数字の残響
新世暦411年 初冬
父は、いつ帰ってくるのか。
その問いを口にした日のことを、リゼットは鮮明に覚えていた。
母の手が、痛いほど強かったこと。
応対した中央元老院の男が、答える前に母を見たこと。
高い窓から差す黄昏の光の中を、小さな埃がゆっくりと落ちていたこと。
男が何と答えたのかは、もう覚えていない。
ただ、あの日も、父は帰ってこなかった。
旧き時代の遺構を流用した庁舎の廊下。窓に残っていた夕日が、少しずつ薄れていく。
リゼットは持参した書類の束を胸元へ引き寄せた。宗一郎は、その手から彼女の顔へ視線を戻す。
「父親の名は?」
「レオン・ベルクレールです。各地から届く観測報告を、第七観測室で整理する仕事をしていました」
「当時、お前は……」
「5つでした」
宗一郎は黙った。
失踪した父を待ち続けていた子供が、目の前の静かな女性になるまで。
その残酷なまでの時間の長さを、自分が過ごしてきた歳月で測ることはできなかった。
廊下の奥から職員が足音を響かせて歩いてきた。リゼットは言葉を切り、その者が通り過ぎるのを静かに待つ。
シオンが、先ほど面会した男の部屋へ目を向けた。
「場所を借りよう。ここで続ける話ではない」
部屋の男は事情を伝えると、隣の小さな面談室を開けてくれた。帰り際には、滞在先を必ず知らせてほしいと改めて頼まれる。
重い扉が閉まると、廊下の足音が遠ざかった。
リゼットは木製の卓へ、使い古された書類をそっと置いた。
「私が持っているものは、事件の全記録ではありません。遺族へ渡された説明と、その後、自分で確かめられたことの断片です」
最初に重ねられた紙には、失踪者の名と所属が記されていた。
――レオン・ベルクレール。
その下に、冷たい文字で「所在不明」とある。
紙の四隅は丸く擦れ、裏面の折り目には細い補修の跡が幾重にも残っていた。
「これは母が最初に受け取ったものです。私が文字を読めるようになるまで、ずっとしまってありました」
リゼットは次の紙をめくる。
「こちらは、その数年後に出された回答です」
記された日付が違っていた。
担当者の署名も、違っていた。
――新たな情報は確認されていない。
――所在、生死ともに不明。
黄ばんだ幾枚もの紙に、同じ意味の冷徹な言葉が並んでいた。
「毎年、問い合わせたのか」
「最初は母が。途中からは、私が」
リゼットは淡々と、しかし揺るぎない声音で答えた。
「同じ窓口へ行くだけでは、同じ回答が戻ってくるだけです。ですから、当時の調査に関わった方を捜しました。すでに退職された方にも、移られた先へ手紙を出しました」
束の中から、一枚の古い便箋を抜く。
余白には小さな文字がびっしりと詰まっていた。違う色の墨で、日付と短い追記が書き足されている。
「この方は、本部で職員が消える瞬間を目の当たりにしています。父そのものを見たわけではありませんが、その直前の様子を知っていました」
宗一郎は、差し出された紙へ目を落とした。
――数字が見えると訴えていた。
――誰も触れていないのに消えた。
医務室の白熱灯の下で見た光景が、頭の奥へまざまざと蘇る。
「数字について、どこまで分かっている」
「消えた方が、それを口にしたという証言はあります。ただ、最初に幾つあったかまでは、この方は聞いていません」
「減っていたことは」
「はい。ひどく怖がっていた、と」
リゼットは一度、唇を固く結んだ。
「これ以上は、何も覚えていないそうです」
紙の下端には、後年に書き加えられた追記があった。
――再確認。新たな記憶なし。
その横に、さらに別の日付が記されている。
宗一郎の目が止まったのを見て、彼女は静かに言った。
「ほかの証言と合うところが見つかれば、いつか思い出していただけるかもしれないと思って……通い続けました」
