を伝えたら、少し変な顔をした」
「何と言った」
「『あの宗一郎?』とな。私に聞かれても分からん」
老人は机の端の紙を差し出した。
そこには、店の者とは違う、流れるような筆跡があった。
明日の午後、ここで。
署名はない。
短い一行を、宗一郎はもう一度読んだ。
「知り合いなのか?」
「……分からん」
老人が怪訝そうに顔を上げる。
宗一郎にも、それ以上は説明できなかった。四百年の記憶のどこにも、この名の記憶はない。それなのに、自分の名が「知られている」という事実だけが、微かな波紋を広げていた。
翌日は、朝から雨だった。
宿を出る頃には細くなっていたが、軒先から落ちる雫が、通りのあちこちで水溜まりを叩いていた。
店の前へ着くと、シオンが宗一郎より先に窓の中を見た。
その足が、僅かに止まる。
「どうした?」
「……いや」
彼女の視線が、店の奥へ向いていた。
宗一郎も窓へ目をやった。
棚の前に、若者が一人立っている。
銀白色の長い髪が肩を流れ、白と淡い青の衣装には細かな刺繍が施されていた。手にした硝子器を窓からの光へ透かし、その縁を眺めている。
宗一郎が扉を押すと、鐘が鳴った。
「来たか」
老人が奥から声を掛ける。
若者が振り向いた。
紫の瞳がシオンを捉え、リゼットへ移り、それから宗一郎の顔で止まった。
「……おや」
その口元に、ゆっくりと笑みが浮かぶ。
「本当に、君だったんだね」
宗一郎は扉を閉めた。底冷えするような沈黙が、背筋をかすめる。
「セイリスか」
「うん」
「俺を知っているのか」
セイリスは硝子器を棚へ戻し、宗一郎へ身体を向けた。
「知っているよ。君が僕を訪ねてくるとは思わなかったけれど」
「どこで会った」
「会うのは、今日が初めてだね」
矛盾した言葉に、宗一郎はわずかに目を細めた。警戒すべきか、すがるべきか、判断のつかない距離感がそこにあった。
若い。
凛やアリアと、そう違わない年頃にも見える。
艶のある白髪に紫色の瞳。肌も白く、男性に女性にも見える。どこか神秘的な雰囲気を纏っている不思議な男だった。
セイリスは宗一郎の顔を懐かしむように、あまりに自然に眺めていた。まるで、忘れるはずのないものを見つめるかのように。
シオンが一歩、横へ出た。刃は抜かずとも、いつでも動ける重心の置き方だった。
「お前は、何者だ」
セイリスの目が、彼女へ移る。
「君も、僕に聞きたいことがあるのかな?」
「問いに答えろ」
柔らかな笑みは消えなかった。
だが、シオンはそれ以上近づかなかった。刀へ手を掛けることもなく、相手の指先まで目に収めるように立っている。
宗一郎は、その横顔を一度見た。
シオンも、この相手を知らない。
そして、紛れもなく警戒している。
「俺たちは、ある力について調べている」
宗一郎は口を開いた。
セイリスの視線が戻る。
「古い遺物に詳しいと聞いた。話を聞いてほしい」
「いいよ」
あまりに軽い返事だった。
宗一郎が次の言葉を出す前に、セイリスは少し首を傾げた。
「昔より、ずいぶん話すようになったね」
雨粒が、窓を伝って落ちた。
「……昔?」
セイリスは微笑んだまま、答えなかった。
宗一郎は相手の瞳を見据えた。
自分が忘れている何かを、この若者は知っているのかもしれない。不老の自分が封じてきた記憶のどこかに、この紫の瞳が引っかかる気がした。
胸の奥で、長く抱えてきた問いがうごめく。
なぜ、自分を知っている。
どこで見た。
俺は――。
鞄の中で、書類の端が指に触れた。
学院から持ってきた、二人の名が記された紙だった。
宗一郎は息を吸い、迷いを押し潰すように言った。
「俺と暮らしていた二人が、消えた」
セイリスの表情から、からかうような色が僅かに薄れた。
「……うん」
「何が起きたのか知りたい。今、どこにいるのかも。連れ戻すには、どうすればいいのかも」
リゼットが鞄を開き、まとめてきた記録を取り出す。
セイリスは、その紙の厚みへ一度目を落とした。そこに記された「失踪」の重みを知っているかのように、瞳の色がわずかに沈む。
それから、宗一郎を見た。
「座ろうか」
店の奥に、小さな卓があった。
老人が椅子を運び、リゼットが書類を広げる。シオンはセイリスの向かいを選び、宗一郎はその隣へ腰を下ろした。
窓の外では、まだ雨が降っている。
宗一郎は最初の一枚を、セイリスの前へ差し出した。




