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遠い帰り道

新世暦411年 晩秋


 転移魔法陣の光が足元から薄れていくと、湿った石の匂いが戻ってきた。宗一郎は息を吐き、頭上を見上げた。崩れた天井の縁から細い根が垂れ、その向こうに、曇りのない秋の空が覗いている。

 隣に立つシオンは、腰の黒鞘へ手を添えて周囲を確かめてから、鞄に収めていた地図を取り出した。


「リフトハーフェンまでは、徒歩で3週間ほどだ」


 航路に近い転移先で、今、利用できるのはこの遺跡だった。シオンが広げた地図には、山裾を大きく迂回する街道が描かれていた。宗一郎はその脇を流れる川に目を留め、上流から尾根へと指を滑らせた。


「この尾根を越えよう。補給はできんが、荷は足りる」


「通ったことがあるのか?」


「昔にな。今も通れるはずだ」


 シオンは指の辿った道筋をもう一度確かめると、地図を畳んだ。


「なら、お前が先を行け」


 宗一郎は頷き、外へ続く石段を上がった。低い草に覆われた斜面には乾いた風が吹き、遠くの木々が同じ方向へ枝を揺らしていた。

 鞄の留め具を締め直し、背に負ったゼルグレアの位置を確かめてから、脚へ魔力を流す。踏み込んだ足の下で土が鳴り、次の瞬間には遺跡の入口が後ろへ遠ざかっていた。

 草地を抜け、浅い窪みを跳び越える。斜面に露出した岩の脇へ身体を流しても、背後の足音は一定の距離を保ったままだった。宗一郎が速度を上げると、頬を打つ風が強くなったが、シオンが離れる気配はない。

 彼は前方の足場を見定め、さらに踏み込みを強めた。

 その背を追いながら、シオンは僅かに目を細めた。


 ーー速い。しかも、速度も落ちない。


 すでに幾つもの丘を越えていた。背にはあの大きな黒い武器があるというのに、宗一郎の歩幅も、地面を蹴る強さも変わらない。短い加速で凄まじい速さを見せる者なら知っている。

 だが、これほどの速度を維持したまま長い距離を駆ける者には、今まで会ったことがなかった。

 シオンは呼吸を整え、続く岩場へ魔力を配った。着地の衝撃を受け止め、次の足へ重心を移す。その切り替えを早めても、前を行く背中との距離は縮まらなかった。

 一方、宗一郎も、岩の多い斜面に入ってなお乱れない足音を聞いていた。背後へ意識を向けると、シオンの魔力は接地と蹴り出しの瞬間にだけ強くなり、すぐさま次の動作に必要な箇所へ移っている。厚く強化し続けることなく、あの速さで不揃いな足場を渡っていた。


 ……見事なものだ。


 彼は尾根へ続く道を選び、前を向いたまま駆け上がった。彼女が遅れるかどうかを、もう気にする必要はなかった。


 日が落ちても、2人は進んだ。月の光が届く斜面では走り、木々の密集した場所では速度を落とした。谷を渡る際には宗一郎が先に足場を確かめ、シオンはその選択に従った。

 沢の近くで休む頃には、夜も深くなっていた。水を補った宗一郎が保存食を取り出すと、シオンは倒木に腰を下ろし、後ろへ流れた髪を肩から払った。


「いつも、あの速さで旅をしているのか?」


「急ぐときはな」


「少しは落とすと思っていたんだがな」


 宗一郎が彼女を見ると、シオンは水筒の蓋を締めながら続けた。


「長い距離なら、今まで会った中でお前が一番速い」


「お前も遅れなかっただろう」


「遅れないようにしたんだ。楽ではなかったぞ」


 口元に微かな笑みが浮かんだ。宗一郎は視線を彼女の足元へ移し、先ほどの魔力の流れを思い返した。


「魔力の使い方が巧いな。あの足場でも、無駄がなかった」


「そこまで見ていたのか」


 シオンは保存食を受け取り、包みを開いた。


「お前の方こそ、随分と余力を残していたな」


「先が長いからな」


「ああ。私も、まだ走れる」


 シオンは穏やかに答えたが、その目には、他人の技を見たあとの熱が残っていた。宗一郎は頷き、沢の水へ目を向けた。細い流れの音が、しばらく2人の間を満たしていた。

 短い睡眠を取ったあとは、空が明るくなる前に出発した。走れる場所では走り、道の途切れた場所では足場を選び直す。そうして幾日か進むうち、木々の向こうに細く高い塔が見え始めた。