シオンが静かにその紙を受け取り、目を走らせた。
「この証言だけで、数字が尽きたことと、人間の消失を結びつけたのか」
「いいえ。そこまでは、私一人では確かめられませんでした」
リゼットはまっすぐに宗一郎を見た。
「今日、あなた方が話していた『数字』を聞くまでは」
宗一郎は、彼女が刻み続けた日付をもう一度見た。
幾度訪ねても、答えは一ミリも増えなかった。
それでも、次の年の日付がそこにはあった。
「見せてくれ。ほかに、分かっていることもすべて」
リゼットは小さく頷いた。
面談室を出る頃には、窓の外の空はすっかり暗くなっていた。
事件に関する証言はいくつもあった。だが、失踪した者たちがどこへ消えたのかを示す決定的なものは、一つもない。
近くにいた衛兵は残った。
別の部署の職員も残った。
だが、消えた者たちは例外なく「第七観測室」の業務に関わっていた。
宗一郎が持参した現代の記録と、22年前の記録が、奇妙な軌跡を描いて重なり合う。
だが、その先へ踏み出すには、まだ証拠が足りなかった。
別れ際、リゼットは明日宿を訪ねる旨を告げた。
「明日、私の手元にある残りの資料もお持ちします。今日持ち歩いていたのは、その一部ですので」
「仕事はいいのか?」
「調整します」
迷いのない即答だった。
そのあとで、彼女は僅かに目を伏せる。
「……お話を伺えて、よかったです」
それが何を意味する言葉なのか、宗一郎には痛いほど分かった。
同じ悪夢が、また起きてしまった。
それは決して喜べる知らせなどではない。
それでも、22年間凍りついたまま動かなかったものに、今日、ようやく触れられたのだという実感が彼女の中にあった。
「明日、待っている」
宗一郎が答えると、彼女は深く頭を下げた。
翌朝、宿へ元老院からの使いが訪れた。
シオンは差し出された書状に目を通し、末尾の署名のところでピタリと目を止める。
「早かったな」
「資料が見られるのか」
「それも含めて、直接話したいそうだ」
彼女は書状を綺麗に畳んだ。
「第七席が出てくる」
宗一郎が顔を上げると、シオンは淡々と説明を加えた。
「十三人の機関長は、まとめて『十三議席』と呼ばれる。その一人だ」
「お前の知り合いか」
「面識はある。超越者に関する情報を管理・統括する立場の人間だ」
部屋を出る頃、重そうな書類鞄を抱えたリゼットが宿へ到着した。
彼女の元にも、今回の面会への同席を求める連絡が入っていたという。
宗一郎は彼女の抱える鞄へ目を向けた。昨日の薄い束とは、明らかに厚みが違う。
「全部か」
「必要なものを選び抜いてきました」
リゼットは肩帯をしっかりと持ち直す。
昨夜、彼女はどれだけの紙を広げ、一人で過去を反芻していたのだろう。
宗一郎は何も尋ねず、彼女と並んで宿の扉を出た。
案内された一室には、すでに初老の男が静かに控えていた。
机の上には、昨日預けた学院の記録。その横には、厳重な封を解かれた古い綴りが置かれている。
男は立ち上がり、シオンへ軽く頭を下げた。
「久しぶりだな、シオン」
「お前が直接表に出てくるとは思わなかったぞ、第七席」
「『第七観測室』の名を出して君が訪ねてきた。人任せにはできんよ」
落ち着いた、重みのある声だった。
男の鋭い目が、隣に立つ宗一郎へと移る。
「中央元老院十三機関、第七機関長。セプティム・アルトマンだ。今回の件は、私が直接話を聞かせてもらう」
「宗一郎だ」
「君から聞かせてほしい。何が起きた?」
宗一郎は椅子へ深く腰掛けた。
実習先での予期せぬ争い。
治療を受けていた生徒たちの異常。
視界の端に現れた数字と、何の気配も残さぬまま世界から削ぎ落とされた消失。
セプティムは途中で何度か、時刻と職員たちの配置を確認した。宗一郎が分からないと答えると、それ以上詮索せず、手元の記録へと視線を戻す。
