第七観測室
新世暦389年
朝の報告は、いつもと変わらなかった。
北方の港では雪が降っていた。南の交易都市では、観測対象が宿を替えた。西の大陸から届いた報告は、昨夜と同じ「動きなし」の一言だった。
レオンはそれぞれを記録し、伝声水晶の脇に置いた台帳へ時刻を書き込んだ。
中央元老院十三機関直轄――第七観測室。
部屋の名のようでいて、その実態は大陸をまたぐ組織だった。各地の観測者35名。その報告を整理する者、通信を維持する者、指示を出す者まで含めれば247名が在籍している。
彼らの任務は、元老院が確認した5人の超越者の監視、観測だった。
行動を記録し、兆候を拾い、危険を予測する。
レオン自身は、その誰とも会ったことがない。
水晶越しに報告を受けて、紙に書く。それが彼の仕事だった。
「北方第三観測点。定時報告を始める」
机の水晶から、聞き慣れた低い声がした。
「対象は昨夜から移動していない。接触者は――」
そこで声が止まった。
レオンはペンを浮かせた。
「どうした?」
「……いや。少し、目がおかしい」
「雪の照り返しか?」
「室内だ」
向こうで椅子の軋む音がした。
「数字が見える」
「数字?」
「10,000。目の前に浮いている。壁じゃない。どこを見ても、同じ場所に……」
短い沈黙。
「9,996」
レオンは眉を寄せた。
「今、減ったのか?」
「瞬きをしたら変わった。待ってくれ」
息を吸う音がした。
「9,991……。何だ、これ」
隣の席のミラが、こちらを見た。
レオンは水晶を覆うように手を添え、室長へ知らせるよう目で促した。
「痛みは? 吐き気や、魔力の異常はあるか?」
「ない。ないが……消えない。目を閉じても、開けばまだある」
「その場を動くな。観測は継続しろ。こちらで調べる」
「レオン」
名前を呼ばれた。
いつもは報告の最後に、くだらない冗談を一つ言う男だった。
「これ……何の数字だ?」
レオンには答えられなかった。
同じ報告が、続けて届いた。
東方の山間。南の交易都市。海を隔てた西の大陸。
土地も、気候も、観測対象も違う。
全員が、数字を見ていた。
「現地の魔法干渉ではありません」
ミラが記録を広げた。
「発生地点が離れすぎています。それに、見えている数字も一致していません。減り方にも差があります」
「水晶は?」
室長が訊いた。
「通信系統を通じた干渉の可能性は」
レオンは自分の水晶を見下ろした。
その上に、数字があった。
9,482。
水晶の表面ではない。
顔を横へ向けても、数字だけがついてきた。
レオンは瞬きをした。
9,479。
ペン先から、インクが落ちた。
「……室長」
声がうまく出なかった。
「私にも……見えます」
ミラが口元を押さえた。
その目が、レオンの顔ではなく、何もない空間を見ている。
「ミラ?」
「……私も」
室長は二人を見た。
それから、ゆっくり目を閉じた。
開いた時には、唇から血の気が失せていた。
扉の外にいた通信員にも数字があった。
記録庫の管理者にも、夜勤明けで帰宅していた副室長にも。
連絡の取れた第七観測室の職員は、全員だった。
廊下を警備する衛兵には、何も見えていなかった。
「どういうことです。皆さん、何を見ているんですか」
衛兵は室長の顔と、レオンの顔を交互に見た。
誰も答えなかった。
室長は扉を閉めた。
「外部へ救援を要請する。呪術と精神干渉、両方の専門家を呼べ。各観測点には現状を維持させろ。対象の動向に変化があれば、最優先で報告」
椅子が動き、紙が擦れた。
仕事を与えられたことで、部屋がわずかに息を吹き返した。
レオンは北方へ繋いだ。
「聞こえるか。こちらにも同じ症状が出た。専門家を手配している」
「全員か?」
「確認中だ」
「……全員なんだな」
返す言葉がなかった。
水晶の向こうで、男が小さく息を吐いた。
「目を開けていれば、減らない」
「何?」