 塔と塔の間には太い索が張られ、その上に巨大な船体が浮かんでいた。さらに遠くの空を、もう1隻の飛行船がゆっくり横切っている。

 リフトハーフェンだった。


 リフトハーフェンは、空を見上げる街だった。


 石畳の通りの先に繋留塔がそびえ、周囲の倉庫へ荷車が絶え間なく出入りしていた。樽を運ぶ者たちの掛け声に、馬の蹄と車輪の音が重なる。頭上の通路では船員が索を点検し、船腹の下に吊られた籠が、荷を積んでゆっくり上がっていた。

 宗一郎は歩きながら、その動きを目で追った。風を受けた旗の向こうに船の窓が並び、そこから小さな人影がこちらを見下ろしている。

 シオンは通り沿いの建物を示した。


「先に、船を確かめよう」


 航路を扱う建物の中には、旅装の客が数人いた。壁に掲げられた図の前で順番を待ち、受付へ進んだシオンが行き先を告げると、男は厚い帳面を開いた。


「アルヴェリア行きですね。次の出発は2日後です。お2人でしたら、まだお席をご用意できます」


「渡航には、どれほどかかる」


「通常は1週間です。風によって多少前後しますが、今のところ大きな遅れは見込んでおりません」


 シオンが頷く横で、宗一郎は出発日を記した欄を見ていた。


「今日、出る船はないか。別の港を経由してもいい」


 受付の男は航路図を取り出し、幾つかの港を指した。ここから出る船、その先で乗り継ぐ船、それぞれの出発日。宗一郎は説明を聞きながら、到着までに必要な日数を一つずつ確かめた。

 どの航路を選んでも、2日後の便より遅くなる。


「……2日か」


 男の指が図の上で止まり、シオンが宗一郎の顔を見た。彼はしばらく黙っていたが、やがて図から目を上げた。


「その便を、2人分頼む」


 受付の男は頷き、必要な手続きを説明し始めた。宗一郎はそれを聞きながら、もう一度だけ、出発日の欄を見た。

 外へ出ると、風が強くなっていた。繋留塔の上で、船員たちが籠の荷を受け取っている。あの高さまでなら、すぐに行ける。ここまでの道と同じように、力を使って距離を縮めることはできた。

 だが、船が出るまでの2日は、それでは縮まらなかった。


「これが一番早い」


 シオンが言った。


「……ああ。分かっている」


「宿を取ろう。向こうへ着けば、また走ることになる」


 宗一郎は塔から目を離し、彼女に続いて通りを歩いた。


 宿に部屋を取ったあと、2人は食堂へ下りた。煮込みの匂いが漂い、卓の間を給仕が忙しく行き来していた。

 窓際の席に落ち着くと、給仕が注文を取りに来た。


「本日は肉と根菜の煮込みをご用意しています。おいくつお持ちしましょう」


「3――」


 言いかけて、宗一郎は口を閉じた。向かいにはシオンが座り、隣の椅子には誰もいない。


「2つ頼む。パンもつけてくれ」


 シオンが引き取ると、給仕はそのまま頷いて厨房へ戻った。宗一郎は卓へ目を落とした。木の表面には小さな傷が幾つもあり、そのうちの一つを、無意識に指でなぞっていた。

 やがて皿が運ばれてくると、シオンは彼の前へ寄せた。


「温かいうちに食べておけ」


「ああ……」


 宗一郎は匙を取った。湯気の向こうで、シオンも食べ始めていた。彼が言い間違えたことには触れず、窓の外を通る荷車へ一度目を向けてから、静かに皿へ視線を戻した。

 煮込みは温かかった。宗一郎は一口ずつ飲み込み、最後には、パンで皿に残った汁を拭った。


 その日の夕方、部屋から学院へ連絡を入れた。携帯用の伝声水晶に届いたアルベルドの声は、ところどころ輪郭が薄くなっていたが、言葉は聞き取れた。


「もうリフトハーフェンか。随分と早かったのう。道中、何もなかったか」


「ああ。船は2日後だ」


「そうか……。待つしかない時間は、長く感じるじゃろうな」


 宗一郎は水晶を持ち直した。


「そちらは、何か分かったか」


 老人は新しく得られた目撃証言と、調査の状況を伝えた。しかし、消失の仕組みに繋がる手掛かりは、まだ得られていなかった。シオンも横から幾つか確認し、アルベルドは紙をめくりながら、一つずつ答えた。