「凛と、アリア。君と暮らしているのは、その二人だな」
「ああ」
「二人とも、現場で相手に直接接触している」
「争いに巻き込まれた。そのあとも、追跡のための確認に答えていた」
男は満足そうに頷き、古い綴りをパラパラとめくった。
「こちらにも、当時と同じ『数字』の報告がある」
リゼットの手が、膝の上でぴくりと動いた。
「最初の報告は10,000。視線をどこに向けても消えず、瞬きをした際に残数が減っていった。その後、それを報告した者を含め、第七観測室の職員247名が消息を絶った」
宗一郎は身体を前のめりにさせた。
「消えるまでに、何をしていた」
「異常を解析しながら、観測業務を続けていた。各地の報告を受けた本部でも、対応と観測の指示が並行していたようだ」
男は頁をめくる手を止めない。
「観測室の職員が消えたあとも、警備の衛兵や、別部署から応援に来た者は残っていた。庁舎という建造物そのものに作用した現象ではない」
シオンが腕を組み、険しい表情を作る。
「今回とまったく同じだな」
「酷似している。少なくとも、偶然の事故として処理することはできん」
セプティムはリゼットへと顔を向けた。
「君が集めた証言も、ここで照合したい。出所と、直接聞き取った時期を確認させてくれ」
「……はい」
彼女は震える手で書類鞄を開いた。
紙を取り出す指先に、わずかに力がこもっている。
机の上に美しく並べられた証言の数々を、セプティムは一枚ずつ、吟味するように読んでいく。
「この人物には、私も生前会ったことがある」
「昨年、亡くなられました」
リゼットが静かに答える。
「最後にお話を伺ったのは、その前年です。そのときの追記は、こちらに」
別の紙をそっと差し出した。
男はそれを受け取り、しばらくの間、押し黙った。
「調査への協力を求めたとき、君は何と説明した?」
「父を捜しているとだけ。お話しいただけないことは、無理強いしませんでした」
「これは、十年以上前の記録だな」
「はい。その後に新たに確認できたことは、混乱を避けるため日付を分けて記載してあります」
紙の端に、彼女の細い指がそっと添えられた。
「同じ方のお話でも、当時の記憶と、あとから聞き及んだ噂が混ざってしまうことがありますから」
宗一郎は、隣に座る彼女の横顔を見た。
誰に何を言われようとも、父を捜すために、彼女はすべてを覚えてきたのだ。
どこへ行けば話を聞けるのか。何を信じ、何を分からないまま残すべきなのか。
父が二度と帰らない長い日々の中で、彼女は独力でその知恵を身につけてきた。
男は一通り目を通すと、紙を丁寧に卓へ置いた。
「私たちの公的記録だけでは拾い切れていない証言もある。今回の照合には、これらが大いに役立つだろう」
「……よろしくお願いいたします」
リゼットは深く頭を下げた。
その顔を再び上げるまでには、わずかな沈黙が必要だった。
昼に近づく頃、部屋の大きな机の上へ古い広域地図が広げられた。
「今回の相手が、すでに確認済みの『超越者』の一人である可能性を考えている」
セプティムが重々しく告げる。
「22年前にも、その疑いは濃厚にあった。だが、観測者はすべての担当からロストした。誰か一人だけを明確に指し示す共通点は、当時得られなかった」
「監視されていた者なら、誰にでも動機はある」
シオンの鋭い声に、男は小さく頷いた。
「君も含めてな、シオン」
リゼットが思わずシオンの方を振り向く。
シオンはその視線を真っ直ぐに受け止めた。
「私は、当時の観測対象の一人だ」
部屋の空気が一瞬で凍りついたように静まり返る。
リゼットの目が、シオンの腰に下げられた黒鞘へ一度落ち、それから驚愕に染まった顔へと戻った。
「……そうでしたか」
「知らなかったのか」