「数字が止まっている。瞬きをしなければ――」
レオンも目を見開いた。
8,706。
動かない。
紙を掴む指が、少しだけ緩んだ。
涙がにじむまで、数字はそのままだった。
やがて耐えられず、瞬きをした。
8,653。
「……違う」
レオンは立ち上がった。
「止まっていない……! 見えていない間にも減ってる!」
水晶の向こうで、男が何かを罵った。
最初に気づいたのは、通信員の青年だった。
「脈です!」
青年は自分の手首を押さえていた。
「目を閉じて、脈を10回数えたんです。開いたら、ちょうど10減っていました」
ミラが同じことを試した。
レオンも、首筋に指を当てた。
一つ。
二つ。
三つ。
目を開く。
数字は、数えた分だけ減っていた。
自分の胸から、鼓動が聞こえた。
さっきまで意識していなかった音だった。
それが急に、大きくなった。
「落ち着け」
室長が言った。
「全員、座れ。走るな。呼吸を整えろ」
その声も、震えていた。
レオンは椅子に腰を下ろした。
落ち着かなければ。
そう思うほど、心臓が強く打った。
ミラが両手を膝に押しつけた。
「0になったら……どうなるんでしょう」
誰も答えなかった。
その沈黙の間にも、胸は動いていた。
専門家による解除は、失敗した。
魔法陣の光が薄れても、数字は消えなかった。
精神への干渉は検出されず、魔力の乱れも見つからない。
診察を受けた室長が、いつもより大きな声で礼を言った。
その後、専門家の袖を掴んだ。
「待ってくれ……! まだ、何かあるだろう」
「別の術式を用意します」
「今やってくれ」
「準備が――」
「今だと言っている!」
部屋の誰も、顔を上げなかった。
伝声水晶から呼び出しが鳴った。
南方の観測者だった。
「残り……600を切った」
息が荒かった。
「そっちは!? 何か分かったか? おい、聞こえてるだろう!」
レオンは水晶に手を置いた。
「聞こえている。横になれ。動くな」
「横になってる! さっきからずっと!」
「ゆっくり息を――」
「そんなことはやってるんだ!」
向こうで、何かが割れた。
「早くしてくれ……! 頼む。何でもいいから!」
レオンは開いた記録を見た。
発生地点。魔力測定。使用機器。既往症。
埋めた欄のどこにも、答えはなかった。
「……頼むよ」
水晶の声が、小さくなった。
「帰るって、言ったんだ」
レオンはペンを握ったまま、動けなかった。
最初に通信が途切れたのは、その水晶だった。
男は最後まで、残りの数字を読み上げていた。
「19……!」
息を吸う。
「16……速い! 何で、こんなに速いんだよ……!」
「こちらの声を聞け! 大丈夫だ、聞こえるか!」
レオンは自分でも信じていない言葉を繰り返した。
「12……!」
「聞いている! ここにいるぞ!」
「9……レオン! 待ってくれ! 俺、まだ――!」
声が途切れた。
接続は切れていなかった。
しばらく、風の音がした。
窓の鎧戸が鳴った。
レオンは水晶へ顔を寄せた。
「……おい?」
風
「聞こえているだろう! 返事をしろ!」
何か、軽いものが転がる音。
「おい……! ふざけるな! 返事をしてくれ!」
誰も答えなかった。
それから、声が一つずつ途絶えた。
泣きながら母親を呼ぶ声。
何度も同じ祈りを繰り返す声。
数字を読み上げることをやめて、ひたすら謝り続ける声。
何に謝っているのか、その人間にも分かっていないようだった。
レオンは通信先を切り替えた。
応答のない水晶が、机に増えていった。
その頃には、第七観測室の秩序は完全に失われていた。
「嫌だ……嫌だ、嫌だ! こんなの、何かの間違いだ!」
壁際で、一人の職員が頭を抱えていた。
「誰か! 誰か助けてくれ! まだ死にたくない!」
別の職員は床に膝をつき、震える手を組んで祈っていた。
「お願いします……! 何でもします! どうか、どうか……!」
「静かにしろ!」