 報告が終わると、短い沈黙があった。そのあとで、老人が少し声を和らげた。


「2人の席は、そのままにしておる。授業のことは、帰ってから考えればよい。戻ったときに困らぬよう、こちらで整えておく」


 宗一郎の指が、水晶の縁で止まった。

 凛が机に本を広げる姿と、隣からその頁を覗くアリアの顔が浮かんだ。2人がまた学院へ通い、夕方には家へ戻ってくる。その先の日々を、老人はまだ用意してくれている。


「……ありがとう。2人のことを、頼む」


「うむ。お前さんも、身体を粗末にするでないぞ。何か分かったら、届く手段で知らせてくれ。こちらも調査を続ける」


 通信が終わっても、宗一郎はしばらく水晶を持っていた。窓の外では、荷車が石畳を渡る音が続いている。

 シオンが向かいの椅子を引いた。


「宗一郎。一つ、約束してほしい」


 シオンは腰のラミセクトを外し、手の届く場所へ置いてから座った。宗一郎の目が黒鞘へ向かうのを見て、彼女は静かに話し始めた。


「私との戦いで、分かっているだろう。因果遺物の力は見ただけでは理解できない。」


 宗一郎は頷いた。彼女がまだ動いていないのに、自分の身体には傷が生じていた。身を守るために取った行動も、攻撃を届かせるために選んだ機会も、理解の追いつかない力の前で意味を失った。


「一つの働きが見えても、それが全てとは限らない。条件も、範囲も分からん」


「ああ。お前に聞くまで、分からなかった」


「戦いながら看破するつもりで挑むな。分かる前に殺される」


「分かっている」


 シオンは彼を見たまま、少し間を置いた。


「普段なら、お前の判断を疑わん」


 宗一郎は黒鞘から彼女の顔へ目を戻した。ここまでの道で、シオンは彼の判断に任せていた。危険を見極める経験も、戦う力も、改めて言葉にしなければ伝わらない間柄ではなかった。


「だが、今回ばかりは別だ」


 窓の外で、誰かが船の名を呼んでいた。シオンはその声が通り過ぎるのを待ち、問いを続けた。


「2人を消した者を前にして――お前は、退けるか」


 宗一郎は答えなかった。相手の顔さえ知らないのに、手の届く場所に立っている姿だけは想像できた。その者を残して離れれば、また居場所が分からなくなるかもしれない。ようやく掴んだものを、自分から手放すことになる。

 卓の上で指が曲がった。退く方が正しいと分かっても、身体をそちらへ向けられるとは言えなかった。


「……無理かもしれん」


 宗一郎は、握りかけた手を見下ろした。それ以上は、言えなかった。

 シオンはその返事を聞き、静かに頷いた。


「ならば、私が撤退を指示したら従え。これは絶対だ」


「その場では、何も聞かずにか」


「ああ。説明は、退いてからする」


 彼女は目を逸らさなかった。宗一郎もその視線を受け止めたが、すぐには返事ができなかった。

 医務室では、2人の手に触れていた。それでも何も掴めず、何も止められなかった。相手を目の前にしたとき、また手を引くことに耐えられるだろうか。

 シオンは急かさず、向かいで待っていた。彼が口にするまで、その約束を引き取るつもりはないのだと分かった。

 宗一郎は握った手をゆっくり開き、一度、深く息を吸った。


「……分かった。お前の指示に従う」


 顔を上げ、彼女を見た。


「約束する」


 シオンは、ようやく小さく息を吐いた。


「私も、お前を置いては退かん」


「……頼む」


 シオンは頷き、宗一郎が開いた手へ一度目を落とした。彼はもう、その手を握り直さなかった。


「今日は休め。眠れなくても、横になっていろ」


 立ち上がってラミセクトを腰へ戻した彼女を、宗一郎は扉の前で呼び止めた。


「……シオン。助かる」


 彼女は振り返り、彼の顔を見た。


「礼にはまだ早い」


 宗一郎は頷いた。彼女もそれを確かめてから、部屋を出ていった。


 翌日は保存食を補い、旅の道具を点検して過ごした。宗一郎は通りを歩くたびに繋留塔へ目を向けたが、船は変わらず索に繋がれていた。夕方、シオンともう一度出発の予定を確かめ、宿へ戻った。

 出航の日、街に低い鐘の音が響いた。

 宗一郎は塔に架けられた通路を渡った。風に揺れる船体に合わせて足元の板が僅かに軋み、先を行く客たちが手荷物を抱え直している。船員の案内に従って乗り込むと、ほどなく索を外す声が聞こえた。

 繋留塔がゆっくり下へ離れ、重なっていた屋根の向こうに街全体が見え始めた。荷車の行き交う通りも、先ほどまで歩いていた人々も、次第に小さくなっていく。

 宗一郎は船縁に立ち、リフトハーフェンを囲む外壁と、その向こうに続く山並みを見ていた。あの山を越え、さらに進んだ先に、今はここから見えない街と家がある。

 春にも、元老院へ行く話をした。

 自分が何者なのか。なぜ老いず、あの黒い武器と共に生きているのか。知りたいという思いは、今も消えていない。だが、長い留守になると聞いたとき、2人を残して旅立つことはできなかった。