「お名前は、上の立場の方から存じていました。ただ、そこまでの分類までは……」
彼女は動揺を抑えながら、言葉を選び直す。
「父の仕事について個人的に調べていても、元老院が管理する観測対象の機微に触れられるわけではありませんでしたので」
セプティムは二人を制するように手を挙げた。
「これから示す情報も、今回の照合に必要な最小限の範囲に限る。当然、外への持ち出しと第三者への開示は厳に禁じる」
リゼットが強く頷き、宗一郎も短く了承した。
男は地図の数か所に、色褪せた日付の記された小さな紙片を置いていく。
「今の私たちは、彼らの行動を一日中監視できているわけではない。これは、確認できた最後の所在だ。どうしても空白の期間が生じる」
「事件の日までに、現場のミナスティリスへ移動できた者は誰だ」
宗一郎が核心を突く。
「そこから逆算して絞り込んでいこう」
男は学院の記録を地図の脇へと寄せた。
接触が起きた正確な日。
周辺で使われていた街道。
利用可能な転移魔法陣の位置と、大型飛行船の定期航路。
個別の所在記録を地図上に置き直していくうちに、これまで遠く離れていたはずの土地が繋がり、見えなかった経路が一本の線として浮かび上がってくる。
シオンは事件当日の自身の行動を正確に語った。セプティムは、それの裏付けとなる別のルートからの報告書を示す。
ほかの容疑者たちについても、事件の前後に遠隔地での滞在を裏付ける複数の目撃証言があった。
やがて、机の上に残されたのは、二枚の紙片だけだった。
「エルネスト・クロイツと、オズワルド・レーベン。この二人を、優先して洗い出す」
男が言った。
「ただし、ほかの者の関与が完全に不可能だと証明されたわけではない。未確認の転移手段や、影武者を使った可能性も残っている」
宗一郎は残された二枚の名前を凝視した。
「こいつは」
「エルネスト・クロイツ」
セプティムが即答する。
「高位の魔術師だ。複数の強力なアーティファクトを所持し、行使する魔法の幅も極めて広い」
シオンの目がわずかに細められた。
「名は知っている。だが、直接手合わせたことはない」
男はその最後の足取りを示した。
宗一郎が地図のその地点に指を置く。
「……こいつの方が、今の現場に近い」
「そう見えるな」
「事件の前に、こいつがこの距離にいたのなら――」
「日付を、もう一度正確に確かめてもよろしいでしょうか」
静寂を割って、リゼットの声が響いた。
セプティムが記録を彼女の方へ押しやると、彼女は細い指で目撃日時と、報告を受け取った日時のズレを丹念に追っていく。
「……目撃されてから、元老院に報告が届くまでにタイムラグがあります。この時点で、この人物はすでに別の場所へ移動していた可能性があります」
さらに、彼女の指がもう一枚の紙へと移った。
「オズワルドの方は、さらに長く所在が確認されていません。足取りが途絶えています」
「エルネストの方が近くにいたとは、断言できないか」
宗一郎が険しい顔で尋ねる。
リゼットは一度、彼を見上げた。
「確認できた最後の場所では、確かに最も近くにいました。ですが、オズワルドが当時どこに潜んでいたのかは、ここにはありません」
その声は、微かに硬く張りつめていた。
「エルネストが最も怪しいと決めつけるには、まだ材料が足りません」
宗一郎はすぐには返事をできなかった。
ようやく、追い求めるべき具体的な名前まで辿り着いた。
そこへ真っ直ぐ向かえばいいのだと、心のどこかで思いかけていた自分がいたからだ。
地図の脇で、リゼットの重ねられた手が微かに震えている。
「私も……一刻も早く、知りたいです」
絞り出すような、小さな声だった。
「ですが、もしそれが間違っていたら……その遠回りしている間にも、本当の敵はさらに遠くへ逃げてしまうかもしれない」
宗一郎は、地図からゆっくりと指を離した。