室長が怒鳴った。
「全員、持ち場に戻れ! まだ手はある! 救援が――」
「何があるって言うんですか!」
若い記録官が叫んだ。
「何も分かってないじゃないですか! もう何人消えたと思ってるんですか!」
「落ち着け! 今は――」
「落ち着けるわけないだろう!!」
怒号が重なった。
誰かが机を蹴り倒した。
床に落ちた伝声水晶が、硬い音を立てて転がった。
泣き声。
怒鳴り声。
何度も救援を求める声。
普段は紙をめくる音と、淡々とした報告だけが響く部屋だった。
今は、誰一人としてまともに仕事を続けられなかった。
その時だった。
「……あ」
部屋の奥で、小さな声がした。
通信員の青年が立っていた。
両手を胸の前に持ち上げ、何もない空間を見つめている。
「……3」
誰かが振り返った。
「2……」
青年の顔が歪んだ。
「待って……! まだです! まだ、私……!」
室長が駆け出した。
「おい! しっかりしろ!」
「1……!」
青年が、何かを掴もうとするように手を伸ばした。
「助け――」
消えた。
音もなかった。
光も、魔力の揺らぎもなかった。
まるで、そこに人間が存在していたという事実だけを、世界から抜き取ったかのように。
伸ばされた手も、恐怖に歪んだ顔も、衣服も、その輪郭すら残さず消失した。
一瞬前まで青年が立っていた場所には、ただ、何もない空間が広がっていた。
「…………え?」
室長が足を止めた。
伸ばした腕だけが、行き場を失っていた。
「きゃあああああっ!!」
誰かが絶叫した。
それを合図に、部屋中が悲鳴に包まれた。
「消えた! 今、消えたぞ!」
「嘘だろ……嘘だろ!?」
「嫌だあああっ!!」
一人が扉へ駆け出した。
「出せ! ここから出してくれ!」
「待て! 走るな!」
室長の制止も届かなかった。
男は扉の取っ手に手を掛けた。
その瞬間。
ふっ、と。
姿が失われた。
取っ手を握っていた手が、腕が、身体が。
消えていく過程さえ存在しなかった。
ただ、次の瞬間には、そこに誰もいなかった。
勢いよく開いた扉だけが、壁にぶつかって大きな音を立てた。
「う……あ……」
ミラが口元を押さえた。
「もう……嫌……」
レオンは彼女を見た。
その目から、涙が溢れていた。
「もう、聞きたくない……! 見たくない……!」
ミラは両手で顔を覆った。
「お願い……! 少しだけ、全部止めて……!」
レオンは手を伸ばした。
その時、背後から声が上がった。
「5! 4! 嫌だ! 嫌だああっ!」
振り返る。
机の向こうで、一人の職員が椅子から転げ落ちた。
床を這い、誰かに助けを求めようとしていた。
「3! お願い! 助け――!」
消えた。
また一人。
そして、もう一人。
誰かの悲鳴が途切れるたびに、部屋の中に空白が増えていった。
倒れた椅子。
散乱した書類。
転がる伝声水晶。
人間だけが、そこから抜け落ちていく。
レオンは、もう誰の数字がいくつなのか分からなかった。
ただ、自分の数字だけが見えていた。
83。
瞬きをした。
76。
心臓が、狂ったように打っていた。
今朝、家を出るとき、5歳の娘が玄関までついてきた。まだ寝癖の残る髪を撫で、夕食までには戻ると伝えた。娘は頷き、扉が閉まるまで、こちらを見ていた。
帰らなければ。あの子は、待っている。
「……レオン!」
ミラが彼の腕にしがみついた。
「お願い……! お願いだから、一人にしないで……!」
顔は涙で濡れ、声は嗚咽で途切れていた。
「ここにいる!」
レオンは彼女の手を握った。
「大丈夫だ! 俺はここにいる!」
「嘘……! だって、みんな……みんな消えちゃった……!」
「ミラ! 俺を見ろ!」
彼女が顔を上げた。
「離さない。絶対に離さないから!」
ミラは何度も頷いた。
それでも、涙は止まらなかった。
「……うん……うん……!」
あとから、いくつかのことは思い出せなくなった。