 家へ戻れば、凛が顔を上げた。アリアは椅子に座ったまま、遅かったと文句を言った。食卓には3人分の皿があり、湯気の立つ料理を前に、その日にあったことを話した。

 あの時間を置いていけなかったことを、後悔してはいない。あの日も、それからの日々も、家へ帰ってよかった。

 今は、その家に2人がいない。

 2人のために、自分を捜す旅を断った。そして今、2人を捜すために、同じ場所へ向かっている。

 風が上衣の裾を持ち上げた。宗一郎は船縁を握り、帰ったら、と考えた。何を話すか、何をしてやるか、その先はすぐには浮かばなかった。ただ、玄関の扉を開ける自分の隣に、2人がいてほしかった。

 シオンが少し離れた船縁へ来た。宗一郎の横顔を一度見てから、同じ陸地へ視線を向ける。彼女は何も尋ねず、街も山も雲の下へ隠れるまで、そこに立っていた。


 船では、地上にいたときよりも時間が長く感じられた。朝になると甲板へ出て、雲の影が滑っていく海面を眺めた。船は確かに進んでいる。それでも、見えるものは昨日とあまり変わらなかった。

 宗一郎は船室へ戻ると、持参した記録を広げた。消えた者の名前、数字が現れた時刻、そのときに行っていた仕事。シオンと一つずつ照らし合わせ、確認できた事実と、まだ推測でしかないことを分けた。


「こいつは追跡の情報を扱っていた。同じ部屋にいた者は、残っている」


 宗一郎が記録を示すと、シオンも別の頁を開いた。


「当時の担当も確かめよう。共通する仕事があるかもしれん」


 答えはまだ出なかったが、確かめたいことは少しずつまとまっていった。凛とアリアの名がある行へ来ると、宗一郎の目はそのたびに止まった。シオンは黙って待ち、彼が次の頁をめくってから話を続けた。

 夜、船室で目が覚めることもあった。壁が軋み、遠くで船員の足音がした。どこにいるのかを確かめたあと、宗一郎は再び横になった。ここでは、朝になっても凛が窓を開ける音はしなかった。

 そうして1週間が過ぎ、前方の雲が切れたとき、長い海岸線が現れた。

 アルヴェリア大陸だった。


 船を降りると、2人は再び地上を進んだ。目的地は、中央国家オルビナス・レグナにある元老院の所在地だった。

 街道には異なる土地の衣装を着た者が行き交い、荷車には見慣れない紋章が描かれていた。立ち寄った宿の壁には幾つもの言葉で案内が書かれ、食堂でも、宗一郎の聞き慣れない言葉が交わされていた。


「オルビナス・レグナという名は、古い言葉で世界を統べるという意味だ」


 シオンが、街道の先へ目を向けながら話した。


「この先は、人が増える。少し速度を落とすぞ」


「ああ」


 人の多い区間では歩き、街道が開けてから速度を上げた。幾日かを進むうち、遠くに石造りの都市が現れた。高い外壁の内側には幾つもの尖塔が立ち、その奥に、幅の広い階段と幾重にも連なる建物の屋根が見えた。

 シオンが奥の一角を指した。


「あそこだ。前に話した相手を訪ねる」


 宗一郎は鞄の肩帯を握り直した。ここに来れば答えが得られると、決まったわけではない。それでも、家で考えていたときには触れられなかった記録が、ようやく手の届くところにある。

 彼はシオンと並び、門へ続く道を進んだ。

 門を抜け、街の中央へ向かう大通りを進むと、建物の全容が見えてきた。

 中央元老院十三機関の本庁は、宮殿を思わせる荘厳な建物だった。白灰色の石壁に高い列柱が並び、中央の大きな円蓋を挟んで左右に翼棟が広がっている。両端の塔は、周囲の屋根を遥かに越えていた。