「……ああ。そうだな」
シオンが二人の間に学院の記録を引き戻す。
「現場に残された痕跡と繋がる決定的な何かを、もう一つ探そう。外見の特徴、持ち物の意匠、使われた魔法の属性。証言の細部をもう一度洗い直す」
セプティムが深く頷いた。
「学院へ直ちに再照会をかける。ここからなら、秘匿通信設備が使える」
「今、奴らはどこにいる」
宗一郎が問うと、セプティムはすぐに答えず、窓の外へと目を向けた。
「二人とも、正確な現在地は掴めていない」
「大まかな地域すら分からないのか」
「記録にある拠点からは離れている可能性が高い。だが、それを確認するためには、また多くの人員を動かす必要がある」
男は広げられた地図を見下ろした。
「22年前と同じ方法で、迂闊に監視を再開することはできない。今回もまた、追跡に加わった者たちが次々と消えている」
「俺たちが動けば、俺たち自身にもあの『数字』が出るかもしれない」
「そうだ。そしてその恐ろしい条件を、未だに誰も説明できていない」
宗一郎は自身の掌をじっと見つめた。
今はまだ、そこには何もない。ただの肉体があるだけだ。
だが、それがいつ、どんな条件で書き換わるのか。自分には全く分からなかった。
「それでも、調べる」
「止めるためにこの話を呼んだわけではない」
セプティムは冷徹に言い放つ。
「君たちが何を掴み、どこへ向かおうとしているのか、その目を確かめたかったのだ。もし別の超越者との全面的な衝突に至るなら、元老院としても放置できない事情がある」
シオンが男を真っ直ぐに見据えた。
「報告を義務付けるか」
「接触を試みる前に、知らせてほしい」
「知らせることは吝かではない。だが、お前の許可を待つという約束はできん」
男は深く、短い溜息を吐き出した。
「君なら、そう言うと分かっていたさ」
「こちらにも、一刻を争って待たせている人間がいる」
シオンの声には、微塵の妥協もなかった。
セプティムは宗一郎を一瞥し、それから目の前の山積した資料へと再び目を戻す。
「まずは、所在の確実な記録がある場所へ照会を飛ばす。学院の証言とも突き合わせよう。その返答を見て、次に向かうべき場所を決定する」
宗一郎は力強く頷いた。
浮かび上がった名前は二つ。
古びた地図の上には、色褪せた二つの印が残されている。
凛とアリアの元へ続く道は、まだ、そのどちらの闇へ踏み込むべきか決まってはいなかった。
面会が終わりを迎える頃、セプティムは静かにリゼットへと告げた。
「君が集めた資料は、こちらで正式にデータベースと照合する。以後の連絡先を記しておいてくれ」
「私も、この調査に加えてください」
膨大な紙束をまとめかけていた男の手が、ピタリと止まった。
リゼットは椅子から立ち上がり、宗一郎とシオンのほうへと真っ直ぐに向き直る。
「お二人が現場へ向かわれるときは、私も同行させていただけませんか」
宗一郎は驚いたように彼女を見上げた。
「相手が誰かすら、まだ決まっていないんだぞ」
「はい」
「仮に分かったとしても、そこに近づくこと自体が生死に関わるかもしれない」
「承知しています」
リゼットは書類鞄の金具にしっかりと手を置いた。
「過去の記録の照合と、現地での聞き込みの補佐なら、必ずお役に立てます。これまで私に協力してくださった方々にも、私から事情を話して協力を取り付けられます」
「そのデスクワークなら、ここに残っていてもできるはずだ」
シオンの冷徹な言葉に、彼女は一度言葉を詰まらせた。
言い返そうとして、しかし、ぎっと唇を噛み締めて下を向く。
「……そうですね」
指先が、鞄の留め具を白くなるほど強く押さえた。
「ここに安全に残って、本部の返事を待ち続けることもできます。私は、これまでずっとそうしてきました」