誰が最後に悲鳴を上げたのか。
室長がいつ扉を開けたのか。
廊下の衛兵に、何と言って助けを求めたのか。
ただ、ミラの声だけは覚えていた。
「……一人にしないで」
レオンの数字は、もう2桁だった。
ミラの手を握り直した。
「ここにいる」
「離さないで……ねえ、お願い……!」
「離さない!」
瞬きをした。
23。
自分の鼓動が、耳の奥で鳴っていた。
ミラは泣いていた。
声を押し殺すこともできず、子供のように泣きじゃくっていた。
17。
室長が扉の前で振り返った。
その向こうに、衛兵の顔が見えた。
12。
ミラの指が、痛いほど食い込んだ。
「レオン……!」
「大丈夫だ……!」
7。
ミラが顔を上げた。
涙で濡れた瞳が、レオンを見つめていた。
「……怖い」
その声は、ひどく小さかった。
レオンは息を止めた。
胸は、止まらなかった。
目を閉じた。
開いた。
0。
ミラが消えた。
何の兆候もなく。
握り締めていた手が、ふいに空を掴んだ。
室長も。
扉の向こうの衛兵も。
まるで、世界が一瞬だけ瞬きをして、その間にすべてを置き忘れてしまったかのようだった。
音はなかった。
悲鳴もなかった。
ただ、ミラの最後の言葉だけが、耳の奥に残っていた。
レオンの指は、何も掴んでいなかった。
「……ミラ?」
声が、部屋に響いた。
椅子は倒れなかった。
誰かが走り去る足音も、扉が閉まる音もなかった。
机には、書きかけの報告書があった。
窓から入った風が、その端をめくった。
レオンは立ち上がった。
「室長」
扉の向こうへ声を掛けた。
「誰か……いませんか」
廊下には誰もいなかった。
衛兵詰所も、階段も。
途中の部屋には茶が置かれていた。
湯気が、まだ上がっていた。
レオンは伝声水晶を持ち直した。
第七観測室の回線。
救援を呼んだ部署。
自宅。
何度も呼び出した。
「聞こえたら返事をしてください」
声が震えた。
「誰でもいい。お願いします」
水晶を握ったまま、正門を出た。
街には日が差していた。
旗が風に揺れていた。
向かいのパン屋の扉は、開いていた。
いつもなら、その前に人が並んでいる時間だった。
今日は誰もいなかった。
レオンは中へ入った。
「すみません」
棚には、焼きたてのパンが並んでいた。
一つに手を触れた。
温かかった。
奥へ回った。
調理台には粉が散っていた。布の下で、生地が膨らんでいた。
人だけがいなかった。
店を出て、通りを見た。
鳥の声がしなかった。
馬もいなかった。
遠くの屋根の向こうまで、街はいつもの形をしていた。
そこで初めて、レオンは考えた。
消えたのは、ミラたちなのか。
扉の外にいた衛兵まで。
この街にいた、すべての人間まで。
そんなことが、あるのか。
自分の手を見た。
さっきまで、確かに誰かの手を握っていた。
「……違う」
口にした途端、膝から力が抜けた。
違う。
レオンは水晶を胸に抱え、店先に座り込んだ。
それでも、呼び出しをやめなかった。
元老院の記録には、次のように残されている。
新世暦389年。
第七観測室所属職員247名が、各地で相次いで消息を絶った。
失踪は短時間のうちに集中し、現場には争った形跡も、転移魔法の痕跡も認められなかった。
本部の衛兵は、職員が目の前で消失する様子を目撃している。
失踪者の所在、生死ともに不明。
第七観測室は再設置されず、超越者に対する観測体制は大幅に縮小された。
失踪から数日後、レオン・ベルクレールの妻が、5歳の娘を連れて庁舎を訪ねた。少女は母親の手を握ったまま、応対した調査官を見上げた。
「お父さんは、いつ帰ってくるの?」
調査官は、少女の顔を見た。やがて母親へ目を向けたが、彼女も黙って返事を待っていた。
答えは、記録のどこにもなかった。
記録の末尾には、調査官の筆で短い補記があった。
失踪後、回収した伝声水晶からの応答はない。
呼び出しも、届いていない。