 広い階段の先には重い大扉があり、柱の間で、異なる紋章の旗が風に揺れていた。衛兵の立つ入口を、書類を抱えた職員たちが行き交っている。

 シオンは正面の階段から脇へ折れ、翼棟の入口へ向かった。宗一郎も彼女に続いたが、列柱の奥にある大扉へ、一度だけ目を向けた。


 シオンの知り合いは、元老院の庁舎で働いていた。受付で彼女の名を告げると、職員が奥へ入り、しばらくして落ち着いた身なりの男が現れた。


「お久しぶりです。こちらへいらっしゃるとは思っていませんでした」


 男はシオンを見てから、宗一郎へ目を向けた。


「こちらの方は」


「宗一郎だ。学院の失踪事件について、話がある」


 男は2人の旅装と、宗一郎の抱えた鞄を見た。


「承知しました。ここでは落ち着いて話せませんので、部屋へご案内します」


 案内された部屋には長い卓があった。男が廊下の職員へ声を掛け、面会中の取り次ぎについて頼んでいる間に、シオンが口を開いた。


「第七観測室の件と、照合したい」


 廊下を歩いていた黒髪の女が、足を止めた。


「あ、あの事件ですか?」


 男の声が低くなり、シオンが頷いた。


「今回も、消える前に数字が出ている」


 女の視線が開いていた扉へ向いたが、男が室内へ戻り、扉を閉めた。その姿は、宗一郎の席からは見えなくなった。

 宗一郎は鞄から記録を取り出し、卓の上へ置いた。


「最初は10,000だ。瞬きをすると表示が変わる。消える時刻は、人によって違った」


 男は紙を受け取り、読み始めた。頁が進むにつれ、眉間に皺が寄っていった。


「これだけ離れた場所でも、同じ現象が……」


「追跡の情報を扱った者も消えた。治癒師は残っている」


 宗一郎は、該当する記録を指した。


「当時、消えた者の仕事を知りたい。残った者の仕事もだ」


 シオンも男へ向き直った。


「以前、監視を緩めた理由を話してくれたな。今回も似ている。当時、数字の報告があったか確かめたい」


 男は紙の端を揃えたが、すぐには返事をしなかった。


「私だけの判断で、全てをお見せすることはできません。当時の記録は、閲覧できる者が限られています」


 宗一郎は卓の端へ手を置いた。男はその動きを見て、言葉を続けた。


「ですが、照合の申請はできます。今回の資料を根拠として、過去の事件との関連を調べる必要があると伝えます。お持ちになった記録は、お預かりしてもよろしいでしょうか」


「写しだ。元は学院にある」


 シオンが答えると、宗一郎も頷いた。


「頼む。俺と暮らしている2人も消えた」


 男は顔を上げ、宗一郎を見た。宗一郎はそれ以上言葉を足さず、返事を待っていた。


「……承知しました。資料を確認し、申請を進めます。滞在先を教えていただければ、返答があり次第、お知らせします」


 宗一郎は手を卓から離した。シオンと相談して滞在先が決まり次第知らせると伝え、男が記録を収める様子を見守った。


 面会を終えると、廊下の窓に夕日が差していた。宗一郎はシオンと並んで歩きながら、今聞いた説明を思い返していた。

 ここまで来ても、すぐに記録を見られるわけではなかった。申請の返答を待つ必要がある。分かっていたはずのことだったが、船を待ったときと同じ重さが、胸に残った。

 階段へ向かおうとしたところで、背後から控えめな声がした。


「……失礼します。少し、お時間をいただけますか?」


 振り返ると、肩ほどまでの黒髪の女が立っていた。落ち着いた服装で、片手に薄い書類の束を持っている。追ってきたのだろう。呼吸を一度整えてから、2人へ近づいた。

 シオンが足を止めた。


「どうした?」


「先ほど、扉の前でお話が聞こえました。第七観測室の件と……消える前に、数字が出たと」


 宗一郎は彼女へ向き直った。


「あの事件を知っているのか」


 女は書類を持つ手を、もう片方の手で押さえた。


「その前に、一つだけ伺ってもよろしいでしょうか。今回、どなたが……」


 言いかけて止まったのを見て、宗一郎は答えた。


「俺と暮らしている2人だ。目の前で、消えた」


 女の目が僅かに揺れた。言葉を探すように唇が動いたが、声にはならなかった。遠くで扉が閉まり、その音が廊下を伝わってきた。

 やがて女は息を吸い、宗一郎を見た。


「リゼット・ベルクレールと申します」


 丁寧な声だった。しかし、次の言葉を出すまでには、少し時間がかかった。


「父も、第七観測室にいました」


 宗一郎は、彼女の手元へ目を落とした。書類の縁が、握った指の形に曲がっていた。リゼットはそれに気づいたように手を緩めたが、紙から指を離すことはなかった。


「……今も、捜しているのか?」


 リゼットは宗一郎を見て、頷いた。


「はい」


 宗一郎も、ゆっくりと頷き返した。それから、彼女の次の言葉を待った。


 父が帰ってこなくなってから、22年。

それでも彼女は、まだ探し続けていた。

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