その声は、わずかに、しかし確実に掠れていた。
「でも、今回は……そこから先へ、本当に進めるかもしれないんです」
部屋の中にいる誰もが、何も言えなかった。
「父が今も生きているかなんて分かりません。22年も経っているのですから。見つかるものが、私の望むような温かいものとは限らないことも……分かっています」
そこで一度、呼吸が途切れる。
リゼットは深く息を吸い込み、顔を上げた。
「それでも、何が起きたのかを知りたい。父に、あのとき何があったのかを」
宗一郎の脳裏に、あの擦り切れた古い説明書の折り目が蘇った。
母が大切に持っていた紙。
娘へと受け継がれ、その手の中で何度も摩耗した紙。
「それに……凛さんとアリアさんは、まだ消えてから日が浅い」
リゼットは宗一郎の目をまっすぐに見つめた。
「もし戻れる方法があるなら、一日も早く戻ってほしい。待っている側にとっても、待たせている側にとっても、こんなに長い時間は……耐えられないから」
震える唇を、彼女は必死に抑え込もうとしていた。
「すみません。これは私の個人的な我が儘です。だから、同行が絶対に必要だとなんて、うまく説明できません」
シオンは、その少女のような、しかし強い執念を宿した女性をじっと見つめていた。
「現地で命の危険が生じれば、容赦なく退く。お前一人だけをその場に残すことも、独断で標的を追うことも絶対に認めん」
「……はい」
「父親に繋がる決定的な手掛かりを目の前にしても、その命令に従えるか」
リゼットは、すぐには答えなかった。
宗一郎には、その沈黙の意味が痛いほどよく分かった。
手を伸ばせば、届くかもしれない。
今ここで手を離してしまえば、二度と取り戻せないかもしれない。
昨夜までの自分自身と全く同じ迷いが、今、彼女の心を引き裂いていた。
やがて、リゼットはしっかりと握り締めていた手を、鞄からゆっくりと離した。
「……従います。私情で勝手に追いかけて、私まで行方不明になってしまっては、これまで父のために確かめてきたことのすべてが、永遠に持ち帰れなくなってしまいますから」
シオンは横に立つ宗一郎に視線を送った。
数瞬の沈黙の後、宗一郎は小さく頷いた。
「一緒に来てくれ」
リゼットの瞳が、わずかに揺らぐ。
「お前がこれまで調べ上げたすべてを、これからも貸してほしい。俺たちが新しく確かめたことも、隠さず伝える」
「……はい」
掠れた返事をしたあと、彼女はたまらずに一度だけ顔を伏せた。
その様子を静かに見届けてから、セプティムが低い声で言った。
「職務上の調整は、こちらで手配しよう。今回の調査に対する正式な協力者として扱う。ただし、元老院から開示された情報の機密管理だけは厳守してもらう」
リゼットは顔を上げ、震えるほど深く頭を下げた。
重厚な庁舎の門をくぐると、昼過ぎのまばゆい光が石畳の階段へと降り注いでいた。
通りでは商人の荷車が威勢よく動き、広場の向こうで次の時刻を知らせる鐘が重く響く。
リゼットは数段下りたところで、ふと足の歩みを止めた。
「どうした」
宗一郎が振り返ると、彼女は振り返って庁舎の高くそびえる窓を見上げていた。
「いえ……」
その瞳は、一番高い場所にある古い一室の窓に留まっていた。
「子供の頃は、ここへ来さえすれば、父のことがすべて分かると思っていました」
宗一郎は何も言わずに、ただその背中を見つめた。
「帰りの道は、いつも母と二人きりでしたけれど」
冷たい秋の風が、二人の間を通り抜けていく。
リゼットは鞄の肩帯をしっかりと握り直し、もう一度、まっすぐに前を向いた。
階段の下では、シオンが腕を組んで待っている。宗一郎もまた、その隣へと歩き始めた。
少し遅れて、背後からもう一人分の確かな足音が続く。
石段を下りきる前に、その足音は二人の歩調にしっかりと追いついていった。




